第4話 崩れ落ちる祈り
黒い奔流が広場を覆い、アレンの髪を弄ぶ。
空気は焼けるように重く、鉄錆の臭気が喉を刺した。
逃げ惑っていた人々の声も、いまは祈祷師の叫びと魔獣の咆哮にかき消されている。
アレンは剣を握り締め、ゆっくり息を吐いた。
「……フィオナ!」
背後を振り返らず、声を投げる。
「俺が道を作る!光で一気に祓ってくれ!」
一瞬、答えは返らなかった。
だが次に響いた声は、揺らがぬ強さを宿していた。
「――はい!」
アレンは息を整え、剣を振り上げる。
炎をまとった赤熱の刃がうなり、横一文字に振り払う。
炎の斬撃が奔流を切り裂き、祈祷師の周囲を固めていた瘴気魔獣を一掃する。
その刹那、背後から祈りが放たれる。
澄み渡る光が波となって広場を、そして魔獣を覆う。
瘴気の影が悲鳴を上げ、もつれた鎖のように崩れ、消えていく。
「行け!」
ジークの怒声が響く。アレンはうなずき、一気に地を蹴った。
道が開けた。祈祷師まで、ただ一直線。
刃が届く。そう思った瞬間、瘴気が祈祷師の体を包み込み、壁のように立ちふさがった。
「くっ!」
勢いのまま斬撃を叩き込む。火花が散り、鋼を打ったような衝撃が腕に響く。
続けて二度、三度――それでも突破できない。
祈祷師が喉の奥で笑った。
「竜が守ってくださる……これこそ真の救済だ!」
瘴気に濁った瞳は狂気に光り、崇拝の熱に濡れている。
「アレン!首飾りを奪って!」
フィオナの声。
振り向けば、両手を掲げる彼女の掌に巨大な光が集まっていた。槍の形を成し、白々と輝いている。
アレンが時間を稼げたからこそ完成した祈り。
「――ホーリーランス!」
叫びと同時に、光の槍が放たれる。一直線に奔る閃光が瘴気の壁へ突き刺さった。
抵抗するように黒い渦が逆巻くが、ひびが走り、やがて弾け飛ぶ。
アレンは踏み込み、首飾りの鎖が祈祷師の腕に根のように絡みついているのを見た。
――奪うには、切るしかない。
祈祷師の両腕を、断ち切った。
絶叫が広場を裂き、赤黒い液体が勢いよく噴き出す。
温かい滴りが頬に飛び、アレンは息を呑んだ。人を斬った――その実感が腕に残る。
両腕が落ちる音とともに、首飾りが転がり、冷たい光を放った。
「竜よ……救い……を……」
その声は、かすかな祈りに聞こえた。
だが次の瞬間、祈祷師の体が痙攣した。
皮膚を黒い血管が這い、骨が軋み、肉がひしゃげる。
呻きが言葉を失い、獣の咆哮へ変わっていく。
人の形は膨れあがりながら崩れていった。
人だった顔は大きく膨らみ、なお二本の脚が残る異様さに、アレンは思わず左手で口を押さえる。
――人が、瘴気魔獣に変わる。その光景は恐怖と嫌悪をねじ込むように胸を締めつけた。
「まだ……!」
フィオナが駆け出そうとする。
杖を落とし、震える手を必死に前へ伸ばし、両手に光を集め、声を張り上げた。
「まだ助けられるはず!」
アレンの心臓が凍りついた。違う。もう手遅れだ。
だが――彼女の言葉が刃となり、自分の躊躇を炙り出す。
フィオナの言葉をすぐには否定できなかった。
咄嗟にフィオナの腕をつかみ、荒々しく引き寄せた。
「フィオナ、やめろ!」
驚いたように見開かれた翠の瞳。
その奥には確かな光があった。
あれを見てもなお、彼女は“救える”と信じている。
「でも……!」
「無理だ!……もう、戻れない」
絞り出した声は、フィオナの信念を斬り裂くようで、胸を裂く痛みに変わる。
発した言葉が、己自身をも傷つけていた。
フィオナの手から零れた光が消え、彼女は言葉を失った。
その瞬間、影が横を駆け抜けた。
「迷うな!」
ダリオスが轟くような怒声とともに低く叫び、迷いなく祈祷師だったものへ斬りかかる。
剣が閃き、膨れ上がった首を一息に断ち切った。
断末魔。崩れ落ちる人影。
やがて形はぼろぼろに崩れ、黒いもやとなって散った。
そこに残骸は何一つなかった。
広場に静寂が落ちる。
先ほどまで満ちていた祈りの声は消え失せ、人々はただ呆然と立ち尽くす。
その沈黙は、失われたものの重さを刻んでいた。
フィオナは唇を噛み、ゆっくりとうつむいた。
人ならば骸が残る。だが何も残らない――それこそが答えだった。
「……救えるものと、救えぬものがある。それを、忘れるな」
ダリオスの低い声が響いた。
その言葉は剣よりも重く、戦いの終わりを告げる鐘のように胸へ沈んでいった。




