第1話 日常と異変
アレンは剣に手を添え、セレナ村へと続く小道を歩いていた。
まだ若いはずの草原は、もはや草原とは呼べなかった。
青さを失った草は茶色く枯れ、吹く風は湿り気を帯びて肺に重く沈む。
地面には、そこかしこに黒い染みのような影が広がり、そこから瘴気がゆらゆらと立ちのぼる。
腐臭とも土ともつかない匂いが鼻を刺し、喉をひりつかせた。
「ったく……何度見ても嫌な感じだな」
斜め後ろを歩くジークが、頭の後ろで腕を組みながらぼやいた。
赤茶色の短髪は少し跳ね、焦げ茶の瞳には人情味が宿る。
鎧は最小限で軽装ながら、中肉中背の体格はがっしりとしていて、頼れる剣士の風格を漂わせていた。
兄弟子のその姿は、気だるげに見えても足取りに緩みはない。
アレンたちにとっては、こうした異常な光景すら“いつものこと”になりつつあった。
「慣れる気もないけどな」
アレンは短く返し、足を止めた。
風の流れが変わった――胸の奥がざわめく。
剣の柄を握る指先に自然と力がこもった。
耳を澄ませば、草むらの奥から低いうなりのような音が聞こえてきた。
湿った空気がさらに重くなり、額にじっとりと汗が滲む。
左手をそっと上げ、ジークを制する。
カサリと軽い、葉の擦れる音がした。
黒ずんだ狼のような影が、枯れ草の中から這い出してくる。
だが、それはすでに生き物の形をした“何か”だった。
皮膚は爛れ、所々から骨が突き出し、濁った赤黒い瞳がじっと二人を射抜く。
踏み出すたびに黒い痕が大地に染み、膿が垂れ落ちた。
吠えると同時に口の奥からどす黒い瘴気が吐き散らされ、近くの草が音もなくしおれていく。
「……普通の魔獣じゃねえな。瘴気に喰われてやがる」
低く呟いたジークは、すでに剣を抜いていた。
アレンは静かに頷き、鞘から刃を滑らせる。
瘴気魔獣――倒しても瘴気をまき散らし、傷を負えば肉体ごと侵される。
触れるのは危険だ。
対処法はひとつ。距離を保ち、仕留めること。
魔獣が牙を剥き、喉の奥で低く唸った。瘴気が地を這い、空気を濁す。
「来やがったな……!」
ジークが一歩前へ出て、剣を構える。
魔獣の牙を受け流し、返す刃で横薙ぎに払う。
血ではない黒い液が飛び散り、土に落ちて泡立った。
しかし瘴気を纏った肉体は裂けても崩れず、じっとりと粘性のある黒が滴った。
「ちっ……効きが悪ぃ!」
息を整えていたアレンは、その隙を逃さず踏み込み、短く吐き捨てるように呟いた。
「――燃えろ」
次の瞬間、アレンの剣を赤い奔流が走った。
刃が炎と風を絡み合わせた魔法をまとう。
光を帯びた剣が闇を裂き、魔獣の影を一閃した。
悲鳴が瘴気の渦に呑まれ、肉体は黒い灰となって崩れ落ちる。
だが――。
そこに残ったのは“空白”ではなく、さらに濃くなった瘴気の染みだった。
地面の黒がじわじわと広がり、灰のように舞い上がるたび、喉の奥に鉄錆のような味がまとわりつく。
腐った息吹は消えるどころか、勝ち誇るように空気へ滲み出していく。
ジークが顔をしかめ、咳をこらえながらぼやいた。
「……また詠唱なし?化け物かよ、お前」
軽口のはずが、瘴気への不快感もあり、声には苛立ちと疲れが混じっていた。
アレンは答えず、黒い染みを睨みつける。
勝ったはずなのに、何も終わっていない――その現実だけが重くのしかかる。
ジークが肩をすくめ、真顔に戻る。
「倒してもこのざまか。……瘴気ってやつは、しぶといな」
茶色の風が吹き抜けるたび、黒い染みはまた少し広がる。
アレンは低くつぶやいた。
「……消えない」
勝利の余韻はない。
胸の奥に積もるのは、不安ばかり――アレンはただ、その場に立ち尽くしていた。




