第3話 影を纏う男
崩れた石壁の前で、息を潜めるような静けさが広がっていた。
光を失った碑文を見て、アレンがわずかに息を吐いた、その時――。
「へぇ……物好きはお前らか」
不意に頭上から降ってきた声に、全員の背筋が硬直した。
瓦礫の上から小石がぱらりと落ち、闇の中に人影が滑り出る。
黒革の軽装に身を包み、痩せた体に、逆手に弄ぶ短剣はまるで体の一部のように馴染んでいた。
黒髪は無造作に跳ね、整った印象はまるでない。だが灰色の瞳だけは鋭く、獲物を見透かす獣のような冷たさを帯びていた。
「……よくもまあ、勝手に触ってくれるな。ここは神聖な場所だ。外の連中が触れていいもんじゃない」
影をまとったような声に、ジークが鼻で笑った。
「神聖だぁ? ただのガラクタだろ」
挑発めいた返しに、男は肩をすくめて笑う。
「……バカか。無知ってのは罪だな」
短剣を指の間で軽やかに回し、刃が淡い光を反射する。
「ここは“環”の守る聖域だ。余所者は引っ込んでろ」
その名を聞いた瞬間、場の空気が張り詰めた。
「“環”……?」
フィオナが小さく呟く。彼女の目は驚きに揺れていた。
アレンも息を呑む。アルデンの街で、耳にした名を思い出す。
「救済の環……!」
ダリオスが低く言った。その声音には緊張と、かすかな怒りが混じる。
「……確か、竜を拝むって……あの話か」
「はっ、まさか本当にいたとはな」
「……やはり」
男は、にやりと口端を上げる。
「知ってるか、なら話が早い。俺たちは遺跡を“保護”するために来たんだよ。荒らされては困る」
「保護だぁ?」
ジークが鼻を鳴らす。
「どう見ても廃墟じゃねえか。ただの瓦礫にしか見えねえぞ」
「見えないならそれでいいさ。お前みたいな無知にはな」
男の声は冷ややかで、皮肉が混じっていた。
言葉の刃が交わるような緊張が、狭い空間を満たしていく。
フィオナは両手を胸に寄せる。
「……“救済の環”は……人を救うって……」
弱々しくも声を出す。
その瞬間、男の灰色の瞳がフィオナに向けられた。
「救うさ。だからこそ、余所者が触れていい場所じゃない。わかるか?」
冷たくも確信に満ちた声音。
アレンは胸の奥で何かがざわめくのを感じた。自分たちが踏み込んでしまったものが、ただの遺跡ではないことを、男の視線が突きつけていた。
「……俺たちは、答えを求めているだけだ」
アレンが剣の柄に手をかけると、男の瞳が細められた。
「答え?……答えなんて一つしかねぇ。竜は救済。碑文もその証だ」
「竜が救済だと? 竜は禍をもたらす存在だ」
ダリオスが鋭く言い返す。
「解釈を誤ってるのはどっちだろうな」
男はくつくつと笑い、双短剣を握り直した。刃先がわずかに瘴気を払うように光を受け、鋭い光条を走らせる。
「……口でわからないなら、刃で示すしかないな」
ピンと張りつめた沈黙。
ジークが剣を肩に担ぎ、挑発的に吐き捨てる。
「おう、望むところだ。こっちはもう瘴気にうんざりしてんだよ。さっさと蹴散らして帰らせてもらうぜ」
「……なら来い」
灰色の瞳が鋭く光り、男が足を踏み出した瞬間、遺跡の静寂が破られた。
アレンたちも同時に構え、剣と短剣が交わる寸前の緊張が空気を震わせる。
次の瞬間、刃と刃がぶつかり合う音が、瘴気すら震えるように遺跡に響き渡った。
「……無知は罪だって言ったろ」
――影をまとう男との、最初の刃の応酬が始まった。