第9話 低レート卓での連勝、謎の少女
プレイヤー812、あのオーク系獣人との死闘を制した俺たちは、深淵区のオートアリーナで少しだけ知られた存在になっていた。もちろん、「深淵の英雄」だとか、そんな大げさなものではない。ここは依然として鉄錆と絶望の匂いが支配する船の底だ。だが、俺たちが対戦台に座ると、以前よりも他の奴隷たちが遠巻きに観戦する事が増えたし、「よう、774番! 今日も勝て!」などと声をかけられることも増えた。
連勝を重ねたことで、俺たちの懐具合も少しだけマシになった。最近では、配給の味気ないペーストだけでなく、換金所で売られている少しだけ風味のある(それでも美味いとは言えないが)保存食や、錆臭くない清潔な水を買うこともできるようになった。ミミには、時々甘い干し果物を買ってやることもできた。彼女がそれを小さな口で頬張る時の嬉しそうな顔を見るのが、今の俺の数少ない楽しみの一つだった。
「ジンさん、これ、美味しいね!」
「そうか。良かった」
ささやかな変化だが、それは確かに俺たちの心を少しだけ潤してくれていた。ミミも以前のように常に怯えているわけではなくなり、アリーナでの俺の戦いを隣で応援する際には、真剣な表情で相手プレイヤーを観察し、的確な助言をくれる頼もしいパートナーとなっていた。
俺たちはその後も、低レート卓で着実に勝利を重ねていった。あのオークとの戦いで得た経験は大きく、俺は様々なシナジー構成やカウンター戦略を試し、ミミの観察眼もさらに磨かれていった。相手の癖、コインの使い方、リロールのタイミング、視線の動き……それらの情報から相手の戦略を予測し、その裏をかく。「もふもふオートアリーナ」というゲームの奥深さに、俺はのめり込み始めていた。
だが、連勝が続くにつれて、俺の心の中には別の感情が芽生え始めていた。それは、物足りなさ……そして、焦りにも似た渇望だった。
低レート卓のプレイヤーたちは、もはや俺たちの敵ではなかった。もちろん油断すれば負けることもあるが、戦略と情報、そしてミミとの連携があれば、勝率は圧倒的に高かった。しかし、その勝利から得られるものは少ない。コインも、経験も、そして何より、ギリギリの戦いでしか得られないであろう、本当の実力も。
俺は、あのオークとの戦いで最後に引き当てた[レジェンド]ユニット、クロノ・ウィッチのことを思い出していた。あの力は、俺自身の力ではない。ただの幸運だ。あんな奇跡が、今後も起こるとは限らない。運だけに頼っていては、この船で成り上がることはできない。もっと確かな実力を身につけなければ。
そのためには、もっと強い相手と戦う必要がある。もっと厳しい環境で、自分の戦略を試し、磨き上げなければならない。そして、そのためには……やはり、あの場所へ行くしかない。高レート卓へ。
そんなことを考えていたある日だった。いつものようにオートアリーナのコーナーで次の対戦相手を探していると、ふと、奇妙な視線を感じた。視線の先、少し離れた柱の影に、一人の少女が立っていた。
銀色の、月光のような髪。ピンと立った猫の耳としなやかな尻尾。他の奴隷たちが纏う薄汚れた衣服とは明らかに違う、動きやすそうでいてどこか洗練された黒基調の服装。そして何より印象的なのは、全てを見透かすような、冷めた、しかし強い光を宿した瞳だった。彼女は、俺とミミの戦いを、少し離れた場所からじっと観察していたようだった。
俺が視線に気づくと、彼女は特に驚いた様子もなく、むしろ面白がるように口元に微かな笑みを浮かべた。そして、猫のように滑らかな足取りで、こちらに近づいてきた。
「……あなた、なかなか面白い戦い方をしていた」
鈴を転がすような、しかしどこか温度の低い声だった。俺は警戒心を解かずに相手を見据える。深淵区で、こんな雰囲気を持つ少女は見たことがない。少なくとも、俺のような最下層の奴隷ではないだろう。
「……誰だ?」
俺は短く問い返した。
「警戒してるの? 別に取って食おうってわけじゃない」
少女は肩をすくめる。
「ただ、あなたのゲームを見てて、少し興味が湧いただけ。そのウサギの子も、なかなか鋭い」
ミミが俺の後ろに隠れるようにして、怯えた目で少女を見ている。
「……何の用だ?」
俺は重ねて尋ねた。目的もなく奴隷に話しかけてくる者など、この船にはいない。
「そうね……強いて言うなら、忠告?」
少女は悪戯っぽく笑う。
「あなた、ここで勝ち続けて、少し自信がついちゃったみたい……でもそれで満足してるの?」
図星だった。俺の内心を見透かされたようで、思わず息を呑む。
「低レートでいくら勝ったって、稼げるコインなんてたかが知れてる。それに、本当の強さは身につかない。いつまでも、この掃き溜めの……井の中の蛙のままでいいの?」
「……!」
「上には上がいる。本物の化け物……奴隷を駒としか思ってないような、厄介な連中……」
彼女は楽しむように言葉を続ける。
「あなたのその知恵と、その子の目が、どこまで通用するのか……試してみたくない?」
挑発的だが、その言葉は奇妙なほど俺の心に響いた。
「……高レート卓、か」
「そう。まあ、噂くらいは耳にするわよね」
少女はくすくすと笑う。
「あそこは、こことは次元が違うわよ。本物の実力と、運と……それから、ちょっとズルい手も使わないと、生き残れないかもしれない」
「ズルい手……?」
「ふふ……」
彼女は肩をすくめ、それ以上は語ろうとしなかった。
「ま、せいぜい頑張ることね。あなたみたいなのが上に来たら、少しは面白くなるかもしれないし」
それだけ言うと、少女はひらりと身を翻し、雑踏の中へと消えていった。まるで幻のように、その存在感は希薄で、掴みどころがなかった。
「……今の、誰だったんだろう?」
ミミが俺の袖を引きながら、不安そうに尋ねる。
「さあな。だが……」
俺は少女が消えた方向を見つめながら言った。
「彼女の言う通りかもしれない。俺たちは、もっと上を目指すべきだ」
ルナ、という高レート卓で活躍する銀髪の猫獣人がいるという噂を聞いた事があった。彼女がそうかもしれない。
彼女との会話は、俺の心の中にあった高レート卓への挑戦という選択肢を、明確な決意へと変えさせた。リスクは高い。だが、リターンも大きいはずだ。そして何より、俺は自分の実力を試したい。
「ミミ」
俺はミミに向き直り、強い決意を込めて言った。
「高レート卓へ行かないか。俺たちの本当の戦いは、ここからだ」
ミミは一瞬、息を呑んだが、すぐに覚悟を決めたように、力強く頷いた。その瞳には、不安よりも、俺への信頼と、未知なる挑戦への強い光が宿っているように見えた。
俺たちは、慣れ親しんだ低レートエリアの喧騒を背に、深淵区のさらに奥深く、より危険で、しかしより大きな可能性が眠る場所へと、新たな一歩を踏み出したのだった。