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第3話 賭場の偵察

 決意を共有した俺たちは、静かに歩き出した。目指すは、深淵区の一角にあるという、奴隷たちのためのゲームセンターだ。巨大カジノ船「ラ・モフューナ」の最下層、この鉄と錆と絶望で塗り固められた奈落にも、歪んだ形ではあるが「娯楽」と「一攫千金」のチャンスが存在する。それが俺たちにとって希望となるか、更なる絶望への入り口となるかは分からない。だが、進むしかない。


 一歩足を踏み出すたびに、錆びた鉄の床が鈍い共鳴音を立てる。通路は薄暗く、壁に埋め込まれたランプの頼りない光が、俺たちの影を長く引き伸ばしては歪ませた。空気は重く、湿っている。壁からは常にじっとりとした水滴が滲み出ており、それが床に溜まって浅い水たまりを作り、俺たちの汚れた靴音に「ぴちゃり」という湿った音を混ぜる。鉄錆の匂い、オイルの匂い、そして生活排水とゴミが混じり合ったような、吐き気を催す腐臭。この悪臭には未だに慣れることができない。


 すれ違う奴隷たちの多くは、虚ろな目をしている。生ける屍。それが彼らの姿を最も的確に表す言葉かもしれなかった。過酷な労働と、僅かな希望すら見出せない日々に、彼らの魂は擦り切れ、摩耗しきっているのだろう。時折、こちらに猜疑心や、あるいは飢えた獣のような欲望を孕んだ視線を向けてくる者もいる。この場所では、誰もが生き残るのに必死だ。他人の持ち物を奪うこと、他人を蹴落とすことなど、日常の一部なのだ。


「……ジンさん」


 隣を歩くミミが、小さな声で俺の袖をクイッと引いた。


「あっち……人が、たくさん……」


 彼女が指差す方向を見ると、通路の先の曲がり角から、屈強な体つきの奴隷たちが数人、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。その中には、先ほどミミに絡んでいた、顔に傷のある男の姿もある。まずい、鉢合わせるのは避けたい。


「こっちだ」


 俺はミミの手を引き、咄嗟に近くにあった巨大な配管の影へと身を滑り込ませた。ミミも心得たもので、音もなく俺の後に続く。


「……しっ」


 ミミは人差し指を口に当て、息を潜める。彼女の長いウサ耳が、ぴくぴくと神経質そうに動き、周囲の音を探っている。あの優れた聴覚が、再び俺たちを救ってくれるかもしれない。俺たちは息を殺し、冷たい配管に背を預けてじっと待った。


 やがて、奴隷たちの荒々しい足音と、がなり立てるような会話が近づいてくる。


「ちくしょう、あのクソ看守め、見回り増やしやがって……」


「おかげで今日の『上がり』は最低だぜ」


「あのウサギ女から巻き上げ損ねたのが痛えな」


「ああ? またあのチビか。いい加減、締め上げねえと分からねえようだな」


「次に捕まえたら、ただじゃおかねえ……」


 背筋が凍るような会話だ。彼らは俺が看守を騙ったことに気づいていないようだが、ミミへの執着は変わっていない。やはり、彼女が一人でいるのは危険すぎる。


 彼らが通り過ぎ、足音が完全に遠ざかるのを待って、俺たちはほっと息をついた。


「……行ったみたい」


 ミミが囁く。


「ああ。助かったよ、ミミ。君がいなければ、また面倒なことになっていた」


「う、ううん……。でも、あの人たち、私のこと……」


 ミミの声が不安に曇る。


「大丈夫だ。これからは俺もいる」


 俺は努めて力強く言った。


「一人で抱え込むな。何かあったらすぐに俺を呼ぶんだ」


「……うん」


 ミミは小さな声で頷いたが、その表情はまだ硬い。


 俺たちは再び歩き出した。先ほどの出来事で、俺たちの置かれた状況の厳しさを改めて思い知らされた。同時に、ミミを守らなければならないという責任感も強くなる。彼女は単なる協力者ではない。俺にとって、この奈落で初めて見つけた、守るべき存在かもしれない。


「なあ、ミミ」


 少しでも彼女の気を紛らわせようと、俺は話題を変えた。


「君は……ここに来る前は、どんなところにいたんだ?」


 俺の問いに、ミミは少し驚いたように目を見開いた。そして、少し躊躇った後、ぽつりぽつりと話し始めた。


「……私、北の方の、小さな森の村で生まれたの。お父さんもお母さんも、ウサギの獣人で……優しかった」


 彼女の声には、遠い過去を懐かしむような響きがあった。


「でも、村で悪い病気が流行って……みんな苦しんで……。お父さんとお母さんも、私の薬を買うために、街の怖い人からお金を借りて……」


 ミミの声が震え始める。


「結局、二人とも死んじゃって……借金だけが残って……私は、そのカタに……」


 そこまで話すと、彼女は俯いてしまい、小さな肩が震えている。


 俺はかける言葉が見つからなかった。あまりにもありふれた、そして残酷な話だ。この船には、そんな境遇の者たちが掃き溜めのように集められている。


「……そうか」


 俺はただ、それだけ言うのが精一杯だった。


「辛いことを思い出させたな。悪かった」


「ううん……いいの」


 ミミは顔を上げ、涙を堪えるように唇をきゅっと結んだ。


「ジンさんは……どうしてここに?」


 今度は俺が話す番か。俺は少し考えた後、当たり障りのない範囲で話すことにした。


「俺の親父がな、人の良さだけが取り柄みたいな人で……悪徳商会の口車に乗せられて、とんでもない額の借金を背負わされたんだ。気づいた時にはもう手遅れで、俺が代わりにここに送られた。まあ、そんなところだ」


「……そう、なんだ」


 ミミは同情するように俺を見つめた。


「ジンさんも……大変だったんだね」


「ああ。だが、過去を嘆いても仕方ない。今は、ここからどう抜け出すか、それだけを考える」


 俺は敢えて強い口調で言った。感傷に浸っている暇はないのだ。


 ミミも俺の意図を察したのか、こくりと頷いた。


「うん。そうだね」


 共有された過去が、俺たちの間の距離を少しだけ縮めた。俺たちはもう、単なる奴隷番号774と、名前も知らないウサギ獣人の少女ではない。ジンとミミ。それぞれの過去を背負い、未来を切り開くために手を取り合った、二人の協力者だ。


 歩き続けるうちに、前方の通路が少しだけ明るくなり、騒々しさが増してきた。ゲームセンターが近いのだろう。壁の落書きも、より過激で、直接的な言葉が増えてくる。


「モフコインは命より重い」

「みんな最後は罪人になる」

「今日の勝者は明日の敗者」

「ラ・モフューナは汝を見ている」


 まるで、この場所の歪んだ信仰を書き連ねた経典のようだ。


「ジンさん、見て」


 ミミが壁の一角を指差した。そこには、他の落書きとは少し違う、奇妙なマークが描かれていた。渦巻くような模様の中に、一つだけ大きな目があるようなデザインだ。


「これ、時々見るんだけど……なんだろう?」

「さあな」


 俺も初めて見るマークだった。


「気味が悪いな。何かの組織の印か……あるいは、ただの悪戯か」


 深く考えるのはやめた。今は目の前のことに集中すべきだ。


 ゲームセンターに近づくにつれ、すれ違う奴隷たちの様子も変わってくる。虚ろな目をしていた者たちに、ギャンブルへの期待か、あるいは恐怖からか、異様な熱が宿り始めている。


「今日のオートアリーナ、新種のもふモンが追加されたらしいぞ!」

「本当か!? だが高レート卓だけだろ?」

「ああ。俺たちには関係ねえ……」

「ちくしょう、いつか俺も高レートで勝って、あんな奴らを見返してやる……!」

「夢見てんじゃねえよ。下手に手を出しゃ、『貸元』の餌食になるだけだ」

「710番の奴みたいにな……あいつ、昨日『下』に連れて行かれたらしいぜ……」

「ひっ……!」


「下」……「罪人」……その言葉の持つ重みが、生々しい現実味を帯びて俺に迫ってくる。この船では、ギャンブルは単なる娯楽ではない。それは生存競争そのものであり、敗北は文字通りの「死」か、それ以上の何かを意味するのだ。


「……怖いね」


 ミミが再び俺の袖を掴んだ。彼女の優れた聴覚は、俺以上に彼らの絶望や恐怖を感じ取っているのかもしれない。


「ああ、怖いさ」


 俺は正直に認めた。


「だが、怖がってばかりもいられない。俺たちには、これしかないんだ」


 俺はミミの手をそっと握った。


「大丈夫。俺がついている」


「……うん」


 ミミは俺の手を握り返し、少しだけ顔を上げた。


 そして、俺たちはついに、その場所にたどり着いた。

 深淵区のゲームセンター。

 そこは、想像していた以上に広く、そして混沌としていた。入り口は大きく開かれ、中からはむせ返るような熱気と騒音、そして様々な匂いが渦巻いて流れ出してくる。汗の匂い、安酒の匂い、ヤニの匂い、そして微かに漂う血の匂い……。


 中へ足を踏み入れる。天井は低く、錆びた配管が剥き出しなのは通路と同じだが、壁にはけばけばしい色の電飾が取り付けられ、チカチカと明滅を繰り返している。フロアには、様々な人種――人間、猫、犬、爬虫類系の獣人、さらには見たこともないような種族の奴隷たちが、肩をぶつけ合いながらひしめいていた。皆、一様に血走った目で、あるいは疲れ切った顔で、それぞれのゲームに興じている。


 入り口近くでは、数人が集まって単純なダイスゲームに興じていた。床に直接描かれた円の中にサイコロを投げ入れ、出た目を競うだけの原始的なギャンブルだ。僅かなチップがやり取りされ、勝った者の下品な笑い声と、負けた者の悪態が響く。


 少し奥へ進むと、壁際には古びたスロットマシンのような機械が数十台並んでいた。レバーを引くガチャガチャという音、回転するリールの電子音、そして時折鳴り響く安っぽい当たりBGM。しかし、当たっている者はほとんどいないようで、多くのプレイヤーは眉間に皺を寄せ、無心にレバーを引き続けているだけだった。


 更に奥、フロアの中央付近に、ひときわ大きな人だかりができている場所が見えた。そこが、俺たちの目的地、「もふもふオートアリーナ」のコーナーらしかった。非常に多くの数が設置されたフィールドでは、デフォルメされた、しかしどこか愛嬌のあるモンスター――「もふモン」たちが、自動で動き回り、スキルを放ち、戦いを繰り広げている。


 対戦台を囲むプレイヤーたちは、食い入るように盤面を見つめている。周りでは、さらに多くの奴隷たちが観客として集まり、野次を飛ばしたり、勝敗に賭けたりしているようだった。ホログラムの光がプレイヤーたちの顔を照らし、期待と焦燥、歓喜と絶望、あらゆる感情がその表情に浮かび上がっては消えていく。


 ここは、奈落の底に設けられた、歪んだ娯楽場。そして、奴隷たちに残された、最後の希望への入り口。


 俺はミミの手を引き、人混みをかき分けながら、オートアリーナのコーナーに近づいた。プレイヤーたちの真剣な眼差し、目まぐるしく変わる盤面の状況、飛び交う仮想通貨モフコインの表示。全てが未知の世界であり、同時に俺の闘争心を激しく掻き立てた。


 フロアの隅には、薄汚れたカウンターがあり、「換金所」と書かれた古びた看板がぶら下がっていた。数人の奴隷が列を作り、看守に監視されながら、なけなしの労働チップをモフコインに換えている。彼らの表情は一様に暗い。だが、ギャンブルに参加するためには、ここで軍資金を用意するしかないのだ。


「……すごい人の数だね」


 ミミが圧倒されたように呟いた。周囲の熱気と殺伐とした雰囲気に、彼女は少し怯えているようだった。


「ああ。だが、よく見てみろ。本当に楽しんでいる奴は少ない」


 俺は言った。


「みんな、必死なんだ。ここで勝つことが、彼らにとっての全てなんだろうな」


 勝てば僅かな贅沢と明日への希望を。負ければ更なる借金と破滅を。そんなギリギリの状況で、彼らは戦っている。俺たちも、これからその戦いに身を投じるのだ。


 俺は改めてミミに向き直り、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。これから始まることの過酷さを、彼女にも理解してもらう必要がある。


「……本当にやるか? ミミ」


 俺は静かに、しかし強い意志を込めて尋ねた。


「ここで負ければ、俺たちは今度こそ『下』に送られるかもしれない。文字通り、全てを失うことになる。それでも……やるか?」


 ミミはごくりと唾を飲み込み、小さな体を震わせた。大きな潤んだ瞳が、恐怖に揺れている。オートアリーナの熱狂と、負けた者たちの末路を目の当たりにして、当然の反応だ。彼女は俺の目から視線を外し、自分の足元を見つめた。数秒間の沈黙。俺は彼女の答えを待った。ここで彼女が「嫌だ」と言えば、俺は一人で挑むか、あるいは別の道を探すしかない。


 やがて、ミミはゆっくりと顔を上げた。その瞳にはまだ恐怖の色が残っていたが、同時に、これまで見たこともないような、強い決意の光が宿っていた。


「……やる」


 彼女は震える声で、しかしはっきりと答えた。


「ジンさんと一緒なら……私、やるよ!」


 その言葉に、俺の覚悟も完全に定まった。


「……よし」


 俺は頷き、換金所へ向かおうとした。俺自身の労働で得たチップはほとんどない。だが、ミミのためにも……


「待って、ジンさん」


 俺の思考を読み取ったかのように、ミミが俺を呼び止めた。そして、彼女はずっと胸の前で握りしめていた、あの小さな布袋を両手で俺の前に差し出した。それは、先ほどガラの悪い奴隷たちから必死に守っていた、彼女のなけなしの全財産のはずだ。


「これ……使って」


 袋の口が少し開き、中から鈍く光る金属製の労働チップが数枚、顔を覗かせた。決して多い額ではない。だが、今の俺たちにとっては、未来を賭けるための全てだ。


「ミミ……? これは君の大事な……」


 俺は驚き、戸惑った。これを俺が使うわけにはいかない。


「ううん、いいの」


 ミミは小さく、しかし力強く首を振った。


「これは、私の決意だから。ジンさんと一緒に戦うって決めたから。だから……これ、私たちの、最初の軍資金にしてほしいの」


 私たちの――その言葉が、再び俺の胸を強く打った。彼女はもう、守られるだけの存在ではない。共に戦う覚悟を決めた、対等なパートナーなのだ。このチップは、その覚悟の証。俺が受け取らなければ、彼女の決意を踏みにじることになる。


「……分かった」


 俺は深く頷いた。


「必ず、無駄にはしない。君の……いや、俺たちの希望のために」


 俺はミミの小さな手から、布袋をそっと受け取った。その軽さの中に、とてつもなく重い信頼と決意を感じる。ミミは、少しだけ頬を赤らめ、しかし満足そうな、誇らしげな表情で頷き返した。


「ありがとう、ミミ」


「……うん!」


 俺はミミから託されたチップを、今度は自分の手で強く握りしめた。そして、今度こそ迷いなく、換金所へと向かう。これから始まる戦いへの覚悟と、二人分の希望、そして託された決意の重さを胸に。


 ミミも隣で、小さな手をぎゅっと握りしめ、前を見据えている。その瞳にはもう、怯えだけではない、新たな光――困難に立ち向かおうとする、強い意志の光が灯っていた。

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