表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/18

第10話 高レート卓へ

 低レートエリアから離れるにつれ、周囲の空気は明らかに変わっていった。騒々しさが消え、代わりに重く、冷たい静寂が支配し始める。壁の錆はさらに深くなり、悪臭もこれまでとは質の違う、腐敗と絶望が凝縮されたような濃密なものになっていく。通路の照明はさらに少なくなり、ほとんど闇に近い場所もあった。時折、壁の隅でうずくまり、ぶつぶつと何かを呟いている奴隷の姿を見かける。その目は完全に光を失っており、正気ではないことが窺えた。ここは、敗者の行き着く場所なのかもしれない。


「ひっ……」


 ミミが俺の腕にしがみつく。俺も背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 しばらく歩くと、前方に微かな光と、低いうなり声のような、あるいは機械音のようなものが聞こえてきた。壁の落書きも、より過激で、絶望的なものに変わっていく。「モフコインなければ死あるのみ」「ようこそ煉獄へ」。


「……ここが、高レートエリアか」


 通路の突き当たり、そこには他の区画とは隔絶されたかのような、異様な空間が広がっていた。「煉獄回廊」。その通称が示す通り、ここはまさしく地獄の一丁目のようだった。

 低レートエリアの雑然とした熱気とは違う。張り詰めた静寂。しかし、その静寂の下には、マグマのように煮えたぎる狂気と欲望が渦巻いているのが感じられた。


 照明は意図的に落とされ、フロアの中央に点在するオートアリーナの対戦台だけが、スポットライトのように青白い光で浮かび上がっている。プレイヤーたちの数は、低レートエリアよりも少ない。だが、その一人一人が放つオーラは、明らかに異質だった。


 やつれた顔、しかしその瞳には飢えた獣のような鋭い光が宿っている。服装もボロ切れ同然の者から、どこで手に入れたのか歪んだ装飾品を身につけた者まで様々だが、共通しているのは、その身に纏う尋常ならざる緊張感と、他者を一切信用しないというような猜疑心に満ちた雰囲気だ。


 そして、何よりも違うのは、彼らが賭けているものであろう「モフコイン」の額を示すホログラム表示だ。低レート卓とは桁が違う数字が、そこかしこで明滅している。ここでは単なるコインだけでなく、貴重な情報、他の奴隷の所有権、時には自身の身体の一部すら賭けられているという噂も、あながち嘘ではないのかもしれない。


 俺は息を呑んだ。僅かだが、プレイヤーの肩や腕に、本物のもふモンを連れている者がいる! 蛇のような生物、小さな悪魔のような使い魔、そして……猛禽類。


「ジンさん……すごいところだね……」


 ミミが俺の後ろに隠れるようにして、小声で囁く。彼女の声は震えていた。俺もまた、この「煉獄回廊」の異様な雰囲気に完全に呑まれかけていた。ここで戦う? 俺たちのような新入りが? 無謀すぎるのではないか?


 いや、と俺は首を振る。ここで怯めば、それこそ奴らの思う壺だ。食い物にされるだけだ。俺はミミの手を強く握りしめた。


「大丈夫だ、ミミ。俺たちがやることは変わらない。相手を読み、戦略を立て、そして勝つ。それだけだ」

「……うん」


 ミミはまだ不安そうだったが、俺の言葉にこくりと頷いた。


 俺は周囲を見渡し、空いている対戦台を探した。高レート卓の対戦台は、低レートのものより少しだけ大きく、椅子もまだマシなものが使われているようだ。俺は意を決して、その一つに向かって歩き出した。周囲から突き刺さるような視線を感じる。


「……新入りか?」

「どこまで持つかな……」

「新人狩りの餌食にならなきゃいいがな……くくく」


 嘲笑とも憐憫ともつかない囁き声が聞こえてくる。俺はそれらの声を無視し、椅子に深く腰掛けた。ミミも隣に立ち、ぎゅっと俺の服の裾を掴む。


 俺は深呼吸し、心を落ち着かせた。そして、これまで貯めてきたモフコインの大半を投入し、「対戦開始」のボタンに、震える指で触れた。心臓が激しく打つ。最初の相手は誰になる……?


『Matching Opponent...』


 システムが対戦相手を探し始める。周囲の空気が、一瞬、さらに重く、静まり返ったような気がした。奴隷たちの視線が、俺の座る対戦台に集中しているのを感じる。


 そして、無慈悲なメッセージが表示された。


『Opponent Found! Player XXX - バルド』


 表示された名前に、周囲から、「おい、マジかよ!」「いきなりバルドか!」「あの新入り、終わったな……」という興奮と憐憫の声が上がる。


 ゆっくりと、向かい側の対戦台に一人の男が腰を下ろす。音もなく現れたかのような錯覚。鋭い、爬虫類のような冷たい目つき。引き結ばれた口元には、残忍な笑みが浮かんでいる。そして、その肩には……音もなく翼を休める、一羽の猛禽。禍々しいほどのプレッシャーを放つ、灰色の羽毛を持つ鷹のようなもふモン、「グレイズファルコン」……


 高レート卓での最初の対戦相手は、どうやら強敵のようだ。極めて高額で取引される「もふモン」持ちであるだけでもその強さが伺える。


 バルドは俺を一瞥し、鼻で笑った。


「なんだぁ? 低レートで調子に乗ってた雑魚が、死に場所を探しに来たか? 噂は聞いてるぜ、少しはやるらしいじゃねえか」


 その声は、粘つくような悪意に満ちていた。


「だがな、ここは低レートとは違うんだよ。運だけじゃ生き残れねえ、本物の戦場だ。この俺様が直々に、本物の絶望ってやつを味あわせてやるよ。感謝しろよ、底辺奴隷」


 キィィィッ!


 バルドの言葉に応えるかのように、肩のグレイズファルコンが甲高い鳴き声を上げた。その金色の瞳が、鋭く俺たちを射抜く。言いようのないプレッシャーが、俺とミミにのしかかる。


 だが、ここで怯むわけにはいかない。俺は胸に込み上げる恐怖と怒りを押し殺し、強い意志を込めてバルドを睨み返した。


「……やってみろ。俺は、負けない」


 俺の言葉に、バルドは一瞬だけ目を細め、そしてさらに歪んだ笑みを深めた。


「面白い……。その威勢が、いつまで続くか見ものだな」


 ホログラム盤面に、新たなラウンドの開始を告げる表示が浮かび上がる。因縁の対決の火蓋が、今、切られようとしていた。この戦いが、俺たちの運命を大きく左右することになるだろう。そして、俺はまだ知らない。この男と、その鷹が持つ「見えざる力」の本当の恐ろしさを――

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ