表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/18

第1話 少年は巨大カジノ船の底辺で成り上がりを誓う

 衝撃は、まず背中に来た。

 硬い何か――おそらくは金属の床――に全身を叩きつけられ、肺から強制的に空気が絞り出される。


「ぐっ……う、ぉえっ……!」


 息ができない。視界が明滅し、酸欠で脳が警鐘を鳴らす。埃と、鉄錆と、そして何かが腐敗したような甘ったるい悪臭が混じり合った空気が、無理やり喉から侵入してきて、吐き気を催した。誰かに突き飛ばされたのだと理解したのは、重々しい金属扉が閉まり、ガチャリ、という無慈悲な施錠音が鼓膜を打った後のことだった。


「――奴隷番号774! 今日からそこがお前の寝床だ!」


 扉の向こうから投げつけられた罵声が、反響しながら遠ざかっていく。奴隷番号、774……。それが、今日から俺を縛る記号らしい。ジンという、親から与えられた名前は、もうここには存在しないのかもしれない。


 どれくらいそうしていただろうか。咳き込みながら、全身の痛みに耐え、浅い呼吸を繰り返す。ようやく酸素が脳に行き渡り始めると、俺はゆっくりと身を起こした。打ち付けた肩と背中が鈍く痛む。


 一体、ここはどこだ?


 目が暗闇に慣れてくると、周囲の光景が徐々に輪郭を結び始めた。

 薄暗い。どこまでも続くかのような、広大な空間。壁も、床も、天井も、赤黒く錆びついた分厚い鉄板で覆われている。壁には得体の知れない配管が血管のように走り、そこかしこから水滴が滴り落ちて、床に不快な水たまりを作っていた。光源は、壁に埋め込まれた古びたランプだけ。それも幾つかは壊れているのか、弱々しく明滅を繰り返し、頼りない光が蠢く影をそこかしこに作り出している。


 じっとりとした湿気が肌にまとわりつく。空気は淀み、鉄錆とオイル、そして生活排水のような鼻を突く悪臭が混じり合い、呼吸をするたびに不快感が内臓を撫でる。絶えず聞こえてくるのは、船の駆動音らしい重低音、配管を水が流れる音、どこかから響く金属音、そして……時折混じる、人の呻き声のようなもの。


 俺は本能的に理解した。ここは、船の底だ。巨大な船の、最も深く、暗い場所。


「ラ・モフューナ……」


 唇から、呪いのようにその名が漏れた。七つの海を彷徨う巨大カジノ船。どの国家にも属さない治外法権の洋上都市。表向きは富と快楽を求める人々が集う夢の楽園。だが、その輝かしいデッキの下には、このような奈落が広がっている。


 視線を巡らせると、俺と同じように、この薄汚い空間に打ち捨てられた者たちがいた。壁にもたれかかる者、床に膝を抱えて座り込む者、あるいは力なく横たわる者。人間だけではない。ウサギや猫、犬のような特徴を持つ獣人たちの姿も見える。だが、その誰もが、瞳から生気を失い、まるで魂が抜け落ちたかのように虚ろだった。絶望。それが、この空間を支配する唯一の感情であるかのように。


 なぜ俺がここに? 脳裏に、忌々しい記憶が断片的に蘇る。人の良い父。言葉巧みに近づいてきた悪徳商会の男。気づいた時には膨れ上がっていた借金の証文。そして、有無を言わさず連れ去られ、家畜のように扱われ、この船に売り飛ばされた日のこと……。


「……ちくしょうがっ!」


 抑えきれない怒りが込み上げ、錆びた壁を殴りつけた。鈍い痛みと共に、自分の無力さが身に沁みる。守るべきだった家族は、今どうしているだろうか。俺をこんな場所に突き落とした奴らは、今頃どこで何を……。


 だが、怒りに身を任せている余裕はない。俺は奴隷番号774。ここは弱肉強食の奈落。感傷や怒りは、ここでは何の役にも立たない。それどころか、弱さの表れとして、他の奴隷や看守に目をつけられる隙を与えるだけだ。


 俺は深呼吸を繰り返し、無理やり冷静さを取り戻そうと努めた。そうだ、まだ終わったわけじゃない。俺はまだ生きている。思考する力も、この体も残っている。ならば、足掻けるはずだ。


 まずは生き延びる。そして、必ずここから抜け出す。そのためには、情報を集め、この場所のルールを正確に把握しなければならない。


 俺は立ち上がり、壁際を伝うようにゆっくりと歩き始めた。他の奴隷たちに警戒心を抱かせないよう、しかし視線は鋭く周囲を観察する。看守の威圧感、奴隷たちの間の力関係、そして、時折奴隷たちが熱に浮かされたように向かう、区画の奥の一角……。あの騒がしい場所では一体何が行われているんだ? 労働だけではない、何か別のルールがここには存在する気がしてならなかった。


 壁の落書きも目に付いた。「勝てば天国、負ければ地獄」「モフコインをよこせ」「罪人に堕ちたくない」。断片的で意味は分からないものも多いが、不吉な言葉が並んでいる。


 考え込んでいると、不意に横から声がかかった。


「……おい、新入りか?」


 見ると、壁にもたれて古びたパイプをくわえた、無愛想な顔つきの男が俺を見ていた。年の頃は四十代だろうか、その体にはいくつもの古傷があり、長くこの場所にいることを物語っている。古株の奴隷だろう。


「……ああ」


 俺は短く答えた。警戒心を解くわけにはいかない。


「ふん。その顔じゃ、どうせロクな理由でここに来たわけじゃねえだろうな」


 男はパイプから紫煙を吐き出しながら言った。


「まあ、ここに来る奴は大抵そうだ。俺はダグ。お前は?」

「……ジンだ。いや、774だ」


 俺は言い直した。名前など、ここでは意味がないのかもしれない。


「ジン、か。まあ、どっちでもいい。すぐに番号でしか呼ばれなくなる」


 ダグは達観したように言った。


「で、何か知りたいことでもあるのか? そのツラ、疑問符が浮かんでるぜ」


 図星だった。この男なら、何か知っているかもしれない。俺は思い切って尋ねてみることにした。


「ここは……ただ労働だけしていればいいんじゃないのか?」


 ダグは俺の問いに、呆れたように溜息をついた。


「バカ言え。配給だけでまともに生きていけるかよ。見てみろ、周りの奴らを。なんであんなに必死になってるか、考えねえのか?」


 ダグは周囲の、どこか焦燥感を漂わせている奴隷たちを示した。


「腹を満たしたけりゃ、マシな水が飲みたけりゃ、『もふコイン』が必要なんだよ」


「もふコイン……?」


「ああ。この船ん中でだけ使える、奴隷だろうがVIPだろうが共通の通貨だ。手に入れる方法は二つ。お前もこれからやらされるであろう、クソみてえな労働で貰える雀の涙みてえなチップを換金所で換えるか……」


 ダグは再び、騒がしい一角を顎でしゃくった。


「……ギャンブルで稼ぐかだ」


「ギャンブル……どんなギャンブルなんだ?」


「『もふもふオートアリーナ』。これが奴隷でも参加できる唯一のマトモな娯楽であり、一攫千金のチャンス……そして、破滅への入り口でもある」


 ダグは淡々と続ける。


「ルールは単純じゃねえ。運だけじゃ勝てねえ。頭を使わなきゃならん。勝てば天国だ。コインさえありゃあ、ここでは大概のモンが手に入る。情報も、多少の安全も、な。だが、負ければ……」


 言葉を切ったダグの目に、一瞬暗い影がよぎった。


「負ければ……どうなる?」


俺は唾を飲み込んだ。


「当然、コインはなくなる。そうなると、船の『貸元』に手を出す奴も出てくる。奴らは悪魔だ。法外な利子でコインを貸し付け、返せなくなれば容赦なく取り立てる」


「取り立て……?」


「ああ。ギャンブルで負けが込んで借金が返せなくなると……そいつは『罪人』扱いさ。番号じゃなく、そう呼ばれるようになる」


「罪人……」


 壁の落書きが脳裏をよぎる。


「そうだ。そうなった奴がどうなるか……詳しくは知らねえ。だが、『下』に送られるって話だ。ここよりもさらに酷い場所……らしいがな。そこに行った奴で、戻ってきた奴を俺は見たことがねえ」


 ダグの言葉は重く、冷たい現実を俺に突きつけた。強制労働だけでなく、ギャンブルに参加し、勝ち続けなければ、更に下の地獄に堕とされる可能性があるというのか。なんという狂った、悪魔的なシステムだ。背筋に冷たい汗が滝のように流れるのを感じた。これは、単なる奴隷生活ではない。常に破滅と隣り合わせの、終わりのないギャンブルを強いられるということだ。


 新たな絶望が心を覆い尽くそうとする。だが――同時に、ダグの言葉の中に、ほんの僅かな、しかし無視できない可能性を見出した。


 ギャンブル。リスクは計り知れない。だが、「勝てば天国」だとも言った。奴隷という身分でも、この船のルールの上でなら、知恵と戦略で勝てば道が開ける……そういうことでもあるのではないか?


 俺はダグに向き直った。


「……あんたは、やらないのか? そのオートアリーナとやらを」


「俺か? まあ、たまにやるさ。だが、深入りはしねえ。俺はもう多くは望まねえからな。ただ、ここで静かに……まあ、死ぬのを待つだけだ」


 ダグは自嘲気味に笑った。


「……そうか」


 俺は違う。俺はまだ諦めていない。死ぬためにここに来たわけじゃない。


 俺はダグに短く礼を言った。


「……話、感謝する」


「ふん。せいぜい、しくじるなよ、新入り」


 ダグはそれだけ言うと、またパイプをふかし始めた。


 俺はその場を離れ、一人になった。ダグから聞いた事実はあまりにも重い。だが、迷いは消えた。ただ生き延びるだけではダメだ。この船で「上」を目指すには、ギャンブルで勝つしかない。俺は、俺自身の頭脳と、これから得るであろう知識と経験を武器に、この狂ったゲーム盤の上で勝者になってやる。


 決意を固め、俺は騒がしい一角――もふもふオートアリーナがあるであろう場所へと、今度こそ確かな足取りで向かい始めた。恐怖はある。だが、それ以上に、この理不尽な運命に抗ってやるという、燃えるような意志が俺を突き動かしていた。


 その道の先に何が待ち受けているのか、まだ知る由もなかったが、俺の物語は、確かにここから始まるのだ。この鉄錆と絶望に満ちた奈落の底から。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ