捻挫がもたらしたもの⑥
佐藤君の言うとおり、怪我をしてから残りの夏休みをベッドの上で過ごしていた私は、ボーっと流された日々を送っていた。
暑さのせいで食欲が湧かないのか、はたまた他の理由があるからなのか――。
何か食べなきゃと思うのに、食べ物が喉に通らないのだ。身体はフラフラするし、力も入らなくなってきたので、これはマズイと頭の中ではわかっているのだが……身体が言うことをきかなかった。さすがに学校が始まると少し食欲も戻り、自然とお腹が空いてきたときは自分でも笑ってしまった。人間というのは何をせずとも息をしているだけで腹が減るらしい。当たり前のことだが、妙に実感してしまった。おかげで佐藤君の指摘通りガクンと体重が落ちこんでしまい、喜んでいいのやら悪いのやら。
それに加えて、毎日雄臣がやってくるのも気分が盛り下がる原因となっていた。
『俺がもう少し痩せろと言ったからダイエットしてるのか? 嬉しいけどな、無理はやめろ。不健康なダイエットは身体によくないんだよ。それにバストが小さくなったら元も子もないだろうがっ! オレはな、こう部分的に痩せろといったんだ。たとえば腰! たとえば背中! たとえば二の腕! ようするに胸と腿と尻はそのままキープしつつ、ボンッキュッボンッを目指すんだよ、わかったな!?』
『…………(この人、完全に欲望丸出しだがや)』
こんな調子で人の部屋に上り込んでは熱弁する雄臣。
しかも真美子が部活に行っているときに狙って来るのだから、何か善からぬことを企んでいるとしか思えない。唯一救いなのは、私の部屋にはクーラーがないので、部屋の窓やドアを全開にしなければ10秒も持たない密室完全不可ということろだった。
『南向き部屋・日差し良好!』
……などという優良物件の見本のようなマイルーム万歳。
たとえ雄臣に対する気持ちが夏祭りを境に徐々変わってきたとしても、私の奥深い闇の部分を知っているのは雄臣ただ1人だとしても、連日こんな調子で人の生活に土足で踏み込み、静かに過ごすはずの休みを潰されていたんでは、彼に抱いた感謝の気持ちも萎えるってもんだ。おかげで元気が出るどころか、なけなしの気力と体力を削がれて上の空状態が新学期突入してからも続いてしまった。
その結果、私の足の怪我というか行動に不安……いや、心配した担任の青島先生が、始業式の翌日、私以外に学級委員や通年の体育委員を集めて「体育祭のサポート委員を他の奴に変更しようと思うが、どうだ?」と提案してきたのだ。
そりゃ当然だろうなと思った。が、想像以上にショックを受けている自分に驚いた。女バレのマネージャーの件もそんなに打撃を受けなかったというのに。
青島先生からの提案に対して、学級委員のブキミちゃんがなにか言おうと口を開く前に成田耀子はすかさず手を挙げ、「先生! 私から提案があります!」と素早く先手を打った。
『荒井さんの代わりは、立候補してくれた原口美恵さんにやってもらうべきです。すでに時間も差し迫ってますし、これから選出するなんてクラスメートにとっても迷惑ですし、時間ももったいないです。やはりここは最初からヤル気のある人にお願いした方がいいんじゃないでしょうか。それに前もって原口さんに確認とりましたが、是非引き受けますとのことです! ね、後藤君?』
成田耀子は同じ体育委員である後藤君に対し、顔を少し傾けたベストポジションの満面な笑顔で意見を言った。しかもその内容は、私が怪我したことで皆に多大な迷惑をかけ、まるで委員の仕事をヤル気がないみたいな言われよう。
その後成田耀子はブキミちゃんの方に向かって不敵な笑みを浮かべ、「文句があるなら受けて立つわよ、このオカッパメガネ!」などという強気なオーラを発した。
この時ばかりはさすがの私も幽体離脱気味の魂が戻り、イライラという名の人間らしい感情が湧いた。生まれたての小鹿のようにフラフラになりながらも、思いっきり成田耀子の顎に向かってアッパーカットを捻じ込みたい衝動に駆られたが、そんなことはできるはずもないので、大人しく黙るしかなかった。
(この怪我だって、好きで捻挫したわけじゃないのに)
声を大にして言えないもどかしさ。しかもその原因である男は隣で明後日の方向を見ながら、生意気にも不貞腐れている様子。
私が悶々としている間に、成田耀子の意見を沈黙で受け止めたブキミちゃんは、怖いほど無表情な顔を彼女に向けた。何か言おうとしていた佐藤君を制止し、急に口元をニヤリと歪ませる。
『……そうですわね。それでいいんじゃないですか? 学級委員はサポート委員のそのまた補佐ですもの。体育委員の方々がそれでよければ、私は別に構いませんし、お任せします』
『えぇ?! お、おいっ、伏見!』
『いいではないですか、佐藤君。……って、あらら、いけない。当のサポート委員の方々を差し置いて勝手に進めてしまったわ。やはりここは先にサポート委員に意見を聞かないといけませんわよねぇ? 尾島君はどうですか? この決定でよろしいのかしら?』
ブキミちゃんは最初に「アンタ達で適当にやってくれちゃっていいから」というニュアンスのセリフを棒読みで言ったが、佐藤君の意見を黙らせた後、さも今気付いたかのようにわざと意味深な流し目でサポート委員の尾島に話を振った。声が掛かるまで不機嫌さを隠さず黙り込んでいた尾島は、その時初めてゆっくりとブキミちゃんの方に顔を向けた。それはまるで――そう、キャンプの時の再現。ズガーンなどという効果音付きの殺人光線と共に、一瞬机を蹴りあげるかとビビるほどの迫力。尾島の方を見ないように前を向いて目の端で彼の行動を追っていた私にも、その殺気は気配でわかった。
今にも破裂しそうなほど波打っている心臓。それも背中と手にじっとりと汗をかくほどに。
『別に、好きにすればいいんじゃねっ? 委員なんて、誰でも同じっしょ』
尾島の低い声が隣から聞こえてきた。
(……別に私じゃなくてもいいような言い草じゃなのよ)
ものすごく、ショックだった。
でもその一方で、いつの間にこんなに低い声を出すようになったのだろうとバカなことを考えてしまった。私が知っている、声変わりしていない少し高い声じゃないことに狼狽えてしまった。それに、座っている座高もいつのまにか同じくらいで、隣に座っている男の存在が急に大きく感じられた。
そんなこと悠長に考えている場合じゃないのに。
尾島の吐き捨てる口調に憤りを感じなければならない筈なのに。
私の頭の中は、どこかおかしいのだろうか?
『……ですって、成田さん。尾島君にとっては、誰でも同じそうよ? たとえ原口さんでも構わないですって! 良かったですわねぇ~。そういうわけで先生、このような意見が出ていますが、どうでしょうか?』
ブキミちゃんはこの場にいた全員に息を飲ませるほどの尾島の眼光を薄気味悪いスマイルで跳ね返し、その矛先を成田耀子とその様子を黙ってみていた担任に流した。どうやら尾島の意見も聞かず勝手に話を進めていたらしい成田耀子は、慌てた様子で「べ、別に私は……」と口ごもり、誰でも同じ扱いされた原口美恵はギッとブキミちゃんを睨んだ。
担任である青島先生は「そうか」と呟き、寄りかかっていた黒板から身体を起こした。
『よし、わかった。反対する者もいないから、それでいくことにするか。荒井もいいよな?』
青島先生は頭を掻きながら「原口美恵をサポート委員決定する」の旨を言い渡したが、確認の意味なのか、最後の最後で私に話を振った。隣に座っている男を除いて全員の顔が私に集中する。私はこんなわかり切ったこと答えるのも億劫だった。「どうぞご勝手に」と言ってさっさと教室を出ていきたかったが、そういうわけにはいかない。
喜(成田耀子)怒(尾島啓介&原口美恵)哀(佐藤伸)楽(伏見かおり)、そしてどうでもいいような表情(後藤洋、青島先生)の顔をぐるりと見渡し、この居心地悪い場所から抜け出すように、口を開いた。
『……ハイ。申し訳ありません、みなさん、よろしくお願いします』
私は静かな声で、けれどもハッキリと答えた。
静かに頭を下げながら、意識は怪我をした足首を含め左側に集中していた。
左隣の男が僅かに震え、ジャージのポケットに入れていた両方の拳をグッと握ったのがわかるほどに神経を張り付めていた。
ジャージの中に潜んでいる、見えない尾島のガッツポーズが憎らしかった。
新学期に入ってから、一言も口を利いてない尾島。
再び始まった、尾島達と会話を交わすことがない日々。
周囲も私と尾島たちの間に微妙に漂う「余所余所しさ」という名の違和感を感じ取り、再び腫れ物に扱うように接するクラスメート。ようするに、1学期の状態に戻ってしまったのだが……以前と違うのは、立場が逆転したように私のほうがあからさまに尾島達を視界に入れないよう無視していた。
――今ならまだ大丈夫、間に合う。
いったい何が間に合うというのか。
胸を渦巻く、この不可解な感情。けれども雄臣の言葉を無視できずにいた。尾島の視線を感じるたびに、何度か話し掛けてこようとする気配を感じるたびに、雄臣の言葉が私を追い立てた。
いつのまにか私は、背中で尾島を拒否していた。
なのに。
それなのに、私は――。
何故息を顰めながらも全神経張りつめるようにして尾島の気配を追ってしまうのだろう。
無視しているのは自分なのに、遠くに感じてしまうのを寂しいと思ってしまうのだろう。
心のどこかで、いつもの調子で私に話しかけて欲しいと願ってしまうのだろう。
あの祭りの日からずっとずっと、私は心を持て余している。自分の気持ちが見えず、晴れそうで晴れない霧のような中を彷徨っていた。