捻挫がもたらしたもの④
ブキミちゃんが私の腕をとって段差のある部分の歩行を手伝ってくれた。
さっきまでボンヤリ眺めていたバレー部のコートはプレハブの用具室で遮られ、自分たちの教室があるボロイ校舎が目の前に見えた。
「それにしてもマネージャーの件、ワタクシも岩瀬先生と同じ意見です。荒井さんにあっているような気がしますわ。荒井さんお優しいから、選手として闘争心剥き出しで試合に臨むって感じじゃないもの。これこそ怪我の功名というもの」
「……そう、かな?」
「そうです! やはり、顧問の梨本先生にお願いしてよかったわ。荒井さんが英検3級を取ったと聞いた時からずっと我が『英語英文タイプ部』へ引きずり込もうと……勧誘しようと温めてまいりましたの。ワタクシと東先輩が何度も頭を下げて、梨本先生から岩瀬先生に裏から根回ししてもらうよう……いえ、頼んでもらうようお願いしていたのよ? 荒井さんが部活を掛け持ちできるようマネージャーに指名しろ……オッホン。掛け持ちできる許可もスムーズに下りましたし、よかったですわね。オホホホ!」
「…………」
(なるほど、ね……そういうわけか)
夏休み明けの始業式の日、私がバレー部顧問の岩瀬先生にいきなり呼び出されてマネージャーに抜擢された理由がわかった。どうやら「足を怪我して暫く動けないから」だけではないらしい。それしてもよく梨本先生がそんな面倒なことを引き受けたなと思ってしまった。……まぁ、妖怪人間たちから集中攻撃されればひとたまりもないだろうが。
(マネージャーかぁ……)
私は引退した3年のマネージャーがやっていた仕事に思いを巡らせた。後輩に支持しながら部活の準備を整え、救急箱やテーピングの補充、顧問に練習メニューの確認、パートナーがいないところの穴埋め……ようするに都合の良い雑用兼パシリだ。そういえばこうして考えてみると、3年の元マネージャーや2年の部長の原口が私をこき使ってやらせていたことと変わりないことが今更ながらに判明した。
「それにしても、笹谷さんもマネージャーですか。てっきりバレー部のレギュラーになるかと思ってたわ」
「う、うん。そうなんだよね」
もちろん顧問を含め、私も部員もそう思っていたが、マネージャーを希望したのは貴子のほうだった。それは言わずと知れた家庭の事情の為である。お姉さんが勉学のために家を出ている今、平日は貴子とお父さんがお母さんのお世話をしていた。しかもお父さんは長期間家を空ける仕事なので、ほぼ貴子がその役割を担っているといっても過言ではない。本当は部活を退部することも考えたらしいのだが、それを岩瀬が反対した。貴子はセッターとしての素質があり、退部させるのは惜しいほどの逸材だったのだ。しかしその貴子は厳しい事情を抱えている身。貴子を手放したくない岩瀬は泣く泣く彼女の希望を受け入れ、マネージャーとして残すことにしたのだった。
『笹谷、部活をやめるは簡単だ。だけどここまで来たんだ、引退まで続けてみないか? 毎日参加するのは難しいかもしれないから出来るときだけで構わない。マネージャーとしてでもいいから参加してくれ、な? もちろん他にもマネージャーを考えてる奴がいるから、気軽に構えてくれればいい。それに部活に籍を置けば内申書の点数もいいだろ?』
そういった訳で貴子はバレー部を退部することなく、在籍することになった。
一方岩瀬に呼び出された私は、熱心に貴子を留める情熱の半分以下の口調でマネージャーを宣告された。
『荒井怪我してるし、しばらく動けないだろ? いい機会だから、笹谷と一緒にマネージャーをやってくれ。なに、今まで通りにやってくれればいいから。それに、英語英文タイプ部からも勧誘受けているそうだな。マネージャーならなんとか掛け持ちできるだろ? 是非入部してこい! それに聞いたぞ、東と梨本先生から。英検3級受かったんだってな? すごいじゃないか! その能力、生かしたほうがお前のためだぞ?』
『は、はぁ……』
なんだかこの時点で私の『英語英文タイプ部』への入部は既に決まっていたようだ。
どう見ても貴子の都合に合わせる形で、たまたま私が怪我をしていたからちょうどよくマネージャーにしちまおう、ラッキー! ……的な雰囲気が漂っていたが、黙って引き受けた。もともとレギュラーでもなければ、背が高いくせにスパイクをブロックするのも怖いヘタレな部員だったので、戦力にならないことも自覚していたからだ。それに、確かに前々から梨本に会うたび、そして特に怪我をしてからしつこく雄臣に、『英語英文タイプ部』に入部しろと迫られていたのだ。私はこのバレー部顧問の一言で、『英語英文タイプ部』に入部することを決めた。
***
「危ない、荒井!」
「荒井さん、前!」
男子の声とブキミちゃんの鋭い叫び声に思考がバチンと弾けて体が硬直した。その直後、私の前を白黒のボールが横切った。ボールは学校の周囲を囲んでいる金網にガシャーンと派手な音を立ててぶつかり、その反動で私たちが歩いている渡り廊下のほうへコロコロ転がってくる。転がってきたのはサッカーボール。どうやら目の端に映っているのはサッカー部員らしく、狭い場所でパスの練習をしていたようだ。「あの男」が在籍しているサッカー部のほうへ顔を向けるのが怖かったが、確か今日はバスケ部の赤黒ジャージを着ていたことを思い出した。直立不動のままギギギと音が鳴るようにボールが飛んできたほうに顔を向けると、私に向かって怒鳴ってきた男子であろう人物がこちらに走ってくるのが見える。
「荒井、大丈夫かっ?!」
走ってきたのは、3年が引退してサッカー部の新キャプテンになった佐藤伸君だった。水も滴る……ではなく、汗をキラキラさせて相変わらず学年一モテ男の威力を発揮している。その姿に見惚れつつも体が固まったまま動かない私に代わって、ブキミちゃんがサッカーボールを拾い、佐藤君に投げた。
「佐藤君、危ないですわ。荒井さん、足を怪我をして上手く動けないんですから、気を付けてもらわないと」
「すまねぇ、ちょっと強く蹴りすぎちゃってさ! 荒井、大丈夫だったか?」
「…………ハイ」
「ごめんな? ……それよりさ、なんで2人してこんなとこで……って、あっ! もしかして体育祭のサポート委員?! ……あれ? 今日だったけか?」
佐藤君は一瞬「ヤベ、オレ忘れてたか?」というような顔をしながら慌てて聞いてきたが、ブキミちゃんは無表情のまま「今日じゃないですわ」と言い、「それは明日です」とも付け加えた。
「それよりも佐藤君、荒井さんは既にサポート委員ではありません。足の怪我で辞退し、雌ブ……いえ、立候補した原口さんと交代したのを忘れたの? ね、荒井さん?」
「…………はぁ」
不気味なほど低いハスキーボイスだったが、嬉しそうに弾んだ口調で説明するブキミちゃんの意見を肯定するように、私は佐藤君に向かって曖昧に笑った。
「あ~そうだったよな! ……すっかり忘れてた。そっか、そうだよ……原口と尾島だよなぁ。……つーかさ、本当にあの2人で大丈夫かよ?」
心配そうに言う佐藤君にブキミちゃんは「知りませんわ、そんなこと」とたいして興味もなさそうに淡々と答えた。2人の様子を上の空で見ていた私は、ある名前が出たせいで頬が強張ってしまった。