捻挫がもたらしたもの②
あの祭りの日、雄臣と2人タクシーで家に帰ると、両親が玄関で私達の帰りを待っていた。どうやら雄臣とブキミちゃんが家に連絡を入れてくれたらしい。雄臣に抱えられるように帰宅した私を見ると、母は安堵の表情を浮かべた。一方父は、「オマエは一体何やってるんだ」という呆れた言葉と少し不機嫌な表情で出迎えた。頭の中で思い描いていた通りの父の態度に一瞬萎縮した後、すぐにモヤモヤした感情が湧きあがったが……それはこの年頃の子供がいだく、親の言うことが鬱陶しいという感情だったのかもしれない。父に対し、好きでこうなったんじゃないと抗議しようとした途端、雄臣は私の一歩前に出て「いいから任せとけ」と目配せをした。
『俺がついていながら申し訳ありません』
雄臣はサッと両親に頭を下げ、怪我の診断を簡単に説明した。怪我をした理由は、「下駄で裏山を登った為、踏み外して足を捻った」ということになっていた。納得いかなかったが、真実が洩れたらややこしいことになるかもしれないと、仕方なく黙認した。もどかしい自分の立場にイライラして無言を決め込む私に父は何も言わず、逆にしっかりとした態度の雄臣に向かって笑みを浮かべてお礼を言った。
『すまないな、雄臣。娘が迷惑かけてしまって、助かったよ。それとそんなに気にしないでくれ、な?』
『いえ。一緒にいると約束したのに、離れた俺の責任です。ミチに何かありましたら、一生俺が面倒みます』
『いやいやいや! そんな大げさに考えなくても! それに美千子に君はもったいないよ。……でも、さすが雄臣だな。責任感強いところは君の母さんにそっくりだ。その姿を彼女が生きているときに見れたのなきっと喜んだろうに……』
『……そんな。天国で見ている母さんに恥ずかしくない男になるよう、努力はしているつもりですが』
『そうか――そうだよな。大丈夫、雄臣はちゃんとやっているよ、健人と多恵子の自慢の息子だもんな』
私は雄臣と父の会話をまるで他人事のように聞いていた。いや、聞くようにしていた。
ただでさえ疲労困憊な状態なのに、こんな余裕のない時に多恵子小母さんのことや雄臣を褒め称える言葉を聞くのは正直キツかったから。しかし心の中である程度予想していたことだったので、さほどショックも受けずに済んだのは不幸中の幸いだろう。それとも、雄臣の滅多に見せないやさしさと私の心情を理解してくれたという事実に安心していたせいなのだろうか。
『あなた……もうそろそろ。美千子も疲れているだろうし。雄君、ここまでどうもありがとう。今から送って行くわ』
母が間に入ってくれたおかげで、私は苦痛の時間から免れた。雄臣と父に部屋まで連れて行ってもらい、母が雄臣を車で送りに2人が部屋を出た後、部屋に残った父は無言を通す私に、後日雄臣と伏見さんに重々お礼を言うようにと言って居間へ降りて行ってしまった。
部屋を出ていく父の後ろ姿を見ながら、タクシーの中で雄臣が言った言葉が何度も自分の中で繰り返されていた。
時間が経てば本当に折り合いをつけられるようになるのであろうか、と。
押しつぶされそうな虚しさを感じることはなくなるのだろうか、と。
そして、
『大丈夫か、心配したんだぞ』
その一言だけでもいいから欲しいと思う私は贅沢なんだろうか、と。
***
「……さん、荒井さん?」
すぐ傍で名前を呼ばれ身体を揺すられた私は、そこで初めて自分が廊下につっ立ったまま、左足を凝視していたことに気付いた。
ハッと顔を上げれば、ブキミちゃんが心配そうな顔をして私の顔を覗いている。どうやら私の意識は何処かへ飛んでいたようだ。ここが学校の廊下で新学期が始まった数日後の放課後だということが、ブキミちゃんと目が合った途端瞬時に頭の中に刷り込まれた。
「荒井さん、どうかしました? ……もしかして、足、まだ痛むのですか?」
不気味なほど低いハスキーボイスに私は慌てて顔を振って、「だ、大丈夫! ちょっと、考えことを……あ、あんまり暑いから」そう言って愛想笑いを浮かべた。前を見るといつの間にか廊下の突き当たりにある出口に差し掛かっていた。この出口は2年1組があるボロ校舎に向かう渡り廊下に続いており、外から眩しい光が差しこんでいる。
ブキミちゃんは私の顔をジッと見詰めた後、「そう」と一言残して再び歩き始めた。私も彼女の後を追うように引きずりながら歩き出すが、不規則な足音がやけに自分の耳に付いた。
「……足の具合、順調に回復して良かったですわね。捻挫は特に安静に限るわ。保体の時間はもちろんですが、今月一杯はバレー部も見学なのでしょう?」
「あ……それなんだけど、実は私、バレー部のマネージャーをすることに」
「まぁ! そうですのっ! ……フフ、作戦成功……」
「は? 作戦?」
「いえ、なんでもありません。単なる独り言です。荒井さん、マネージャーをやるのですか!」
「う、うん。ちょうど怪我してるし、この際いい機会だからどうかって顧問の岩瀬先生から提案されて」
「ホホホ! それなら火曜も『英語英文タイプ部』に出て頂けるわね!」
「あ、あの、それは、まだちょっとわからないんだ。ほら、貴……笹谷さんと交代でマネージャーやるんだけど、それがどの曜日になるか決まってなくて」
「は? 交代でマネージャー? あら、笹谷さんもマネージャーをやるのですか?」
「……笹谷さん、色々と事情があるみたいで、毎日部活に参加するのは、ちょっと……」
「……なるほど。そうでしたわね。笹谷さんのお母様、お身体の具合がよろしくないんですってね」
ブキミちゃんの恐ろしく生真面目で落ち着いた声に、私は無言で渡り廊下から見えるグラウンドに視線を向け、バレー部のコートがある方角を目で追った。
***
お祭りの翌日、部活が無い日曜日だったので和子ちゃん達は早速見舞いに来てくれた。夜に降った雨は上がり、湿気と熱さでムンムンと熱い日だった。
『……どうしてこんなことになったの?』
和子ちゃんは私の姿を見ると酷く心配した様子で聞いてきたが、結局私は本当のことを言えなかった。雄臣が両親に話した通り、
『星野君から和子ちゃん達が神社の裏山の頂上にいるらしいと聞いたので、下駄であの神社の裏山を登ったら、鼻緒が切れた拍子に踏み外し、足を挫いた』
……ということにしたのだ。
実はこの時点で貴子にも本当のことは伝えておらず、結局真実を伝えたのは夏休みが明けてからだった。別に貴子に言いたくなかった訳ではない。むしろ話を聞いてもらいたいくらいだった。
しかし1人で天井を見つめながら様々なことを考えた結果、こういう話は軽々しく話さないほうがいいんじゃないだろうかという結論に達したのだ。なんせ内容が暴力沙汰だ。万が一どこからか漏れて、伴丈一朗が言ったように尾島の所属するバスケ部やサッカー部が何らかの処分を受けたら、チィちゃんが悲しむしだろうし、原口美恵や成田耀子にバレたら何されるかわかったもんじゃない。
それにブキミちゃんが言っていた。シニアのグラウンドの件をどうこうするという物騒なことを。もしそんなことになったら、私1人ではとても責任を負いきれない。あんなに星野君が野球を頑張っているのに(多分)、甲子園・プロ野球の夢を取り上げてしまうなどできなかった(おそらく)。
無理矢理引き攣り笑いをしながらみんなに説明する私を見て、無理に聞いてこようとしなかった貴子に、私は心の中で謝りつつ感謝した。おそらくブキミちゃんの言葉で大体の察しはついていたのだろう。
一方、和子ちゃんや幸子女史は、私の説明に眉根をよせ、納得してないような様子だった。
『……ねぇミっちゃん、本当になにもなかったよね? ていうか、その足、尾島のせいで怪我したんじゃ、ないよね?』
『いっ?! ……え、え? ななななんで、おおお尾島っ?』
『いや、あのね? 尾島、誰かと喧嘩したかもしれないんだよね。もちろんミッちゃんじゃないとは思うけど……もしかして、伴丈一郎って奴と一戦交えたかも……』
『ばばば、伴丈一朗?!』
『そうそう! 実はあの噂の河田中のワルが花火スポットにいてさぁ! ミチも聞いたことあるでしょ? 伴丈一郎! なんか髪の毛が茶色の変なチリチリでさぁ、雰囲気がちょっとヤバイの。ちょうどミチが山を登っている時だと思うんだよね、坊主2人従えていた伴丈一郎や尾島がさぁ、神社の方へ下りて行ったの。会わなかった?』
『えええっ?!』
思いっきり狼狽える私に、和子ちゃんと幸子女史は「だって……」と顔を見合し、浮かない顔をした。彼女達の後ろにいたチィちゃんは息を飲むように私を見ていた。さらに後ろにいた貴子は特に口を挟まなかったが、伴丈一朗の名前が出た途端、横を向いて「チッ」と舌打ちをして親指を噛みながらブツブツなにか言っていた。その横顔は険しく物騒な悪態を吐いていたような気がしたが、私は見て見ぬふりをした。というより、焦っていてそれどころではなかった。
『……あのさ。尾島が山を下りて私たちのところに戻ってきた時、すんごい形相だったんだよね。頬に殴られた跡というか、口元が赤かったの。何かあったのかって諏訪や後藤君が聞いてもずっとダンマリだしさ。そのうち「うるせぇ!」ってすごい剣幕で怒鳴ってまた山を下りちゃうんだもん。一緒に来たあの星野君も怒った様子で何も言わないし、小関は慌てた様子でまた尾島を追いかけちゃうし、訳わかんないよ! それに……花火スポットで伴丈一朗達と鉢合わせしちゃった時さぁ、尾島、ちょっとヤバイ雰囲気だったんだよね? イラっとしちゃってさ。ほら、あの伴丈一朗って、裏番と仲悪いって噂でしょ?』
誰が聞いているというわけではないのだが、真剣な顔で声を潜める幸子女史の話に、私は震えを抑える為ベッドの上でタオルケットをギュッと握った。