エイプtoキャンプdeハプニング③
この章は多分に過激な表現が出てきます。PG12指定とさせていただきます。読む際にはお気をつけ下さい。
私を止めたのは、女性にしてはハスキーな声だった。
その声は容姿を裏切らない程不気味で低かったが、ハッキリと調理場に響き渡る。
「モモタさん、お待ちになって」
一瞬何を言われているかわからなかった。
「モモタさん、これお使いになって? うちの班終わりましたから」
ハスキーボイスの主であるブキミちゃん……じゃない、「伏見かおり」は、私の前に立ちはだかり、長い前髪とメガネ越しに私を見上げた。ギラっと歯列矯正を光らせながら滅多に見せない笑顔で、私の目の前に油を差し出した。
「……え、え?」
「油どうぞ、モモタさん」
「あ、あの……」
「うちの班もう使わないから、モモタさん」
ブキミちゃんはまだニヤリと笑ったままだ。
「モ、モモタって――」
正直ちょっと、いや、すごいショックだった。
自分に存在感がないことは重々承知していたが、まさか名前を間違えられるとは思わなかったから。
「ほら、早くしないとカレー作り間に合わないわ、モモタさん」
「……あの……伏見さん、私……『モモタ』じゃ……ないんだ……けど……」
やっとの思いで絞り出すように声を出した。が、これを自分で言うのはあまりに辛かった。しかし、この先違う名字のまま覚えられるのはそれ以上にキツイ。それも「ブキミちゃん」に。
(い、いくらなんでも、酷いよ……私、モモタじゃな、い……って…………モモ……タ?)
「…………」
――モモタ。
なんなのだろう、この感覚。
それは、今まで経験したことないような、まるで、足元から徐々に冷気が上って凍っていくような感覚。流氷の上に取り残されて、果てのない海に流されているような感覚だった。
しかし、幸か不幸か、この世にも恐ろしい事態が急に切り裂かれた。
「やっだぁ、伏見さん! 酷くない? 名前、違うわよぉ~。『モモタさん』なんて、冗談キッツぅ~」
笑い出したのは、成田耀子。他の班からも笑いは漏れていたが、彼女のが一際大きかった。しかも成田耀子は、わざわざブキミちゃんの肩をポンポンと叩きながら笑い続けている。が、その笑いはすぐに引っ込んだ。ブキミちゃんが大胆にも汚物を落とすように、肩に置かれた成田耀子の手をわざと大袈裟に振り払ったからだ。ニヤリとした笑いを引っ込め、ジロッと睨みながら。
「肉触った手で気安く触らないでちょうだい。普通洗ってから触るのが礼儀ってもんでしょ? 非常識よ」
ブキミちゃんの言葉に、周囲の笑いが止み、硬直とする調理場。
「なっ?! ちょ、ちょっと、失礼ね! ねぇねぇ、酷くない? この……ひ……と」
成田耀子の険しい声が段々と萎んでいった。
なぜかって? 答えは簡単だ。
尾島を取り巻く一部の連中が、口をつぐんだまま顔面蒼白だったからだ。
異様な空気にさすがの成田耀子も察したらしい。
「あれ? 何やってるんだ? 全員手ぇ止まってるぞ」
まだシーンとしているこの異様な空気をさらに切り込んだのは、釜戸から戻ってきた、尾島の班である学年一のモテ男こと佐藤伸君だった。
「さっさとやろうぜ。……って、あれ? 荒井はどうしたの?」
「……え? あ、いや、その……」
佐藤君に話しかけられ、一瞬気分が浮上した。だって、佐藤君と一緒のクラスになってから個人的に声を掛けられたのは、これが初めてのことだったから。
……しかし、その浮上した気分も、成田耀子の言葉によってすぐ下降した。
「ね、ねぇ聞いてぇ、佐藤君! 伏見さんったら、ひどいのよぉ! 荒井さんのこと『モモタさん』なんていうのよっ! ……そうよ、伏見さんこそ非常識じゃない! 荒井さんのことを『モモタさん』って、名前間違えるなんてさ! 大体『モモタさん』なんて人、このクラスにいないじゃん、ねぇ?」
佐藤君が現れたことにより、成田耀子は「待ってました!」とばかりに微妙な空気から息を吹き返した。これでもかというほど甘い口調で、佐藤君に愚痴をこぼす。オマケに尾島の失恋事情を知らないらしい成田耀子は、恐ろしいことに何度も何度もNGワードを繰り返す始末。
「は? 名前? ……おい、伏見。いくらなんでもクラスメートの名前を間違えるなんて失礼だろ。2ヵ月も経ってるんだぜ? 大丈夫、荒井? それよりなんかうちの班に用事があったんだろ?」
「…………あの……油を、借りようと……」
私は誰にも目を合わせないように俯いたまま震えた声で答えると、佐藤君は「なんだ、持ってけよ。いいよな?」と班の人に聞いた。その問いに尾島は答えない。もちろん原口も後藤も諏訪も田宮君も。答えたのは成田耀子だった。
「え~伏見さんのところが貸してくれるって言うからそっち使ってもらおうよ。私たちも使うから、荒井さん、悪いけどごめんねぇ~」
成田耀子は全然悪く思ってない口調で言った。
「……あらやだ、そうでした。『モモタさん』じゃなかったわ、『荒井さん』でした。ごめんなさい、モモタ、いえ、荒井さん。ほら、油持って行って?」
「…………」
今まで黙っていたブキミちゃんは、学年一モテ男の佐藤君に注意されたにも関わらず、さらにニヤけた顔で私に油を押し付けた。その顔は、成田耀子同様、どうみても反省している様子はない。
その時――。
ダンっと派手な音が調理場に響き渡った。
原口美恵の小さい悲鳴が上がった後、デカイくせに後藤が不安そうに「……おい、尾島」と声をかける。
尾島は包丁を振り下ろし、ニンジンをまな板の上に串刺しにしていた。
その姿は地獄か天国か、ジャッジを下す閻魔大王のようだった。そして、問答無用で今すぐにでもブキミちゃんを地獄へ落そうと、鋭い牙と爪を剥いていた。
(……ママママズイだろ、こりゃ……)
一方ブキミちゃんは余裕の顔だった。
尾島のジャッジを真正面から迎え討ち、歯列矯正の歯をいまだ隠さず、滅多にお目にかかれない薄ら笑いを惜しげもなく披露している。
「……そうですわね、佐藤君の言うとおり、『モモタさん』なんて、失礼だったわ。やだわ、ワタクシ、荒井さんが昔のクラスメートとすっごい似てたから、うっかり間違えてしまいました。ねぇ?」
ブキミちゃんは私の方は一切見ずに、尾島や原口の方を見てニヤニヤしながらハッキリと言った。しかもたっぷりと時間をかけて。
その後私の方を向いて、キューティクルが素晴らしいオカッパをサラッと揺らしながら「ごめんなさい」とニヤリと一笑しメガネをクイっと上げる、ブキミちゃん。さらに「フッ、フフフフ……」と不気味な笑いを残して、自分の班へ戻っていったのだった。
***
「……なんだ、アイツ。訳わかんねぇな? あ、おい、尾島も危ねぇから、包丁まな板から抜けよ! 荒井、ごめんな? 気にするなよ。俺、去年一緒だったからわかるんだけど、伏見ってちょっと変わってるんだ。けど悪い奴じゃないからさ」
佐藤君はいまだにこの雰囲気に気付かず、穏やかな声で励ましてくれた。
荒れ果てた大地に降り注ぐ、久し振りに見た佐藤君の爽快スマイル。
威力が絶大すぎる彼の笑顔は、あまりにも眩しすぎて直視できなかった。私は嬉しさのあまり、一気に温泉に浸かったようにフニャフニャになってしまった。
(……佐藤君はやっぱり佐藤君だったんだ。変わってない、頼れるアニキだ! ……若干、ピントがずれてるけど)
今まで私は、成田耀子という障壁のせいで佐藤君に自分の存在を目に入れてもらえないと、人のせいばかりにしていた。
それに考えてみれば、佐藤君とは同じクラスで息を吸っているというだけで、委員や部活などの接点が1つもなかった。大体男子とは用がなければ会話を交わすなんてことはまずない。それは1年の時も同じだった筈だ。……1人を除いて。
なのに、それなのに私は……恋人でもあるまいし、「一言もしゃべってくれない」と僻んでばかりで、相手ばかりを責めていたのだ。
(……そうだ。佐藤君はいつだって普通だった。それを私ったら、どこまで根性が曲がってるんだろう)
知らず知らずのうちに責めていた佐藤君に申し訳なくて、自分がとても恥ずかしくなった。今の心境は、穴があったら入りたい、この一言に尽きる。
それに、ブキミちゃん。
おそらく彼女は、尾島や浪花の転校生と一緒のクラスだったのだろう。最初は名前を間違えられてとてもショックだったが、結果的には助けられた。
(……でも、なんだかなぁ)
確かに助けられたのだが、何故かスッキリしない。心の奥底にモヤモヤが残っている感じだ。
(本当、いったい何なんだろう……。でも、とりあえず伏見さんにはお礼は言った方がいいよね)
私はブキミちゃんのいる班を見た。彼女の隣には奥住さんと光岡さんがいて、3人でなにか話している。
意外な味方かどうかわからないが、奥住さんと光岡さん以外に助けてくれる人物が出現し、少しだけヤル気と元気が出てきた。正直伏見さんには不穏な噂があるし、どんな人か謎だけど。
(そうよ、私自身も実際囁かれてる噂とはかけ離れてるし。真実は自分の目で確かめないとわからないよね。今度、勉強のことでも聞いてみようかな)
私はさっきから刺さる成田耀子の厳しい視線にも負けず、佐藤君にだけ頭を下げた。実際、彼の顔を見てどもりもせずにお礼を言ったら、「大したこと、してねーし」と笑顔で言ってくれた。
単純にもすっかり立ち直った私は、星野君が待つ自分の炊事場へ戻ろうとした時、未だに固まったまま荒れた大地に立っている尾島達の姿を目に入れてしまった。
「…………」
私はこの時決心した。絶対尾島達と関わらないことを。
相手も無視なら、こっちも無視だ。例え何を言われても、完全に無視だ。それに限る。それにこのキャンプが終われば、もうすぐ夏休み。クラス内で協力しなければならない行事は2学期の文化祭まで皆無だ、その文化祭だって内容による。その他の体育祭や合唱コンクール、球技大会は委員にならなければ、大したことない。
(3年になれば、今より最悪のクラスになることは絶対にあり得ない。私は今、試練の中にいるんだ)
早く3年に、いや、卒業したい。そう思いながら私は、尾島の姿を目から追い出すように瞳を固く閉じた。
ブキミちゃんこと「伏見かおり」、これからもどうぞよろしくお願いします!