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「東」方神起な親子~前編~

「ミチ、全然食べてないじゃないか。エビチリもっと食べろよ、好きだろう?」


 円卓の中華テーブルの席に座っている左隣の少年は、すっかり声変わりした低い魅惑的な声で言った。あと数年も経てば、彼の父親のようにすばらしいバリトンの声色になるに違いない。


「……あ、ありがとう」


 俯いて言うのも失礼なので、彼の方に向けば、両親譲りの罪な甘いマスクをこちらに向けていた。なんの曇りもない笑顔でニコッと笑っている。その顔を見てドキッとしたが、すぐ嫌な感じで心臓がドッドッと響くのが自分でもわかった。

(好きだろう……かぁ)

 その言葉は、彼との距離が暫く開いていたと感じさせるのには十分な言葉だった。確かにエビチリは好きだった。しかし今は昔のようにガっつくほどのものではない。

 ふと向こうの彼の隣に座っている妹、真美子の厳しい視線とぶつかった。その眼は「ズルイ!」と言ってはいるが、私だって好きでこんな笑顔を振りまかれている訳ではない。むしろ驚いているくらいだ。理由を問いただしたいほどに。


「昔は俺といい勝負で食べてたじゃないか。ほら、遠慮するなよ」

「…………」


 昔大好物だったその朱色の塊が、今日は美味しそうに見えない。そもそも食すら進んでないのは、油の多い中華料理はダイエットの敵! という理由だけではなく、別の理由が大きいということは明らかだ。円卓をそっと回し、エビチリの大皿を自分の前で止めて、レンゲですくい自分の皿に盛った。


 チャイナドレスを着たキレイな女性店員によって、次々と料理が中央の円卓に乗せられていっては下げられていった。まだ料理が残っているお皿は自分の前を、そして3組の家族の前を通過していく。

 何度も何度も。

 それはまるで――いくら遠のけても、自ら離れても、また巡ってくる回転木馬のような……無限に続く鬼ごっこのようだ。



 その日は突然来た。



 午前中までは太陽の光が町全体を照らしていたのに、日が傾くにつれて灰色の雲が太陽を覆っていく、ある春休みの出来事。


 灰色の瞳とブラウンの髪の毛を持つ堕天使が、荒井家の前に降臨した、運命の日。         





*******


「……ただいま」


 見慣れている、茶色い古めかしい玄関のドアを開けながら、ホッと息を吐き小さく呟いた。

 身体を見下ろすと部活用のシャリジャージに水滴がいくつも付いていた。部活をやっている途中に降ってきた雨。もう3月も終わりだというのに、体育館から外に出ると冬のように寒くて、吐く息も白かった。近いし面倒だと思って折りたたみの傘もささずにダッシュしてきたが、思った以上に髪の毛がしっかり濡れてしまい、顔に張り付いている。タオルを持ってきてもらおうと母親を呼ぼうと思ったが、ふと足元に目がいった。


「……?」


 家族以外の靴が何足か並んでいる。どうやら客がきているらしいのだが、その靴の種類に一瞬眉根を寄せてしまった。

 ベージュの細いパンプスと大きくて黒い革靴、革靴よりも少し小さいサイズで、大小のスニーカが2組。

 パンプスと革靴はピカピカに磨かれており、中学生の私でもわかるほど有名なブランドのシューズであった。スニーカーの方は適度に履きこなしている感じだが、特別汚れているというわけでもない。当然我が家のものではないのだが、何故かパンプスと小さい方のスニーカーは何処かで見たことがあるような感じなのだ。

(はて、何処だったっけか?)

 それも極最近のような気がする。とりあえず濡れネズミのままではお客の前では出れないと思い、見かけた場所を記憶の底で探りながら、仕方なくカバンから汗の染みたタオルを出して髪の毛とジャージを拭いた。

 一通り拭いた後、カバンを持って台所に入ると、コロコロと鈴をころがしたような笑い声がした。

 この声は絶対我が家族が出せる声ではない、お客の方だろう。

 笑い声の主とベージュのパンプスが一致した瞬間、見知らぬ靴の持ち主である人物達の顔が頭の中をサッと横切り、急に心臓が高鳴り出した。

 笑い声と重なるように、渋くて低いバリトンの美声が聞こえてくる。

(ま、まさか……!)


「美千子? 帰ったの?」


 カバンを椅子において、慌ててボサボサになった髪の毛を整えながら、挨拶をしに居間の方へ向かうタイミングを図っていたら、向こうから声を掛けられた。


「あ……ハ、ハイ!」


 フーっと息を整えた後、恐る恐るビーズの暖簾をくぐり「こんにちは」と言いながら顔を出すと、母親と対面するように綺麗な女性と精悍で逞しい男性が座っていた。

 女の人は、肩まで伸ばした茶色い髪を内巻きにカールしており、上品なアイボリーのツイードのスーツ姿。清楚という言葉がピッタリで、ほっそりとした身体によく似合っていた。いつものラフな格好でも十分綺麗なのだが、そのよそ行きのその姿は、さらに美しさが際立っていた。

 男の人の方はグレーのスーツにストライプのワイシャツ、紺のネクタイ姿。髪の毛も短くサッパリと整えられているが、こちらは色が黒い。キリリとした眉毛に彫りの深い顔だが甘いマスクで、まさしく「色男」という言葉以外何が当てはまるというのか。

 その男女はどことなく顔つきが似ていた。二人そろって座っている姿も佇まいも、良い意味で実際の年齢を感じさせないほど若々しく、爽やかで美しい。


「こんにちは、美千子ちゃん。今日は部活?」


 女の人は日本人離れしている彫りの深い顔をこちらに向けて、洗礼された笑顔をこぼした。彼女の問いに「ハイ」と小さい声で答えて視線を少しズラすと、隣にいる男の人と目が合った。彼は眩しそうに目を細めながら目尻に皺を湛え、優しい笑顔で頷いた。


「……久しぶりだな、美千子ちゃん。バレー部に入ったんだってね、お母さんから聞いたよ。いやぁ、本当に大きくなったなぁ。暫く見ないうちに女らしくなっちゃって、オジさんビックリだよ……子供の成長って早いんだなぁ」


 いつまでも変わらないその慈しみ溢れる温かな笑顔にドキンと心臓が跳ねた。小さい時に初めて見た、見た瞬間にいだいた時と変わらない憧憬が胸によみがえる。


「しかも英語、相当頑張っているそうじゃないか。聞いたよ、安西あんざい先生から。成績すごくいいんだって? 感心だな」


 その言葉を聞いた瞬間、私の目の前に壮大な道が開けた。それはまるで、廊下を歩く桂龍太郎……いや、モーセの十戒の一場面のように。

 この時私は、心底勉強を頑張ってきてよかったと思った。そう、この世でいちばん尊い言葉を、神から啓示されるってこんな感じかもしれない。この時の私の瞳は相当潤んでいたに違いない。私はそれを誤魔化す為に「……ありがとうございます」と頭を下げた後、精一杯笑顔を浮かべた。そうすると彼はハッと目を見開き、もう一度後光の差す笑顔で頷いた。


「もう、兄さんったら、相変わらずなんだからぁ。ホラホラ、美千子ちゃん顔が真っ赤じゃないの! オジサンなのにイヤぁねぇ。あ、そうそう! ごめんなさいね、美千子ちゃん、レッスン滞っちゃって。来週からは新しい家の方に来てね? 時間は変わらないから」

「は、はい! ……もう引っ越しの方は、終わったんですか?」

「そうなの、週末にやっと片づけが終わってね? これからは近くになったから、通いやすくなるわよぉ」


 ブラウンの瞳を隠すようにウィンクした女の人は、「あらためて、よろしくね?」と笑った。私も慌てて「こ、こちらこそ、2年の英語もよろしくお願いします」と頭を下げた。


「……美千子。今日は安西先生の引っ越しとあずまさんの海外転勤のお祝いを兼ねてみんなで一緒に食事に行くことになったから。着替えてくれる?」


 母のその言葉を聞いた途端、パァーっと嬉しさが込み上げた。このメンバーで、しかも目の前にいる男性と一緒に食事するなんて何時以来だろうと思ったが、ある台詞が頭の中でリフレインすると喜びが半減した。


「…え? て、転勤? 海外?」


 東小父さんは外資系のメーカーに努めており、国内外あちこち飛びまわっている。それでも首都圏内から拠点を移すことは絶対なかったのに――。

(……そっか、とうとう日本を出ちゃうのか)

 物心つくころから危惧していたことが現実になり、シュンと心が萎んでしまった。まだ中学生という未成年の自分が歯がゆい。だからと言って、大人なら彼を引き止められるのかと問われれば、それも絶対ありえない。そもそも私にはとやかく言う権利どころか、こうして会うことも無かったのかもしれないのだから。

(それが転勤する前に一目会えるなんて……)

 大袈裟な表現だが、私にとっては奇跡に近い。そして、今度こそこれが正真正銘最後かも知れない。

(……なにがなんでも髪の毛を乾かし即効マシにつくろわなければ! そして、少しでもいい印象残しておかなくちゃ!)


「ああ、あらた君とね、雄臣ゆうじん君、二階の真美子の部屋にいるから、挨拶してらっしゃい。2人ともうちにくるの本当に久しぶりだものね」


 母はこの二年間、例え耳にしても心の動揺を悟られないようにしてた名前を言った。娘の気持ちも知らない呑気な母は、天上の方に視線を流した。


「…………」


(アラタと…………雄臣……)

 その名前を聞くと、今まで高揚していた気分が勢いよく萎み、再び心臓の鼓動が速く打ち出した。しかもその鼓動は心躍る嬉しさは秘めていない、迫りくるような複雑な動きだ。久しぶりで緊張しているせい、ではない。

 非常にパスしたいところだが、挨拶は常識人としてしなければならない。私は動揺を隠しながら頷いた。できることなら、このまま居間にいて東小父さんを眺めていたいが、そうもいかない。私は大人3人に頭を下げてそっと居間を出た。母の「ケーキ頂いたから、後で食べなさい」という背後からの声に慌てて返事を返しながら、少しでも髪を乾かしてマシな姿になろうと洗面所の方へ足を向けた。


***


 タオルで髪の毛をふいた後、お年玉で買ったばかりのドライヤーで髪を乾かした。さすがに中学生にもなって、暖房で乾かすのは悲しすぎる。それにしても……。

(……前もって教えてくれればいいのに。きっと父さんが急に決めたんだな)

 確かに嬉しかったが、タイミングが悪い。なにもこんなジャージ姿の雨に濡れた姿をしているときでなくても……。東小父さんには、もっと晴れた日でおめかしバッチリの私を見て欲しかったと憂鬱な気分になった。せめて鏡に映っている、自分の顔の頬にあるニキビがなくなってからが良かったとため息を吐いた。

 これ以上やっても良くならないとこまで整え、洗面所を出た。そっと廊下を歩き階段の前に立って上を見上げると、微かに話声が聞こえてきた。その声のトーンからして、楽しく盛り上がっているみたいだ。


(このまま無視して自分の部屋に直行したい)


 しっかりと縫い合わせたはずの記憶の袋には僅かな綻びがあるのか、隙間から次から次へと嫌な「黒い記憶」が漏れ出している。

 ただ挨拶するだけなのに、足が重い。

(……でも、彼とは最後に会ってから2年も経っている。きっと……いや、多分大丈夫。私だってそれなりに成長しているはず)

 挨拶したら、すぐ部屋に引っ込もうと決めた。急いで着替えて、お茶のおかわりを淹れて居間に運べば、東小父さんとお話しできるかもしれないと下心を一杯にして、軋む階段を登った。

 その時、部屋のドアがガチャリと開いた。


「あ、やっぱり、ミチだ」


 ドアノブに手を掛けたまま、入口から顔を出したのは背の高い少年だった。

 傍にある小さい窓から光を受け、濃いブラウンの長めの髪の毛が明るい金茶に輝いている。見下ろす彼の瞳の色は実は黒ではない、東小父さんと同じ濃いグレーであった。圧倒的な力強い光を背負う、彼の父親と同じ類まれな容姿を持つ少年。こちらを見下ろしている優しそうな笑顔は、最後に別れた時とは全然雰囲気が違っていた。2年と言う時間が彼を成長させたのだろうか。与えられた時間は同じ筈なのに、自分とは全然違う。いや、周りの中学生達とは違う大人びた雰囲気を漂わせていた。


「久しぶり、ミチ」

「……雄……兄さん」


 第一声はマズマズだった。幸いにも声は震えていない。

 驚いたことに、彼は長年変わらない呼び名で呼んでくれた。一瞬にして、懐かしさと切なさと苦しさと……一言では言い表せない感情が渦巻いて胸が一杯になった。彼と過ごした幾日かが頭の中を高速で過ぎ去っていき、最後に顔を合わせた場面がピタリと停止した。その映像と目の前の顔が重なるのを振り払うように頭をさげ、「お、お久しぶりです」と先輩にするような他人行儀な挨拶をしてしまった。


「…………」


 彼はスッと真顔になり黙って見下ろした。そんな彼を見て一瞬ビクついたが、今の私にはこれが精一杯だった。彼が何か言いたそうに口を開いた途端、それを遮るように彼の後ろから2人顔を出した。


「おかえり、ミチ姉さん」

「おかえり~」


 子供っぽい表情が残る真面目そうな男の子と、楽しい会話を中断されて怒っているのか、妹の真美子の不機嫌そうな声。


「……ただいま」


 おそらく私の顔は、先日までクラスメートだったどっかの猿相手に見せる、不自然な笑顔以上に引き攣っていただろう。私は「ご、ごめんなさい、着替えるから」とそそくさと階段を上り、自分の部屋へ逃げ込んでドアを静かに閉めた。


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