我が中学校は、ダッシュで1分
『198○年 Y市立山野中学校入学式』
私、荒井美千子は新たな希望を膨らませ中学校の正門、いや、裏門をくぐった。
……と言っても、振りかえった数メートル後ろには我が家があるのだが。道路横断の際車に捕まらず、ダッシュすれば1分の中学校。
「本当、近いよね」
これならギリギリまで寝れると不埒な考えをよぎらせながら昇降口に向かった。
案内に従って自分が利用する昇降口に入ると、群がる真新しい制服、上履き、カバンを身に付けた生徒達。下駄箱の自分の名前の札が貼ってある場所を確認した後真新しい運動靴を入れて、入学式前に中学校から届いた「入学式の案内」と「クラス名簿」を手に自分のクラスである1年8組に足を向けた。
我が山野中学校は3つの小学校から生徒が集まっており、新学年のクラス数は全部で10クラス。生徒数は各クラス50名弱と今では考えられないくらいの生徒数だった。なので自然と小学校六年の時に同じクラスだった子と一緒になる確率は低くなる。名簿を見たら8組のクラスには、同じクラスだった生徒が自分を含め4人もいた。
(別に私1人でもよかったんだけど)
ともかく消極的で暗かった私は、小学校の時の自分の姿を知っている奴が1人でも少ない方が自分の輝かしいスタートにとって都合がいいと思っていた。残りの3人には悪いが、名簿で知った名前を見つけた時には「チッ」と舌打ちをしてしまった。
私は中学を境に生まれ変わろうと密かにプロジェクトを練っていたのだ。
今で言うと「○○デビュー」っていうやつに当たるだろう。まずは積極的な友達作り。少しでも痩せるため、春休み中は白米のおかわりをやめた。もちろん部活は運動部希望だ。本当なら帰宅部か絵が好きなので美術部に入りたいところだが、苦手を克服しないといけない。
勉強も頑張ろうと、入学前に買ってもらった各教科の参考書に目を通した。特に英語に力を入れた。英語は皆スタート地点が一緒だったからだ。今でこそ小学生が英語を習うなんてのは珍しくないし、授業だってあったりする。けれども私たちの時代にはそんな子供は皆無に等しかった。未知なるこの教科は自分にとって新たな扉を開いてくれるかもしれない、これだけでも他の奴を出し抜くチャンス! ……と本気でそんなことを思っていたのだ。
それに小さい頃から洋画が大好きになったことも背中を押していた。小学の高学年や中学生の女の子が好んで占いの雑誌や「明星」「平凡」などのアイドル雑誌を買っていた頃、私は洋画の雑誌「ロードショー」や「スクリーン」を買っていたのだから。
その頃の夢は通訳になり、金髪碧眼と運命的な出会いをして電撃婚、さらにハーフの子供を産むと本気で考えていたことはサンタには内緒だ。
***
階段を登り8組という札が下がっている教室に近づいた。扉の前に立つと胸のドキドキが最高潮になった。自分の心境を割合で示すと、緊張6割、不安2割、恥ずかしさ2割。
中を覗くと半分くらいの生徒が大人しく席に座っていたり、窓から校庭を眺めていたり……この緊張した雰囲気を読まず、友達同士ふざけてカーテンに身体を巻きつけて笑っている男子もいた。
「…………」
もう中学に馴染んでいる大物なのか、それとも小学生の気分が抜けない単なる能天気なのか。こういう奴ってどこにでもいるんだなとボンヤリ見ていると、その男子と目があった。彼は何故か目を見開いた後、すぐ睨むようにこちらを見たので、慌てて黒板に目を向けた。チョークで書かれた今後の予定と教室内での指示を読むふりをする。
○教室では静かにしてください。
○席は机の上に名前が貼ってあります、名簿順で座ってください。
○10時から入学式が始まります、9時半までにカバン置き、貴重品を持って体育館に集合してください。
○入学式の後、速やかに教室に戻ってください。
○ホームルームの時に必要事項をお伝えします、筆記用具とノートを机の上に出しておいてください。
○時間割、教科書、ネームプレート、校章はホームルームの時に配布します。
席は名簿順。
予想どうりだ、確か私は女子で2番目だった。もう前の方の席になるのは仕方がない、「あ行」に生まれた宿命だ。
扉のすぐ傍にある机の名札を見たら青いペンで「石田」だった。どうやら一番端の廊下側の列は男子の席らしい。廊下から2番目の列、前から2番目の席に行くと札の上に赤い字で「荒井」とあった。ためらいがちに椅子を引くと、思ったより響いた音が出たので慌てて座った。椅子は木と金属のパイプでできている椅子。なんてことはない、小学校の時とそんなに変わらない。かしこまったまま机に視線を落とすと、小さいキズと鉛筆で書いた薄い落書き。この机が、椅子が、教室が、私の新たなスタートを切る必須アイテムとなるのだ。
少し感動して、目を細めてしまったその時。
「ねぇ、ねぇ」
掛け声と共に後ろから背中をつつかれた。
ハッとして顔を上げ後ろを振り向くと、髪が長くて肌が浅黒い女の子がぎこちない笑顔を浮かべている。さっきまで自分の席の列は誰も座っていなかったのに、気付かないうちに自分の後ろの席は生徒で埋まってた。
「ねぇ、何処小? 山野? 大野?」
女の子は恥ずかしそうにしているが、積極的に声を掛けてくれた。こっちも緊張はしたものの、嬉しくて横座りをしながら答える。
「あ~、や、山野小です。え~と、宇……井さんは? 下山野小なの?」
机の名札を確認しながら聞くと、宇井さんと言う人は微笑みながら頷いた。
「そうそう、下山野小。クラスに同じ小学校の人少ないからさ、仲良くしてくれる?」
「はははいっ! こ、こちらこそよろしく」
私はいつものどもり癖を披露しながら慌てて頭を下げつつ、内心いきなり声を掛けてきてくれたことに感動しまくりだった。
クラスに知った顔が少ないとは実に羨ましいと思いつつ、宇井さんが「なんか緊張するよね~」と言いながら辺りを見回していたので、私もそれに倣った。回りの連中も席の前後で何人か会話を交わしている。
とりあえず私は好調のスタートを切ったようだった。
もちろんこの程度で好調と言えるのかどうかは甚だ疑問だが、ともかく滑り出し順調である。脳内ではもう1人の自分が「やったな!」とサムアップしてウィンクをかましていた。
「し、し、下山野だったら、と、遠いね。やっぱりバスなの?」
どもったが、せっかくお知り合いになった宇井さんと距離を縮めなければという一心で、会話をなんとかつなげようと必死で話題を紡ぎ取った。
「そ! 本当はバスで行きたいんだけどさぁ、お金がかかるから歩きで行けって親に言われているんだよね。面倒だわ」
スンマセン。ダッシュで1分のところに住んでマス。
……とは言わず、「大変だね」と言うと、宇井さんは「でしょう?」と大袈裟に溜息を吐いて頬杖をついた。先程にも述べたとおり、我が山野中学校は「山野小・大野小・下山野小」の3つの小学校が集まっており、山野小が一番人数が多い。その次に大野、下山野と続く。後々卒業アルバムを見せてもらったら、大野は4クラス、下山野は3クラスしかなかった。ちなみに山野小は7クラスもある。クラスが少ない地域ほど中学校から遠く、下山野小の子は30分かけて歩きかバスを利用しなければならない。以前はチャリもOKだったらしいが、卒業生が問題を起こして禁止になってしまった。
「山野小だから近いよね、羨ましいよ。えっと、あ~名前なんて言うんだっけ?」
ここで自分が名乗っていないことに気付き慌てて「すすすすみません! 荒井美千子です、どうぞよろしく」と大袈裟に頭を下げた。
「ハハハ、荒井さんか、美千子ならミっちゃんだね。私、宇井和子。宇井でもいいし、和子でもいいよ」
いきなり飛び捨てしてもいいんですか、そんなに親密になってもいいんですか?! と宇井さんの手を取って狂喜乱舞する私。無論、心の中で。
「じゃ、じゃぁ、和子ちゃんって、呼んでもいいかな……?」
妄想を追い払って控えめに言うと、宇井さんはもちろんというように笑顔で頷いてくれた。
「いいよ」
この時点で荒井美千子、サムアップから勝利の拳を空に突き上げていた!
言うまでもなく、心の中で。
「ねぇ。もうそろそろ、入学式始まるよ、体育館に行こうよ」
宇井さんはそう言って席を立ちあがり、私の腕を取ってくれた。
席を立った彼女を見てびっくりした。なんと背が私よりも大きかったのだ。ふっくらしてるところも似ている。それを見て益々親近感が湧いた、彼女となら末長くよいお友達になれそうな気がしたのだ。ただ彼女は私と違って暗く消極的ではない。明るく前向きのようだ。オマケによくよく見ると髪もブローしてあるし、眉毛もキチンと整えている。そして僅かにいい香りがした。
「あ、ちょっと待って」
そう言って宇井さんはポケットからリップと、手に収まるぐらい細長いコンパクトのようなものを取り出した。おもむろにコンパクトを開くと内側に鏡があり、それを見てリップクリームを塗っている。極めつけはそのコンパクトを制服の上にあてていった。
(え?!)
ショックだった。自分の頭上に雷がピシャーンと直撃するほどの衝撃!
(こ、こ、この世にこんなものがあるとは!)
どうやらこの代物は「鏡付きの携帯埃取り」というものらしい。そんなものを若干中学一年生で携帯している、目の前の「宇井和子」という人物がとてつもなく大人に見え、唖然としてしまった。
「……ん? どうしたの?」
「い、いや。ちゃ、ちゃんと綺麗にしていて偉いな……というか、すごいなというか……」
慌ててひきつり笑いをしていたら、和子ちゃんは「やだ~たいしたことないよ」と言った。
(……いや、たいしたことあるんですけど)
同じ大きめ&ポッチャリでも一味も二味も違う和子ちゃんに一瞬劣等感がよぎるが、慌てて負の感情を消す。そんなこと気にしていたら前に進めない。私は変わらなければならないのだ。
(これだよ……これぞ中学生! やっぱ小学生のガキとは違う! そうよ、電車賃だって中学生は大人料金じゃない!)
またもや脳内ではバスローブを着た私が、色気を醸し出しながらリップクリームで大人と子供を分ける境界ラインをキッチリ引いていた。
私は即効和子ちゃんに問いかけてしまった。「そのコンパクト、どこで売ってるんですか?」と。
盗むどころかいきなり答えを求める荒井美千子、調子のいい乙女な12歳。
「……ミっちゃんって、面白いねぇ」
和子ちゃんは笑いながら丁寧に教えてくれた。
販売場所は意外と近かった、中学の近所にある「大葉書店」。文房具も本も売っている我が町唯一の大きい書店。
中学に近いということは当然我が家からも近い。
最初のミッションが決まった。
(こりゃ、マンガや小説、雑誌に現を抜かしている場合じゃないよ!)
入学式の放課後。大葉書店に、携帯埃取りが売り切れで落胆している鈍臭い地味女子の姿がいたとかいなかったとか。