1月は氷解~Mr.ブルーの告白①~
長々とお待たせして申し訳ありません! やっと再開です。
文中に出血(鼻血)の描写があります。
その場所に来たのは、本当に偶然だった。
いくつもの事情が重なった、数ある「偶然」のなれの果て。
偶然、この日に約束をしたから。
偶然、予定が変更になったから。
偶然、彼らに出くわしたから。
しかし……私はこの時期に、このタイミングで、その場所に行ったことが、無性にやるせなくなるときがある。
物事はすべてその「偶然」の積み重ねでできているのだから、どうにもならないとわかっていたとしても。
私はその場所に立った時――懸命に手を伸ばすけれどもなかなか届かない、空気を掴むような焦燥感に駆られた。
記憶の底の底……さらに奥深いところで燻る不確かな場所。
まるで脳の中にある全ての記憶を漁るように隅々まで神経を送っているのに、まぶたの裏に見えるのは、バラバラになったパズルような断片ばかりのような場所。
記憶の欠片は、曖昧で不安定なものばかりだった。
『――――親父が出て行った。それっきり帰ってこない』
彼は暗い影を落とした被告人のように、神妙な顔つきで言った。
見えそうで見えない苛立ちの後に、背中と頭に感じる僅かな温もりだけを残す場所で。
『知っているなら教えて欲しい。――――彼女のことを、』
モモタハルカのことを――。
*******
(そぉーっと、そぉーっと……)
グラグラする不安定な身体を、全身の筋肉を総動員して支えながら手を一生懸命に伸ばした。
(お願い、このまま倒れないでっ!)
おそらくミリ単位で動いているであろう足に力を込めながら、残り数メートル先の目的地を睨んだ。そこには細くキレイな指が今か今かと手をこまねいて待っている。しかし――到達まであと少しというところで、シャーっと氷を削るような音に混じって、聞きなれた怒鳴り声が耳に飛び込んだ。
「バカ! そこどけよっ、チュウ!」
「は?! ちょ、ちょっとぉ! バカはアンタでしょ! どうしよっ、美千子、それ以上動いちゃダメ!」
「え? え?」
私に向って手を差し伸べていた貴子のアドバイスに従って足を止め、踏ん張ったのはいいが、人のことをバカ呼ばわりしながら、こちらに勢いよく向ってきているらしい男の声の方へ顔を向けたのはマズかった。おばあさんのような屁っ放り腰の姿勢で懸命にバランスを取っていたのに、変な方向に顔を向けたせいで重心がぶれたのだ。途端、思いっ切り不安定になる身体。
「うわわわわわっっ!」
まるでコントのように慌てて手を滅茶苦茶に動かすが、空気を掴むだけ。何人かの「危ない!」の声が聞えても、どうしようもなかった。お約束通りアワワワワと手を振り回しながら、勝手に進む足をどうにかしようと焦っているところに、側面からタックルのような衝撃を受けた。身体に回された力強い腕の感触とフワリとした浮遊感を感じながら反転する視界。気が付けば地面に倒れる二度目の衝撃に襲われた。
「●▽◆%&#$ッ!」
一瞬周囲が無音になったが、すぐに喧騒が耳に飛び込んできた。どうやら突然襲ってきた惨劇は終わったようで、咄嗟につぶった目をそっと開けて少し顔を上げてみれば……視界に飛び込んできたのは、シャツのハイネックの部分にプリントされているスポーツブランドの名前とロゴマーク。それに咽喉仏。自分のものとは違う体臭、氷と冷たい冬の空気がまじりあったような匂いが鼻をくすぐる。
(とりあえず助かった)
結構派手に転んだ割には身体に強い痛みはないし、冷たくもなかった。それもそのはず。私の下には氷ではなく人間が横たわっているのだから。
身体に回されている腕の力はいまだ力強いが、不快を感じさせない。むしろ抱きしめ具合がこりゃエエ塩梅じゃわいとキュンキュンするような……
(イヤン。もしかして、これはちょっとオイシイ展開? 確か冬場の出会いってこんな感じがお約束……って、あれ?)
つい先日貴子の家でチラ見した、『季刊・魔法の女豹術~優れた遺伝子保持者を嗅ぎ分けろ~』に掲載の記事、正しい男豹との出会い方・ウィンター編を呑気に思い返していたが、「Eの肉まんが一つ、Eの肉まんが二つ……」という訳のわからぬカウントが聞えた途端、がばっと顔を上げた。そこには若干鼻の下を伸ばしながらニヤけた……いや、衝突のせいか、鼻から血を一筋垂らした、本当にのびている猿がいた。
「ぎゃぁぁぁっ~」
破廉恥な体制で抱きついている人間が、誰だかハッキリと認識すると、男の安否も確認せず思いっ切り悲鳴を上げながら慌てて起き上ってしまった。起き上がるときに下敷きになった男の胃の辺りと腿に遠慮なく体重を掛けたので、男の口から「グェェっ!」などという、車に轢かれた蛙のような情けない呻き声が辺りに響く。
「あ~美千子? 大丈夫……みたいだね」
氷の妖精のように優雅に氷上を滑りながら近付いた貴子は、傍で倒れている鼻血男に生温い視線と「バ~カ」という小声を浴びせ、起き上がってもやっぱりツルっと滑って尻もちをついた私の身体を起してくれた。
「……あ、うん。だだだ大丈夫なんだけどぉっ! おわわわわ!」
貴子に右腕を支えられているにも関わらず、やっぱり勝手に滑り出す足元に慌てふためいていると、「危ない、ミッちゃん!」と同じく滑り寄ってきたチィちゃんに左側を支えられ事なきを得た。
(ふ~危ない、危ない……)
チィちゃんにお礼をいいながらホッと息をついたのも束の間。いまだ氷の上で無残にも転がっていた鼻血男は、どうやら肉まんの国から無事生還したらしい。頭を押さえつつ、生意気にも下から鋭い眼光で睨みあげてきた。「マジ潰れるかと思ったぜ」と悪態つきながら。
「あ、あの……尾島クンは、大丈夫? その、鼻血が……」
「チュウ、てめぇ! 氷の上に倒れたら痛いし冷たかろうと思って咄嗟にオレ様が庇ってやったのに、そのふっくらしたEの肉まん……ややや違う! 唇……そう! ふっくらとした唇でお礼のチュー……じゃない! て、天ぷら食ったようにテカってる唇から出るのは、礼ではなく悲鳴だけとはどういうこっちゃ! しかも人の腹に遠慮なく体重掛けやがって、もうちょっとでゲロっちまうところだったじゃねぇか!」
ゲロではなく鼻血を垂らしながら勢いよく起き上がった尾島は、ティッシュを差し出したチィちゃんの心遣いを完全無視した挙句、私に向ってビシッと指をさしながらオツユを飛ばす勢いで(ていうか飛んできた)文句を言ってきた。
(おいおい、そっちからぶつかってきておいて、そりゃないざんしょ)
方向性の違う苦情を垂れる尾島にブチッときたが、こんなスケート場まで来て言い合いをしたくない。ここは我慢の子よろしく「ハァ、ドウモスンマセン。アリガトウゴザイマス」などと全然気のない棒読みの返事をして、さっさと切り上げようとした。
それに――不本意だったとはいえ、結果的にはチィちゃんの目の前で尾島に抱きついた姿を見られてしまった。これ以上ヤツとの会話は、たとえケンカのような言い合いであっても避けるべきだろう。些細なことでも恋する乙女に不安と誤解をもたらす行動は、自身の首を絞めることになりかねない。これ以上、チィちゃん達と気まずい雰囲気になるのも嫌だし。
(……けどさ、それにしたって、何でいつも私だけがこんな目に)
そもそも私は広いリンクの端っこで、経験者や上級者の邪魔にならぬよう、貴子と二人で細々と練習していた筈だ。スケート初心者丸出しの私が、やっと正しい転び方をマスターし、立ち方に続いて滑り出しを習っていたところへ勢いよく突っ込んできた尾島がどうみても悪いではないか。
(いや、違う。諸悪の根源はもっと別)
大体私たちはこのスケート場に来る予定ではなかった。偶然が偶然を呼び、巡り巡った結果こんなところまで来て酷い目にあうとは、いささか不公平なんじゃないの神様オラァ! ……と考えたところでしんどくなってきたので、思考を中断させた。
心の中で自分の人生を悔いていたら、右側から不穏な空気を感じた。それはまるで高い木の天辺から地面で蠢くマヌケなネズミに狙いを定め、数分も狂いなく急降下する鷹(貴)のように鬼気迫る迫力。
迫力の元である貴子はハッと鼻で嗤った。
「へ~。スケートは得意だと散々ほざいていた尾島が? 得意競技にも関わらず自身の滑走を止められないまさかの展開どころか? 勝手に美千子にぶつかってきた挙句に鼻血を垂らしながら説教とは! ホッホ、なんてユーモア溢れる男子なんでしょ~」
尾島に容赦ない女子其の一である貴子は、済ました顔のまましれっと言い切った。
普段尾島は女子からチヤホヤされているだけに、こうした意見を堂々と言える(しかも足まで踏んづけた)女子は貴重だ。ちなみに其の二である和子ちゃんがこの場にいれば、さらなる追撃が襲ったことであろう。残念ながら彼女はこの場にいないのだが。
貴子の言葉にグッと口を噤んだ尾島は、怒鳴られて足を踏まれた前例を思い出したのか、踏まれた足を後退させながら「う、うるせ!」と不貞腐れた様子でソッポを向いた。その間にもツーと垂れる尾島の鼻血。
尾島は「あ……」と呟きながらクルッと背を向け、ここでやっと自分の鼻を押さえながら空を仰いだ。尾島は垂れた鼻血が手袋に染み込んでいるのを確認すると、すぐに「チュウ、おら!」と言いながら二度もこちらに向って手のひらを突きだした。その行動から見て、どうやら尾島はハンカチもティッシュも持っていないらしく、図々しくも名指しで催促したようだ。
(すぐ傍でチィちゃんがティッシュを差し出してるのこの状況で、よりにもよって私にブツを要求するとは……アンタ血も――鼻血はでてるけど――涙もない鬼ですか?!)
いや、「ですか?」じゃない。完全に鬼だ。悪魔だ。
私がどうしようと迷っている隙に、チィちゃんは尾島のデリカシーのない態度にもめげずに慌てて、「あの、これ良かったら……」ともう一度ティッシュを差し出した。尾島は一瞬ギラッとした殺気を私に送った後、チィちゃんを見た。すると尾島は、今まで見たことないようなふわっとした甘いスマイルを湛え、打って変わった柔らかい声色で「サンキューな!」とお礼を言いながら鼻にティッシュを詰めた。
「いやいやいや、悪いな茅野! やっぱりどっかの鈍臭い地味女と凶暴女とは違う、違うね~! あれ? もしや君たち二人共、女子のくせにハンカチやティッシュを持ってないんじゃございやせん? 茅野ちゃん、聞いた? この二人、女の風上にも置けないですよね? その点茅野ちゃんは優秀な女生徒だね、女の鏡だね! きっと茅野ちゃんにはイイ男ができる、このオレ様が保証する! なんなら、あっちで真剣に滑っちゃってる一幸なんてどうよ? 無口だけど性格だけは保証する――って、おわわわわぁぁ~!」
私と貴子に背を向けたまま、外国人のように肩を竦めて勝手なことを捲し立てていた尾島は、貴子が般若の仮面を装着した肝心なところを見ていなかったようだ。
可憐な氷の妖精は、女心がまったく読めぬニブチン鼻血男の尻に、スケート靴を履いたまま鋭いタイキックを打ち込むというスゴ技をキメた。
それでも貴子はまだ気が収まらないのだろう。さらなる追撃を加えようと「こンの無神経男!」と吐き捨てながら、尾島の後を追った。いくら運動神経がよかろうと、いまだ慣れぬらしいスケートで暴走する尾島の背中を、さらに押そうとしたその時。
奇跡のような信じられないことが起きた。
尾島は貴子の攻撃を、今までとは打って変わった滑りでクルクルッと華麗なスピンでかわし、「あばよっ!」とさっさと滑って行ってしまったのだ。しかも呆然としている私達の方にわざわざ振り向き、鼻にティッシュを詰めた勝気なアホ面で、「バーカ、バーカ」などという昨今の小学生でもやらぬ捨て台詞を吐きながら。
しかし――世の中は何が起きるかわからない。だから人生は面白いのである。
前方も見ずに「ベロベロバ~」などというサムイことをしていた尾島には、すぐに天罰が下った。彼の身内によって。
「バカっ! そこどいてよっ、啓介!」
小関明日香はよそ見をしている尾島の方に向って勢いよく滑走しながら、どっかで聞いたようなセリフを叫んだ。が、お約束通り間に合わなかった。
期待を裏切らずそのまま派手に衝突した尾島と小関明日香のご両人は、コントのようにツルッと滑っただけでなく、ご丁寧にも二人揃ってもんどり打ちながら氷上に倒れ込んだのだ。
その様は、尾島の鼻に荒井美千子様自ら自慢のゴールドフィンガーを突っ込むという、鼻フックと言う名のティッシュを詰めた脳内妄想よりもスッキリと爽快にさせる光景だった。
「……バッカじゃないの」
賑わうスケート場の真ん中で罵り合うミニマムコンビを見ながらポツリと呟いた貴子のセリフが、雲一つない青空と喧騒に吸い込まれていく。
「茅野さぁ」
「……え? な、なに? 貴子ちゃん」
「本当にあの尾島でいいの? あの尾島のどこがいいわけ?」
「…………」
貴子の素朴な疑問にチィちゃんは苦笑と言う名の無言で返した。おかしなことに何故か私も居たたまれない気持ちになり、チィちゃんの隣で弱弱しく項垂れるのであった。
文中で鼻血を出した尾島は仰向けにしてますが、鼻血は仰向けではなく、下を向くのがいいと聞きました。咽喉に鼻血が流れないようにする方がいいようです。仰向けにした尾島の行動は小説上の話ということでご了承くださいませ!