1月は氷解~Mr.タイガーの写真①~
「……千子……、美千子!」
急に肩を揺さぶられ、ハッと目を見開いた。声の方を見れば、そこには「ザ・魔除けスマイル」の雄臣ではなく、眉根を寄せた貴子がいた。「あ、あれ?」などと呟きながら思わずキョロキョロと辺りを見回せば、やはり漫才の寄席でもなければペントハウスでもない。廊下の突き当たりにある狭い英英部の部室。その証拠にタイプライターやラジカセ、鍵付きの戸棚には都心の大きな書店でしか手に入らないような洋書が並べられていた。どうやら得意の思考ダイブをまたやってしまったようだ。
「どうしたのよ、美千子。さっきから妙な百面相になってるけど」
「……ハ、ハハハ。な、なんでもないよ。ちょっとヤなことを思い出しちゃって……」
「ヤなこと?」
「うん……写真の件は私も悪いし、仕方ないけど、」
あのお土産はヒドいんじゃないかと思って――と言いそうになったところで口を噤んだ。写真やお土産の話は脳内で進行していたことで、隣の貴子が知る筈がない。慌てて「な、なんでもない!」と叫んで引き攣り笑いでなんとか誤魔化し、それよりも休憩を終わらせて勉強の続きをやろうと貴子に告げれば、貴子は顔を思いっきり強張らせた。整っている綺麗な眉毛がだんだん下がる。
「もしかして――」
「え?」
貴子は気の毒そうな表情で私の顔を覗き込み、まるで労わるようにそっと背中に手を添わした。
「もしかして、まだ『あの写真』のこと気にしているの?」
「え? 『あの写真』――って、どどどどうして写真のこと知ってるのっ?!」
脳内思考を読まれた驚きで大声を上げれば、貴子が「は?」と眉根をキュッと寄せながら聞き返した。
「だってあの日の放課後に出回った『あの写真』の件だよね?」
「あああの日の放課後……」
「やだなぁ、美千子大丈夫? ほら、先日の放課後。明日香がわざわざ1組に持ってきた写真だよ。尾島達が散々好き勝手なコメントを言った……寅ニィが撮った、玄さん達との写真のこと!」
「玄さん……あ、あぁ! 『そっちの写真』、ね……」
思考を読まれたわけではないことにホッと息をついていたら、後ろから「ドン!」と机を叩く大きな音が聞こえた。狭い教室に響いた音にびっくりして振り返れば、机に伏せていた和子ちゃんはムックリ起き上がっていた。さっきまで眉も目尻も下がっていたのに、今は思いっ切り吊り上げながら両手の拳を机の上で震わせている。どうやら哀愁漂うお多福からご立腹なお多福に変貌を遂げたようだ。
「ミっちゃん、あんな連中の言うことなんて気にしなくていいからっ! 大体なんなのよ、あの尾島は! 人の不幸写真をネタにして笑いを取るなんてサイテー!」
和子ちゃんの「不幸写真」という言葉を聞いた途端、嫌な記憶が蘇ってきた。思い浮かぶのは、登校時に出会った山野中の裏番ことデビ●マンの脅し文句と、ミニマムコンビが揃って1組の教卓に立ち、大々的に不幸写真を黒板に貼りつけて勝手に脚色した内容を演説する姿。
「ミっちゃんに対してあんな言いたい放題……男の風上にも置けないっつーのよ! これだからデリカシーのないガキは嫌いなのよっ」
「か、和子ちゃんっ!」
再び拳で机を叩く和子ちゃんのおかげで、遥か彼方に吹き飛んでいった「不幸な写真」の記憶。私の代わりに怒りを燃やしてくれる、デキた友達の心遣いに感動して何も言えない荒井美千子の頭上には、天使の祝福が降臨中!
「いくら明らかにロクでもないオッサンに囲まれたミっちゃんの引き攣った笑顔が変顔で面白いからって、あれはないわよねっ!」
「……か、和子ちゃん……」
励まされているはずなのに、なぜか心に吹きすさぶブリザード。羞恥と怒りですべて燃やしたいほど、出来上がった写真の内容が事実だけに何も言えない荒井美千子の頭上には、シベリア寒気団が南下中……。
「しかも、『荒井美千子はオヤジ好みらしいぜ!』なんて……そんなバカげたことを言いふらすなんて信じられない!」
「ハハハ……」
もう笑うしかなかった。
(オヤジ好み、ね)
最近になって荒井美千子にまつわる形容詞――地味、鈍臭い――に次いで新たに加わった言葉だ。ま、あながち間違ってはいない。
ただし、オヤジはオヤジでも「東小父さん」のような味のあるステキなナイスミドル限定だが。
大体オヤジというよりオジヤのような、ゴチャっとしたわけわからんナスビ踊る中年までOK、カモ~ン! などという寛大な心は持ち合わせていない。
貴子は和子ちゃんの怒りに押されて一応は頷いたが、すぐにフフフと忍び笑いをした。
「……あ~まぁ、そうなんだけど……確かに尾島は酷いけどね? でもあれは、嫌がらせとはちょっと違うというか」
「え~なんでよ、貴子ぉ。どう見てもミっちゃんに対する嫌がらせじゃん。始末悪いでしょ、あれは」
同意してくれない貴子に和子ちゃんが不満を漏らす。私も和子ちゃんに続くようにウンウンと頷くと、貴子は苦い笑いをしながら「チッチッチ」と人差し指を立てて横に振った。
「いや、あれはね? 嫌がらせじゃなくて、どちらかというと死守、よ」
「「ししゅ?」」
「そう。美千子が誰とも引っ付かないようにワザと言ってるワケよ。オヤジ好みって悪い噂を流しておけば、男子は誰も寄りつかないでしょ?」
クルっと回る子猫のような瞳をキラリと光らせた貴子は、意味深な視線を私に流した。ドキッと心臓がはねる私の横で、和子ちゃんは「なにそれっ」と悲鳴のような声を上げた。
「死守ぅ?! やっぱりどう見ても嫌がらせじゃん! ミッちゃんが男子に近寄れなくするためだけにあんなあることないこと言うなんて……どんだけエライのよ、あの尾島は! ていうか、何様? それに男子を死守するなんて、気持ち悪いんですけどぉ! ホモかっつーの! それでなくとも田宮、ミっちゃんのこと驚いた顔で見てたよ? アレ、絶対に誤解してるよ」
「ヒェェェ~!」
和子ちゃんの口から知りたくもない事実が飛び出し、今度は私が悲鳴を上げる番だった。
もう田宮君とどうこうなろうなどという気持ちは――正直ちょっとだけ、ある。が、可能性はほぼ皆無とわかっているので今更頑張るつもりもないから、半ばあきらめの境地にいた。
だが、そうはいっても自分好みの王子からドン引きされるのはやはり辛い。ガックリと落ち込み、和子ちゃんが座っている机の前にしゃがみ込むと、貴子は私の頭を撫でてくれた。
「や、死守する対象は男子というより…………まぁいいや。それより美千子、そんなに落ち込まないで? 田宮くんもそのうち忘れるって! それよりホントに始末が悪いのは尾島じゃなくて桂龍太郎と寅ニィだから! いい、美千子。これから先、脅されたからって、あんな写真絶対に買っちゃダメよ!」
今度は化け猫のようにくわっと瞳を見開き、ギラリと光らせながら怒鳴った貴子。私は慌てて何度も頷いた。
***
その事件は正月休みが明けて間もない、3学期のある晴れた日に起こった。
不思議なことになぜかその日は、朝からロクでもないことが続いた。
我が家の黒電話が鳴り響――きはしなかったが、朝方まで小説を読んだせいで、思いっ切り寝坊をしてしまったのだ。こんな日に限って頼みの綱の母は早朝から出かけ、妹の真美子は朝練で母より早く登校していた。
呑気に明け方まで本を読んでいた自分を罵りながら、猛ダッシュで学校の裏門へ向えば――前方に黒電話と言うよりロクでもない戦隊の黒のポジションを名乗る学校一厄介な男が、肩で風を切りつつダラダラと歩いていた。
一瞬怯んだが、既に予鈴は鳴っていた。コッソリとヤツの後ろをストーキングしながら校舎に入るまでジッと待つだとか、わざわざ正門に回っている時間はない。一世一代の決心で、伸びた金髪をリーゼントに整え、指定外のつぶれた学生鞄と超短ラン&ドカン、槍の剣先かと思うほど超尖っている靴をお召しになっているデビ●マンの横を完全無視の勢いで走り過ぎた荒井美千子。
――が、旗のついたポールに飛びつく赤い帽子を被った髭のオッサンのように、ゴールの達成感を味わったのはほんの束の間だった。5メートルも開かないうちに、
『ゴルゥァア!』
……と言う声が背中に投げつけられたのだ。「これぞ巻き舌!」という見本のような素晴らしい発音で。