1月は氷解~Mr.ゴッドの進路・前編~
「……え、え~と、だからこの‘to’は前置詞の役割ではなく、この名詞にかかるto不定詞というやつで、いわゆる形容詞的要素を含んでいるから……」
要らない藁半紙の裏に書いた英語のセンテンスの内容を説明すると、目の前でウンウン唸っていた和子ちゃんは、眉根を寄せた険しい顔を急に半べそ寸前の幼稚園児のように変化させた。その情けない表情はまるでつい先日迎えたばかりのお正月の福笑いのようで、思いっ切り失敗したお多福になりそうな勢いだ。
「……どうしよう、ミっちゃん」
「え?」
「全然言ってる意味がわかんない。ていうか、もはや何処がわからないのかがわからないよぅっ!」
そう叫んだ和子ちゃんは、ガバリと英語の問題集に顔を突っ伏して「あ~ん、どうしよぅ~」とくぐもった声を上げた。運動全般は得意だけど国語以外の勉強全般は苦手という和子ちゃんは、特に英語と相性が悪かった。私に言わせれば同じ語学だし、あの活用がちんぷんかんぷんな古文の文法より英語の方が断然楽なのにと思うのだが。本人いわく「古文漢文はロマンがあるけど、英語は実用って感じでツマンナイ!」なのだそうだ。ひそかにロマンス小説が好きな和子ちゃんらしい。
向かい合って座っている私はそっとため息を吐きながら少し休憩しようかと尋ねると、和子ちゃんは未だ顔を伏せたまま大人しく頷いた。……既にその休憩は3回目なんだけど。
「ちょっと、和子。せっかくこの教室まで来たのにさっきから休憩ばっかじゃないの」
「だってぇ~、ここに来ればちょっとでもあやかれるかと思ったんだもん……」
「気持ちはわかるけど、さっきから全然進んでないじゃない。もう英語は一旦置いといたら? それより気分転換を兼ねてさ、暗記すれば確実に点数を取れそうな実技科目を今のうちにガッチリ抑えてみるのは? 音楽とか保体とか。それこそほら、得意な国語を完璧に仕上げるとか」
和子ちゃんの隣でペンをクルクル回しながらアドバイスしたのは、「ア・テスト」対策の参考書に赤ペンを引いていた貴子だった。久しぶりに放課後まで残っていられるのは、貴子のお父さんが珍しくまとまった休みを取ってくれたからと教えてくれた。彼女のお父さんは長距離トラックのドライバーさんなので、家を空けるのも長いが一つの仕事が終われば休みの融通が効くらしい。
「ん……そうなんだけど。ちょっとでも英語は良くしとかないと……2学期のテストも散々だったし。3学期の成績は、ほら……内申書に響くじゃない? それに英語が良くできれば――も、もしかしてよ? 東先輩と仲良くなれるキッカケがデキるかもしれないというか……」
「…………」
そっと顔を上げた和子ちゃんは上目づかいの涙目で、しどろもどろ弱弱しく呟いた。
(やっぱり、そこか……)
なんとなく気付いてはいたが、改めて理由を聞けば女性として共感できる反面、「あの鬼神・修羅にそこまでしなくていいよ」と諭したい衝動に駆られてしまう。
「ん~。……でもア・テストまで2ヵ月切ったから、そろそろ追い込み掛けないと」
貴子が綺麗な眉を八の字のように下げると、和子ちゃんも同じように困ったチャンの悲しい顔つきになった。
「ア・テストまで2ヵ月……ということは卒業まで2ヵ月……といことは先輩と会えるのもあと2ヵ月……あ~ん、どうしよぅっ!」
「「…………」」
再び半べそを掻きながら机に突っ伏した和子ちゃんを見た私と貴子は、お互い顔を見合わせながらなんとも言えない苦い顔をした後、再び深い溜息を吐いた。
(卒業……か)
和子ちゃんの気持ちがうつったのか、目の前に広げてある「ア・テスト」の問題集を目で追っても全然頭に入らなかった。気分転換をするために席を立って窓から空を見上げた。しかしいつも見上げる空となんとなく雰囲気が違く見えるのは、ここが自分の教室である2年1組ではなく、英英部の部室だからだろう。今朝方から鉛のような色をした雲から小雨が降っていたが、空から白いものがふわりと落ちてくるのが見えた。天気予報通り、雪に変わったようだ。
「あ、やっぱり降ってきたね、雪」
いつの間にか貴子が横に立って窓の外を見ていた。
結局夏から切らなかった貴子の長い髪は既に胸の下あたりまで伸びており、毛先までキレイな栗色だ。今日は雨の為部活が中止なので、長い髪を括らずそのままである。引退してもうるさい3年に見つかれば一言注意されそうだが、当人たちは来月から始まる自分たちの高校受験のことで頭が一杯の為、2年生は徐々に服装や行動が最上級生のような自由さが滲み出ていた。
「……どうりで寒い筈だなぁ」
そっと呟いた貴子の横顔は、今二人の眼下に広がっている雪がはらはらと舞い落ちる誰もいない校庭のように寂しそうだった。みんなでワイワイ楽しくおしゃべりするときも力なく微笑むだけ。
日下部先輩といる時でさえも。
2学期に入ってからほぼ毎日一緒に下校していた貴子と日下部先輩の姿は未だ健在だ。何度かその姿を見掛けるけれども、何故だろう。とても楽しい会話が弾んでいるとは言えないような雰囲気だった。もうすぐ日下部先輩が卒業してしまい、離れ離れになることが貴子の表情を暗くしているのだろうか。それとも――
(……いや。先輩と会う時間は少なくなるし、お母さんも病気のこともあるから不安なんだ。日下部先輩、私立の男子校にサッカー推薦貰っているから、貴子が卒業しても一緒の学校というのは無理だし)
つい先日幼馴染が教えてくれた日下部先輩情報を思い返していると、その情報源である雄臣の姿が嫌でも頭に浮かんだ。
受験が迫っているからか。連日猛勉強の為に神経が研ぎ澄まされ、相変わらずのイイ男っぷりに益々凄味が増している雄臣。
カノジョがいるとわかっているにも関わらず、彼のファンである女子達は3月の卒業に向けてなんとか彼の心を射止めようと躍起になっていた。特に雄臣の進学先については年が明けるまでベールに包まれ、あの手この手で情報を掴もうという必死振り。のらりくらりとかわす本人から情報を得られないので、将を射落とせないなら馬を責めることにしたらしい。その結果、馬の中でも力強い若さが溢れる牡馬の「アラタナヒカリ(安西新)」と、ヨレヨレ負け越し牝馬の「アライマイチクイーン(荒井美千子)」にオッズ言う名のターゲットが集中した。ちなみに暴れ馬「マミコマッチャウ(荒井真美子)」は、どうにも止まらないほど機嫌がアンダーな為に欠場を余儀なくされた。というより、いつ後ろ足で蹴り飛ばされるか恐ろしくて近寄れないと言ったほうが正しい。
そういうわけで去年の12月などは、我が1組のモテ男である尾島と佐藤君の二人を差し置いて、圏外からトップテン入りするほど女子の呼び出し攻撃を受けた荒井美千子。宝塚も真っ青な人気ぶりだが、残念なことに彼女たちの期待に応えられるような走り……いや、情報を入手していなかったので、すぐランク外に転落した。
実際当の雄臣は年が明けるまで荒井姉妹やアラタにも進学先を黙っていた。あまりにも雄臣ファンがしつこいので、身の安全確保の為に雄臣のことを安西先生に尋ねても、
『ごめんねぇ、雄ちゃんに口止めされてて詳しいことを教えてあげることはできないの。でも……雄ちゃんも色々考えているみたいよ? なんだか自分でいろんなことを調べているみたいなのよねぇ。ほら、兄さんのマンションに帰ることが多いじゃない?』
……と困った顔で僅かなヒントを残すだけ。唯一教えてくれたのは、今後の進路や生活方針の最終確認をする為、雄臣は年末年始に東小父さんがいるニューヨークへわざわざ出向くということだけだった。