ダイヤモンドの野獣たち⑨
尾島の態度がおかしいのに気付いたのは、いつだろうか。
チュウと呼ばれるどころか、私だけが声を掛けられないことに気付いたのは。
無理矢理面倒事を押し付けたり、後ろの席から小舅のような小言を言ったり、ちぎった消しゴムを投げたり、宿題見せろと強引にノートをむしりとったり、掃除のときにわざと人の前でゴミを捨てたりしなくなったのは。
私一人の時、尾島は絶対に近付かなくなった。
誰かが一緒の時だけ、話し掛けてくる。朗らかにしゃべっているように見えるが、その実私と尾島の間に直接的な会話はない。
たまに目が合えば、尾島は慌てて顔を逸らした。怒ったように顔を赤くしながら。
バスケの練習試合の宣伝の時もそう。
原口や成田耀子を始め、ブキミちゃんを除いたクラスの女子ひとりひとりに宣伝していたのに。もちろんお昼をしに来た幸子女史やチィちゃん、それこそ犬猿の仲の和子ちゃんや貴子にまで声を掛けていたのに。
話の流れで私の番になると、急に目を泳がせる尾島。タイミングよく用事を思い出し、慌てて去る尾島。
だから。
なぜかシクシクと痛む心を少しでも和らげるため、先手を打って尾島を視界に入れないようしたり、入らないようにするのは当然ではないだろうか。
いくら「練習試合」の観戦を尾島に直接勧誘されなかったからとはいえ、見学するのは自由なのだから、勧誘関係なく少しでも観戦すればいいのに、意地を張って差し入れの予定なんか入れたり、しかも「貴子を元気づけるため」なんてとってつけた理由を自分に言い聞かせるのは、仕方がないことではないだろうか。
尾島からは以前のような嫌がらせはない。男子と話せば相変わらず鬼の形相で睨まれるが、それ以外は冷たい視線もない。
その代り、いい意味でも悪い意味でもターゲットにされることは無くなった。いや、むしろ避けられていると思うのは、私の勘違いだろうか。
おかげで原口や成田耀子のあからさまな陰口もない。
至って平和な日々。これこそ私が望んでいた中学生活。
けれども――
元のような関係でいいと、むしろ戻れることに少し安心した私の思いは、いったい何処にいけばいいのだろう。
***
「――いさん。荒井さんっ!」
「え? あ、は、はいぃっ?」
星野君の呼びかけ声で我に返った。
どうやら思考のダイブをしていたらしい。辺りを見回せば、2年1組の教室でもなければ、体育館でもない。区民センターの駐車場だった。星野君の方見れば、両手に抱えていた荷物をその場にどさりと降ろしている。
星野君はあれ以来すっかり黙り込んでしまい、二人とも無言のままここまで来た。おかげで嫌なことを思い出してしまったけど、話すのも億劫だったのでかえって良かったかもしれない。
「ごめん、荒井さん。本当に助かった」
「ハァ……あ、い、いえ。お役に立てて光栄デス」
「それ、預かるよ」
星野君が手を差出したので、持っていたスコアブックや救急箱を手渡した。そのおかげで片手が空き、肩にかけていた桂寅之助の超重いバッグを降ろすことができた。
ゆっくり歩いていた星野君と私以外の選手は、とっくに駐車場で寛いでおり、車の前で一服していたり、その場で着替えをしている人もいた。
私を怒鳴りつけ、荷物を押し付けた赤鬼なんぞは、どうみても正規の造形から逸脱している、改造しまくりの戦車みたいなバイクの前で、ヤンキー座りをしたまま堂々と煙草を燻らせている。
「…………」
しかもぐるりと駐車場を見渡さなくとも、すぐに目に付くくらい近くにある公衆トイレ。
(なによ……トイレ、駐車場から超近いじゃん! 荷物を持ったまま行けばよかったんじゃないの?)
さっきからイライラと嫌な気分が続いているせいなのか、見るもの聞くもの全てが気に食わない。
脳内でお宝ショットが詰まったこの高そうなカメラを地面に叩きつけ、密かに乱暴に降ろした赤鬼のスポーツバッグを、サンドバッグの代わりにして一人ムエタイをすることで鬱憤を晴らしていると、玄さんが「大野ゴールデンカップス」のメンバーに徴収をかけた。
「ごめん、荒井さん。ちょっと行ってくる。悪いけど、もう少し待っててくれるか?」
星野君の念を押すような声を聞いた途端、ハッと脳内ムエタイから、本来既に完了している筈の自分の用事を思い出した。
(ヤダ……こんなところで想像力膨らませて、油を売ってる場合じゃない! このチャンスを逃せば後はないぜ、荒井美千子!)
少なくともこの瞬間を逃せば、野獣共から脱出するのが難しくなるのは確かだ。それこそ車などに乗せられたら(まるで誘拐)、そのまま『まるやき』に連行されてしまう(もはや拉致)。
私はブルっと身体を震わせ、ブンブンと頭を振りながらジリジリと星野君から離れた。
「イヤイヤイヤイヤ! ほ、ほら! 私、貴子の家に行かないとっ! み、皆さんはこの後『まるやき』に行くんでしょ? なら、これにてサヨナラということで! 皆さんには星野君から一言伝えてもらえればいいから、ね!」
私は「お邪魔虫はこの辺で速攻退散しやすぜ、アニキぃ!」というように、歪んだ変顔スマイルで両手を振って後ずさりをしつつ、「どうか達者で暮らしてくだせぇ、ゲヘヘ☆」と敬礼しながら爽やかに退場しようとすると、星野君の大きな手がガシリと両肩に乗った。
ヒィッとビックリして、大胆にも両肩に乗っている星野君の手を見た後顔を上げれば、滅多に見れない相当焦った彼の顔がそこにあった。
シチュエーションが違えば、今の星野君の顔はなんとかチッスに持ち込もうと意気込んでいる、切羽詰った青春真っ盛りの中2男子そのもの(思いっ切り失礼)。だが、実際は違うだろう(当たり前だ)。
どちらかというと、ヘナチョコ見習い魔導士(荒井美千子)と、そんな弟子を連れた偉大なる魔導士の師匠(星野一幸)。二人は魔獣退治に魔窟へ向かったはいいが、魔獣を目の前にして屁っ放り腰の弟子がいきなりトンズラしようとしたので、無理矢理連れ戻す師匠と言ったところか。
「ダメだ、荒井さん!」
「かかか勘弁してください! わ、私の未熟な力では、あの猛獣らに効くかどうかっ」
「え? たわわの魅力なカラダでは、愛のモーション破が効くかどうか? 荒井さん、大丈夫か!」
「ワァァオッ! やややっ、色々と違いますよって! あ……その、こちらの妄想でして――」
「ゴジラの暴走?」
「……ハハ。モウイイデス」
「なんか良くわからないけど、それより荒井さん。このまま帰るのは非常にマズい。荒井さんが草野球の試合に来たことはすぐバレる。寅ニィも玄さんも力もいるから、絶対荒井さんの話題出てくると思うし。だからせめて『まるやき』に顔を出して、直接会った方が後々憂いがない。『あっちの試合』を見ないで『こっちの試合』を見たなんて知ったら……もうこの際嘘でもいいから、『試合見た』と一言言ってもらえれば!」
「嘘? ででででも、草野球の試合なら本当に見たから、嘘じゃないんじゃ」
「草野球……や、そっちの試合じゃなくって! いいから、とりあえず待ってて、な?」
「えぇっ? ちょちょちょっと! あの、あのですねっ!」
私の必死の叫び声も虚しく、星野君は無口どころか、いつもより多すぎる訳が分からん台詞を早口で捲し立てた。あっちこっちそっちってどっちよ! と問い詰める前に、非常に慌てた様子でそそくさと走って行ってしまう星野君。
(そ、そんな~!)
手を伸ばしたまま固まった後にがっくりと脱力すると、急に疲れがドッと襲ってきて、その場にしゃがみ込んでしまった。
(朝から部活だったしな。それに見知らぬ人に多く会ったせいかもしれない。オマケに先程から、扱き使われっ放しだし)
片手にぶら下げてある化粧品の袋が妙に重たかった。本当は軽い筈なのに、今日は貴子に届けることができないかもしれないという現実が重たくさせているのか。
暫くそのままだったが、しゃがみこんでいるのも疲れたので、一先ず赤鬼のサンド……いや、スポーツバックを戦車みたいなバイクの傍に置いて、どこかに座ろうとカバンを持ち上げると、あちこちの方向からあらゆる名前を呼ばれた。
(え?)
そう。言葉通り、あらゆる方向から、違う言い方で自分の名前を呼ばれたのだ。
「おーい、ボイン! 荷物持ってこい……って、あぁ?」
「待たせてごめん、荒井さん! ……って、ゲっ!」
「あれ? 美千子ちゃん、なにしてるの?」
「あっ、寅ニィにと星野だぁ! あれぇ? ミっちゃんまでいるぅ!」
でも次の言葉にはぶったまげた。
「チュウ……テメェ! なんでこんなところにいやがるんだぁっ」
目が点になってしまった、荒井美千子。
いつの間にか「大野ゴールデンカップス」のミーティングは終わっていたようだ。だから、桂寅之助先輩と星野君に声を掛けられたのはわかった。
しかし、他の掛け声は?
いくつかのありえない掛け声にゆっくり振り向けば、お馴染みすぎる、しかしこの場にいるはずのない見知った顔達がそこにあった。私を呼んだ人たちは、私の名前を呼んだはいいが、それぞれ思い思いの顔を浮かべている。
それは驚愕だったり、笑顔だったり、不思議顔だったり、怒りだったり。
だから、赤鬼のカバンを肩から滑り落としてしまったのは仕方がないことだと思う。
ましてや、「ボイン、てめぇ!」と赤鬼に怒鳴られても、謝るだとか、急いで拾い上げる余裕などありはしない。
振り向いたそこには、赤鬼に引けを取らぬ憤怒の形相の尾島を中心とする、バスケ部のデカミニコンビがいた。
「やっだぁ、美千子ちゃん! デートだったら、そう正直に言えば良かったのにぃ! もぅ、水臭いんだからぁ」
どう見ても思いっ切り勘違いをしている、とびっきりキュートなスマイルと共にウィンクを投げた安西先生も。