山野中体育祭!~幸福の赤いハチマキ⑤~
『それでは第2位のチームを発表に移りたいと思います! 1位と2位のチームはかなりの接戦でした。両チームとも追いつけ追い越せの勢いで、首位争いを展開した結果……第2位は総合得点330点で、赤組チームです! そして優勝は、350点で青組です! おめでとうございます!』
アナウンスを担当していた生徒は、終盤に差し掛かりだいぶ小慣れてきたのか、タップリ間を開けてから結果を発表した。
2位の順位が確定された時点で赤組の生徒たちは落胆の悲鳴を上げ、離れたところにいる青組の生徒たちは、大歓声を上げた。それに追い打ちをかけるように発表された青組の優勝。
『第2位の赤組応援団長、表彰台の方へお願いします!』
私の周りからワァッと歓声が上がった。
優勝は逃したが、2位という結果に満足したようにたくさんの拍手と口笛が、表彰台に上る赤組応援団長の辺見先輩に送られた。辺見先輩は周囲に乗せられたように、壇上へ上がった途端ガッツポーズを決めて生徒たちにアピールしている。それを見ながら、「このドスケベ!」などと訳の分からないヤジを送っているのは、少し斜め前に立っている男。ヤツの前に立つ諏訪君と一緒にふざけた声援を送る男。
熱い――
動いてもないのに、拍手をしているだけなのに、その男の声を聞くだけで頬が熱くなった。
『それでは最後に優勝した青組の応援団長、表彰台の方へお願いします!』
生徒のアナウンスの後に聞こえた、「貴子!」と叫ぶ和子ちゃんの声で熱が僅かに散った。
隣の2組の男子の列を隔てて立っている和子ちゃんの方を向けば、満面の笑顔だった。和子ちゃんの前にいる貴子の顔を見れば俯いて苦笑いをしており、和子ちゃんから「顔を上げろ」と急かされている。
私も壇上のマイクの方へ視線を移すと、賞状を授与するときの定番の音楽が流れ、壇上に上がっている校長先生が生徒会の人から優勝旗を渡されているのが見えた。すぐに青組応援団長の日下部先輩も壇上に上がり、校長先生から優勝旗とトロフイーが手渡されると一斉に強くなる拍手。クラスの最後尾でその様子をボンヤリと見ながら拍手を送っていた。
まだ、熱い――
異常に身体が火照っていた。
この熱さは、体育祭のクライマックスを飾る色別対抗リレーの前から、湯呑を給湯室に置きに行った後で「あの男」と話をしてから酷くなった。そして、閉会式をしている今も尚燻り続けている。全身を駆け巡るこの熱は、どうやらを「あの男」を見る度に、そして、私の首に掛けてある汚いハチマキを意識するたびに濃度が増すのだ。
尾島の汗が染みて、踏まれた汚いハチマキを首筋に意識する度に。
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尾島と星野君が話しているのを息を顰めながら聞いていた私は、頬に流れた温い涙を指で拭った。
尾島が壁を蹴った後も二人は少し言い合いになっていたみたいだが、大きい怒鳴り声をあげることはなく、そのうち星野君の「先に戻ってる。早く入場門へ行け」の言葉を最後に声が聞えなくなった。
てっきり尾島も一緒に行くと思ってたのに、確実にこちらに近付いてくる足音に現実に引き戻された。
どうしようと意味もなく焦る心。それは、二人の会話を盗み聞きしたからなのか。まだ尾島は怒っているかもと恐れているからなのか。それとも……?
『チュウ』
さっきまで怒鳴っていた声とは打って変わり、静かな声だった。
名前を呼ばれると、私はビクッと震えてさらに顔を俯かせてしまった。目に溜まっていた涙はもう拭ってしまったが、まだ涙目になっているだろうと思うと恥ずかしくて、顔をあげて尾島を見ることができなかった。
上から聞こえてきた溜息にさらに縮こまっていると、空気が動くのが分かった。目の端には尾島の足しか見えなかったのに、しゃがみ込んだのか、膝に腕をかけているのが見える。ヤンキー座りをしている尾島の手には赤いハチマキ。星野君が言ったように、派手に踏まれた汚いハチマキ。顔を見れずにハチマキばかり見ていると、下からヌッと顔をのぞかれた。
『おい。チュウのくせにシカトしてんじゃねぇよ!』
『えっ! ち、ちがうっ! シカト……なんて、してな……い』
尾島の口調がいつもの調子に戻っていたので少しずつ顔を上げると、そこにはやっぱりいつもの生意気そうな顔。人を小バカにしたような、いたずら小僧のような、ろくでもないことを考えているような、ニヤリと口の端を上げている顔。普段は憎たらしいその顔と声に、なぜだろう、ホッと安心してしまった。
『ったくよぉ。なーに泣いてんですか! チュウが学ラン取られたわけじゃあるめぇし。あ~もう一幸は行ったから、チュウも行け? ……おっと、その前にここで話したことや聞いたこと、内緒だからな。ついでに、オマエが校舎で見た3年のことは忘れろ。誰かにしつこく聞かれても無視だ。いいな?』
私は慌てて頷いた。
『よし。あと知ってるのは、後藤と佐藤と……伏見か。ヤローはいいとして……ッチ、まーた厄介なのに首突っ込まれたぜ。あの女、神出鬼没でホントうぜぇな。妖怪かよっ!』
『…………』
アンタがそれを言うかとは言えず、とりあえず無言で通していると、尾島は真面目くさった顔で私の顔をジッと見た。え、なにと見つめ返したら、突然にゅっと伸びてきた尾島の手。ギョッとして身体を仰け反らせると、その手は私の頭を優しく撫でた……と思ったら、そのまま押すようにグイッとハチマキを掴んで後ろにずらした。おかげで頭ごと首を後ろに引っ張られ、気が付いた時にはハチマキを取られていた。
『ちょっ、な、なに?!』
『いちいちうるせぇなぁ、チュウは。ハチマキ取っただけだろうが! え? なになに? 是非このハチマキと汚い尾島様のハチマキを交換したいって? 仕方ねぇな、そこまで言うなら交換してやるか!』
『え――えぇっ?!』
『しょうがねぇ。オレ様はチュウのハチマキで我慢してやっかな~』
『はぁっ?!』
『……あのな。競技にも出ず、ただボケッとつけられているだけで全然活躍の場がないこのチュウのハチマキを、少しでも昇華してやろうっていうこのオレ様の親切心がわからんかね? 相変わらず鈍臭いね、君は! こう、もっと上手く空気を読め?』
『…………(そういうアンタは空気を読むどころか、読み間違えてるだろーが!)』
『なんか言ったか?!』
『……いえ。た、ただその汚い自分のハチマキをするのが嫌なだけなんじゃないかと……』
『バカヤロ! そこは読まなくていいンだよ! いいか、良く聞け? このオレ様のハチマキにはな、汗と汗と汗がっ! ……あぁ、鼻水もついてたっけか? ともかく! 3倍濃縮の汗と将来有望であるオレ様の青春の欠片が詰まった貴重なハチマキなんだよ。心して受け取れや!』
『汚なっ! ……あ、いや、その……や、そそそそんな困るって!』
『バカ、ここは遠慮するところじゃねぇンだよ。ま、オマエの哀れなハチマキをして、トップを走ってやりますから? 有難く思えってことだ! つーわけで、リレー絶対見逃すんじゃねぇぞ? じゃ、オレは行く』
急にすくっと立ち上がった尾島。彼の手にある私のハチマキを慌てて掴もうとしたが、ドジョウのようにスルッと逃げられた。汚い自分のハチマキを私の頭の上に残して。
『クク、美千子じゃなくてニブ子だな』
『えっ!』
急に下の名前を呼ばれたので、ドキーっと心臓が跳ね、バカみたいに唖然としたまま尾島を見上げてしまった。その隙に笑いながら階段下から飛び出して走り出した尾島。私が後を追って慌てて廊下に出たときは、既に扉の所で靴を履いていた。
『お、尾島! ちょっと、待って!』
『オレ様の活躍見て腰抜かすなよ、チュウ!』
尾島は片目を瞑りながら舌を思いっきりグイッと出し、両手でサムアップをビシっとキメた後、扉の向こうに消えた。
***
それから私は、異常に早くなる鼓動を持て余しながら、グラスを急いで本部席の方へ持って行った。
ブキミちゃんに怒られると覚悟していたが、幸いなことに生徒会の人達はそれどころではなく、閉会式に向けての準備でてんやわんやだった為、私のことはすっかり忘れられていたみたいだ。とりあえず持ってきたグラスに麦茶を淹れて、役員席に運んだ。配り終わると同時に、体育祭のメインイベント、色別対抗リレーが始まる。
音楽に合わせ入場門から出てくるリレーの選手たち。
各クラスから男女一名ずつ選ばれた先鋭部隊が所定の位置に待機した。
私は来賓席の横からこっそりとトラックを窺っていた。
用事が終わったので応援席に戻っても良かったのだが、なぜか戻る気にはなれなかった。
だって、私の居た場所は、来賓席の前にあるトラックを挟んでちょうど選手が待機する場所が見えたから。
誰にも邪魔されずにそっと一人で、選手達を見れたから。
選手の中に混じっている貴子と目があった。こちらに気付いたのか、一生懸命手を振っている。私もそっと手を振りかえすと、貴子の仕草で気が付いたのか、私のハチマキをしている男もこちらを見た。
(尾島……)
心臓が跳ねてしまうのは、どうしてだろう。
なぜ鼓動が早くなり、指先が震えてしまうのだろう。
恥ずかしくて、不自然に目線を逸らしてしまった。
私を見てたんじゃないよねと思い、後ろや周囲をキョロキョロみたが、誰もいなかった。
(き、気のせいだよね……そうだよ、自意識過剰なんだよ、私ったら!)
ハハっと笑い、もうこっちを見てないだろうと、もう一度そっと尾島の方を見れば――
(……ど、どうして)
この喧噪の中、真っ直ぐにつながった一つの線。
尾島はやっぱり私の方を見ていた。
今度は逸らさなかった。逸らせなかった。
この時の私は、貴子でもなく、青組のアンカーの襷をして何か言いたそうにして眉根を寄せている雄臣でもなく、尾島だけを見ていた。
各色の1年生がスタートラインに立ち、ピストルの合図で一斉にスタートをしても、一瞬気を取られただけで、また目で尾島を追ってしまった。
仲間を応援する尾島から、時々私の方を見る尾島から目を離せなかったから。
熱いグラウンドを次々と滑走する選手たち。
赤と青が接戦だったのに、途中で赤組の選手がバトンを落とすと、歓声と悲鳴が沸き起こった。
最下位に順位が下がった赤組は、2年2組の代表である笹谷貴子にバトンが回ると、彼女がぐんぐんと追い上げ、3位を走っていた緑組の女子を抜かす一歩手前まで近付いた。そして、貴子から2年の最後の滑走者である男子にバトンが渡る。
『貴子、急げ!』
叫ぶ、尾島。
尾島はバトンを貴子から受け取った瞬間、バトンゾーンから電光石火の如く飛び出した。
私の目は、初めてトラックを走る選手に向けられた。
コースにそって疾走する、尾島の背中に釘付けだった。
活躍の場がなかった私のハチマキを靡かせがら、あっという間に3位の緑を抜かし、コーナーに差し掛かる尾島。赤組の応援席の近くまで走って来た時には、2位の黄色の選手と並んでいた。
ここからでも原口美恵が前を陣取って一生懸命応援しているのが見えた。
今なら彼女の気持ちがわかる。
わかりすぎるくらい、わかる。
とうとう最後のコーナーに来た尾島は、前を走っている青組の選手の背後に近付いていた。どんどん距離が縮まる赤と青。トップを走る青組の選手は、確か陸上部。学年で一番の俊足の持ち主。それにも引けを取らぬ尾島の足。
『ま、オマエの哀れなハチマキをして、トップを走ってやりますから?』
(……本当に?)
いつもの調子いい冗談だと思っていたのに。
いつのまにか――私のためであって欲しいと祈っている自分がいた。
気が付けば、私は首に掛けている尾島の汚いハチマキに触れていた。
なんとなく恥ずかしくて頭にはつけられなかったハチマキ。
心の中で、あと少し、あと少しと声援しながら、そのハチマキを握っていた。握りしめたところからジワジワと熱くなった。
(頑張れ……頑張れ、尾島!)
祈るように両手で鉢巻を強く握りしめた刹那、赤と青が並んだ。
その光景は私にはスローモーションのようで――時間が止まったかのように見えた。何も音が聞えなかった。
そして、とうとうバトンゾーンの手前で赤が青を追い抜かし、
尾島がトップに躍り出た瞬間――。
『赤組が青組を抜かしました!』
実況中継のアナウンスと今日一番の生徒達の歓声が、私の中に飛び込んできた。
尾島はその勢いのままバトンを3年に引き継ぐと、バトンゾーンから流れるようにコースを逸れて失速し、フラフラになりながらその場に座り込んだ。
尾島に群がる滑走済みの赤組の選手たち。
ますます赤と青はデッドヒートを繰り返し、佳境に入る色別対抗リレー。
でも、私の視線は――
トラックを走っている選手ではなく、相変わらず仲間から激励を受けて叩かれている尾島に注がれていた。
青組のアンカーである雄臣が赤組を抜かして劇的にテープを切っても、私には尾島の姿しか目に入らなかった。