山野中体育祭!~幸福の赤いハチマキ②~
「グラスはそこの茶箪笥にあるわ、適当に持って行ってね~」
事務のオバチャンが丁寧に教えてくれたので、私も笑顔を浮かべながらお礼を言ってお盆にグラスを乗せた。茶箪笥の扉を閉めて給湯室から出ようとすると、オバチャンは「あら!」という言葉を私の背中にかけた。
「あらいやだ、あなた2年1組なのね! もしかして例の赤組応援団員と同じクラスの子?」
私は振り返り、なんで私のクラスがわかったのかと驚いた表情をしていると、「背中のゼッケンに書いてあるじゃない」と目じりを下げながら教えてくれた。
「オバチャンも応援合戦見てたのよ~。毎年応援合戦と男子の競技だけは見ちゃうわねぇ。目の保養ってやつかしら? なんか若いっていいわよねぇ、青春って感じで! オバチャンもあの頃に戻れるもんなら、戻りたいわぁ~」
「は、はぁ……」
「そうそう、赤組の応援合戦! ありゃ一体なんなのかしらね? 5人だけ背中の文字が違うんだもの~。『犯人 イマ スグ デテ コイ』なんて、なんだか穏やかじゃないわねぇ。そういえば、1組の担任の青島先生と学年主任の先生がなんか学ランがどうとかって騒いでたけど、それと関係あるの?」
「……ど、どうなんスかねぇ……」
穏やかじゃないなんて言うわりには、好奇心で一杯の顔を近付ける事務のオバチャン。
私は尾島の提案により、急きょ変更した学ランの背中の文字のことを思って顔を歪めた。
あの時ヤツがテープを持っている私に支持したのは、「闘魂」という文字ではなく、「犯人 イマ スグ デテ コイ」などという、犯人や先生を刺激する言葉だった。
赤組の応援団がグラウンドへ入場し、3年、2年、1年の順に横一列に並び、観客席や来賓席に背中の文字を見せると、観戦していた生徒や先生たちは「何事か」とざわめき立った。だって、赤組応援団全員が「闘魂」の文字なのに、2年1組のところだけ違う文字で物騒な文章になっていたのだから。
私はハハハと空笑いし、「一体なんのことやらアッシにはサッパリですわ、ヘェ! それより仕事がありやすので、これにてドロンいたしやす、ゲヘヘ☆」と適当に誤魔化しながら給湯室を出た。
「使ったグラスは洗って片づけといてねぇ!」
背中に追加の仕事を受けながら。
***
(……はぁ、疲れたな。ていうか、疲れることばっかりだ)
給湯室を出た途端、大きいため息を吐いてしまった。
なんだか競技に参加している生徒よりも、疲労が酷いような気がする。知らず知らずのうちに全身に力が入っていたのか、節々が酷く凝っていた。おまけに例の学ランのせいでお昼を食べ損ね、空腹感が半端ない。
(あ~あ、学ランのせいでこんな目に……とんだ災難だなぁ)
グルグル鳴り出した胃のあたりを摩りながら、渡り廊下に続いているドアを開けようとお盆を片手と胸の下で支えた直後、勢いよくドアが開いた。
ガンッ!
「ゴォァッ!」
「お、ワリィ」
本当の災難は意外なとこからやってくる! ……じゃなく。
急に開いたドアは持っていたお盆に派手に当り、その勢いのままお盆が私の鳩尾に決まった。あまりの痛さに前かがみになり思わずお盆を落としそうになったが、なんとかこらえた。胃の付近は空腹を忘れるほど見事なダメージを受けたが、おかげでお盆もグラスも無事だったことにとりあえずホッと息をつ――いてる場合じゃない。大体「お、ワリィ」の四文字の謝罪で済む痛さでもない!
「ちょっ!! ……て、ゲッ」
「あぁ! テメェ、こんなとこにいやがったのか! 応援席にいるかと思ったのに、すっげぇ探したんだぞ!」
「おおお尾島……」
ドアを開けた人物が全てにおいて我が不幸の元凶だったので、素っ頓狂な声をあげてしまった。
尾島はキョロキョロと周囲を見渡した後、「ちょっと来い!」と私の腕を引っ張った。
「えぇ?! あ、あああの、私、仕事が!」
「んなの、どうでもいい! オレだって時間ねぇんだよっ……こっちだ!」
尾島は階段の下の狭いスペースへ無理矢理私を押し込んだ後、逃げ道をふさぐように目の前に立ちはだかり、私の顔を見下ろし……いや、この日本語は間違っている。だって見下ろすほど背は高くない、ほぼ同じと言っていい。ミリ単位で目線が上なだけだ。
(い、一体何なのよ? こんな人気のないところに…………って、え?)
誰もいない狭い場所で二人きり――。
本日2度目のご対面、しかも至近距離。
周りに誰もいないこんなところで一体何を……と無駄に不安を大きくしていると、尾島は黙ったまま私の顔からフイッと視線を逸らした。
(え? え? なに? なんなの……って、ハッ! やっぱ学ランの件? 上級生を見たのに黙ってたことを怒ってるの? や、だって、あれは……。あっ! それとも学ランを探しておけってか? どうせまた暇だろとか因縁をつけて……)
心の中であれこれ考えながら何を言われるのかと身構え、いざとなったらこのお盆やグラスを使って反撃する算段をしていると、尾島は顔を逸らしたままゴクリと喉を動かし、「あのさ」と呟いた。
「チュウさ」
「ななな何んでしょぉうっ!」
緊張のあまり声が裏返った自分が情けない。でも条件反射でそうなってしまうのだ……トホホ。
「佐藤や後藤から学ランの件、聞いた。オマエ、あの校舎で3年を見たんだってな」
「えっ?! ……あ、いや、その……」
「しかもその3年、バスケ部っていうじゃねぇかよ……クソ!」
尾島の最後の言葉はとても悔しそうで、相当怒りがたまっていたのか、階段で斜めになっている壁を拳で「ドン!」と叩いて俯いた。どうやら尾島は、あの校舎に3年生がいたということも、その3年生が自分の先輩だったということも聞いてしまったようだ。
彼の怒っている姿を見て、やっぱり見掛けた3年生がバスケ部の人達だったと言わない方がよかったかなと後悔し始めた。
***
ブキミちゃんがボロ校舎の廊下で素晴らしい推理を披露した時、彼女の嫌味にドン引きしていた男性陣も「なるほど!」と感心し、一斉に教室や廊下の窓を目指し外を確認しだした。
しかし既にご承知の通り、学ランらしきものは見当たらず、落ちている気配もなかった。後藤君は再びブツブツ言いだしたのだが、
『……わかりました。ここまできたらハッキリさせたほうがよろしいですわね。先生に頼んで、念のため鍵が閉まっている二階の教室を全て開けてもらいましょう。鍵が盗まれた、という可能性も無きにしもあらずですから』
彼はブキミちゃんの言葉でやっと納得したようだった。
一先ず捜索は一旦打ち切りとなり、各自の持ち場へ戻ることになった。私や星野君は係がないのでここで話し込んでいても構わないが、あとの3人は体育祭運営委員に関わっているのでまだ仕事があるのだ。
(シメシメ……みんな仕事だから、私が見た3年生の件は星野君にそっと伝えればいいか! 星野君ならバスケ部じゃないし、客観的且つ冷静に尾島へ伝えられるよね)
胸を撫で下ろしながら、他の3人と別れたら速攻星野君に伝えようと決めた途端、横槍を入れたのはまたしても後藤君だった。もういい加減仕事に行って欲しいのにとか、なんでこんなにしつこいのこの人という言葉は飲み込んでおく。
『そういえば、荒井が見た3年って、何処のどいつなんだよ? それ、まだ聞いてないし。確か名前わかんないけど、部活はわかるって言ったよな?』
私に対する疑惑は収まったみたいだが、声は堅かった。まぁ、それは仕方がない。私にとって後藤君は絶対親しくなれそうもない人物であるように、彼にとっても荒井美千子は近寄りたくない存在なのだろう。苦手な人というのは、男であっても女であっても関係ない。ダメなものはダメなのだ。
できれば後藤君ではなく星野君がいいのにと口を噤んだが、早くしろよと怖い顔で見下ろしているので黙っていることもできず、仕方なく口を開いた。
『バスケ部……』
『え?』
『だ、だから! バ、バスケ部なんだけど……』
『……は……あぁぁっ?! なんじゃそりゃっ! 荒井……デタラメじゃねぇだろうなぁ?!』
まさかバスケ部の名前が出るとは思わなかったのだろう。後藤君はブキミちゃんに浴びせた怒鳴り声よりも遥かに大きい声を上げた。あまりの迫力に完全硬直してしまったが、これ以上怒鳴られるのも嫌だったので、全部言ってしまおうと早口で捲し立てた。
『やっ、あの、だからっ! ももも元部長の辺見先輩という人といつも一緒にいるというか……え、えーと、ほら、髪の毛が茶色で、こっちの頬に黒子があって、ちょっと猫背で、いつもズボンのポケットに、こう手を入れて歩いている……。ほほほら! だいぶ前になるけど、キャンプの前の夜、図書館に隣接してある公園のバスケットコートで会った時のこと覚えてる? たたた確かその時にも、その人いたから。お、覚えてて!』
『………………マジかよ……』
身振り手振りで説明する私に、後藤君は吊り上げた目をぐにゃりと下げた。
犯人に心当たりがあるのか、後藤君はさらに怒鳴り声を上げるどころか、むしろこっちがびっくりするほど急に勢いがなくなり……その声は手の平を返したようにトーンダウンし始めたのだ。
すっかり苦い表情のまま黙り込む後藤君。
しかも後藤君を諌めようとした星野君の顔が、後藤君とは逆に険しさが浮かび始めたのも穏やかじゃなかった。見る間に様子が変わった2人を佐藤君が心配そうに声を掛けても、答えるどころか黙り込んだままだった。
『フッ……フフ、オホホホホッ! あらあらあら、そうですか。バスケ部の先輩! 万が一にもその方々が犯人ならば、誰を狙った犯行かは一目瞭然というところかしら? ……それにしても、良かったですわねぇ、そのバスケ部の3年生を見かけたのが荒井さんで! 他の方がそれを見ていたら、今頃とっくに尾島君に伝わって、暴力沙汰などというややこしい事態になっている可能性が高かったのでは? どうやら彼は頭に血が昇りやすい性格のうえに前科があるようですし? ですわよね、星野君、後藤君? ……荒井さんの冷静なご判断に感謝しなくてはねぇ? ホホホホホ~!』
『『…………』』
笑い声は上げているが目は全然笑っていないブキミちゃんにロックオンされた後藤君と星野君は、益々口元をギュッと結ぶだけで何も言わなかった。