第八十八話 偵察
ワタルが目覚めてから1週間。レフレのお告げの通りならばあと83日間…世界に残されている猶予は、決して長くはなかった。
その間、修道院では穏やかな時が流れているように見えた。だが、水面下ではそれぞれが確かな変化を遂げていた。ハウンは回復魔法の改良に没頭し、ファングは日々黙々と体を鍛え、サヤは星を見ながら魔法の研鑽に励み、スノーは表向きは明るく振る舞いながらも、時折一人で故郷の方向を見つめていた。
(もしも天泣と再び相対するとき…みんなを残して…元の世界へだなんて考えられない)
天泣の幹部を全て倒せば平和は訪れるのだろうか…本当は怖くて仕方がない。
(いいや俺…悩んでる暇があるなら、身体強化魔法を限界までかけて…とにかく限界を超えな……)
魔力が爆ぜるように弾け、ワタルの全身を淡い光が包んだ。その瞬間、足元の地面がバキッと鈍くひび割れた。
全身の筋肉が限界まで膨張し、視界が焼けつくように明るくなる。風が渦を巻くように周囲を駆け抜け、木々の葉をざわつかせた。
(……いける……っ! もう少し……!)
その刹那、ワタルは前方の岩を目掛けて拳を叩き込んだ。
「——ッッ!!」
破裂音とともに、直径一メートルほどの岩が軽く砕け散る。破片が弾け飛び、地面に突き刺さった。
だが、その反動に耐えきれず、ワタルの膝ががくりと折れた。
ドサッ——。
「っ……!!…………はぁ……はぁ……」
地面に膝をついたまま、荒い呼吸が止まらない。額からは汗が滝のように流れ、両腕は震えていた。
(ダメだ、このままじゃ……でも……)
「ワタル! 大丈夫か?」
声がした次の瞬間には、ファングが駆け寄っていた。目を見開いて、破壊された岩と地面の痕跡を一瞥し、そしてワタルの様子を確かめる。
「あ、ファング……うん……大丈夫。ちょっと疲れただけだから」
そう言いながらも、ワタルの身体は明らかに限界を迎えていた。だが、ファングはその目に宿った炎のような意志と、わずかに震える拳を見て、静かに呟いた。
「……すげえな。今の一撃、もし誰かに向けてたら——」
ファングはワタルの傍らに膝をつき、真剣な目で彼を見つめながら低く、だがはっきりとした声で言った。
「おい……無茶をするなって、お前がオレに言ったんだろ」
その言葉には責めるよりも、心からの心配がにじんでいた。
ワタルはその視線から目を逸らし、しばらく黙っていた。熱く火照った呼吸を整えようとするが、胸の奥に渦巻く感情のせいで、言葉がうまく出てこない。
「……時間が……」
そう呟きかけて、ワタルは言葉を飲み込んだ。
(俺が帰るその日が来るまでに、少しでも——)
だが、その続きを口にすることはできなかった。自分が元の世界に帰るかもしれないという現実。それを理由に、まだ心の準備もできていない仲間たちを急がせ、無理をさせることになる。そんなのは——あまりにも身勝手だ。
ファングはそんなワタルの沈黙を、理解したように少しだけ目を細めると、ぼそりと呟いた。
ファングはそっとワタルの腕をとり、肩を貸した。触れた瞬間、その体温にぎょっとする。
(……こんなにも熱い……どれだけ無理してたんだ)
「ワタルくん! ファングさんっ!」
廊下の向こうから、焦ったようなカナタの声が響いた。息を切らして駆け寄ってきた彼女の後ろには、小さな影がふたつ、怯えたようにこちらを見ていた。
「どうした?」
「下の部屋で……暴動の報せが届いたの。民衆が騒ぎ始めてるって。しかも、ワタルくんたちが“暴動の首謀者”だって、誰かが……!」
(フラハイトでのことがこの国まで…!?)
ラグド王国とシジュウ共和国は隣国…いつか伝わるだろうと覚悟はしていた。
ファングとワタルの脳裏に、モルザットのスラムの光景がよぎる。
あのときはザインが手配した馬車に助けられた。情報の届きにくい混沌の街だからこそ、逃げおおせることができた。
だが、今は違う。ザインもいない。足もない。
あのときのようにはいかない——それは、二人とも痛いほど理解していた。
「サヤさんとスノーさん、それにハウンさんには……別の子が知らせに行ったって……」
まだ……。混乱したら危ないと思って、いちおう、隠してる……けど……」
カナタは不安げに言葉を濁す。ビワとツツミも、その背後でじっと足元を見つめている。
「今はまだ、外の噂だけで済んでる……でも、すぐに広まると思う。兵士団が動いたら——きっと、ここもすぐに巻き込まれる……!」
ワタルは、ファングの肩を借りながら、静かに息を吐いた。
胸の奥で脈打つ焦りと責任感が、重くのしかかってくる。
(……まだ何も解決していないのに。俺たちは、どこまで追われるんだ……)
ファングは立ち上がり、窓の外に視線を向けた。
空は鈍く曇り、街の遠くからかすかな騒ぎ声が聞こえる気がする。
「ここに長くはいられねえな。どっちにしろ、逃げ道を探す必要がある」
「なんとか話し合いで…わかってくれるわけないのかな……」
カナタが、どこか縋るように言葉をこぼした。
その声には、まだ信じたいという思いと、もう信じられないかもしれないという不安の両方が混ざっていた。
ワタルは少しだけ目を伏せて、首を振る。
「カナタたちはここに残っているんだ。俺たちは少なくともここにはいられないだろうから…」
ワタルは、言いながら自分の拳をぎゅっと握った。
それが逃げだと分かっていても、誰かを巻き込むよりはましだった。
けれど、その言葉に、カナタは首を横に振った。
「……やだよ。私たちだって、ワタルくんたちと一緒にいたい。逃げるなら一緒に逃げるし、立ち向かうなら……私も、ちゃんと考えたい!」
その目には、年齢にそぐわない強い光が宿っていた。
かつて“守られる側”だったカナタが、今や“ともに戦う側”になろうとしている。
「気持ちはすごく嬉しい。でも…連れていくわけにはいかない」
ワタルは静かに、けれどはっきりと告げた。
その言葉には、カナタを否定したいのではなく、彼女を守りたいという願いが込められていた。
「カナタが何かに巻き込まれて、もし傷ついたら……俺は、きっと立ち直れない。
誰かを守るって言ったくせに、守れなかったことが、どれだけ苦しいか……もう、あんな思いは……したくないんだ」
「わかった。でも…これだけは絶対約束して」
カナタは唇をぎゅっと噛みしめながら、ワタルを真っ直ぐに見上げた。
「どこに行っても、何があっても、“帰ってくる”って。
そうじゃなきゃ、私、ここで待つことすらできない」
それは、叫びでも泣き言でもなかった。
ワタルの“守りたい”に、カナタなりの形で返す、精一杯の“信じたい”だった。
ワタルは言葉を失ったまま、カナタの目を見返した。
その中にあるものを、否定できるはずがなかった。
「……ああ。帰ってくる。絶対に」
短く、けれど力強く、ワタルはそう返した。
するとカナタは、ほっとしたように、でもどこか誇らしげに微笑んだ。
「それなら、もう……何も言わない。どんな選択をしても、ワタルくんがそうすると決めたなら、私は信じる」
「ごめん…ありがとう」
ワタルはそう言って、ほんの少しだけ目を伏せた。
ファングが腕を組んだまま、落ち着いた声で言った。
「……慌てるな。俺たちが外に出れば、目立つだけだ。すぐに出るのは得策じゃねぇ。状況を見てから動く」
その言葉に、カナタは一瞬だけ足を止めたけれど――それでも、顔を上げて言い返した。
「だったら、ちょうどいいよ! わたしが見てくる!」
「は?」
ファングが少し眉をひそめると、カナタは、慌てたように手を振りながら言い直す。
「ち、違うの! 勝手に出て行こうとか、そういうんじゃなくて! でもね……ワタルくんたちが動けないなら、わたしが代わりにちょっと様子を見るくらい、できると思ったの」
彼女の声は、必死だけれどどこか頼りなく、けれど真剣だった。
「この前ね、買い物のときに、街の裏道とかけっこう歩いたから……だいたいは覚えてると思うし、制服着てれば目立たないよ。だから、ちょっとだけでも見てきたら――役に立てる、かも……」
そう言って、カナタは不安げにファングを見上げる。
「わたし、何もできないの、イヤなんだ。
ここでじっとしてるのって……こわいのに、ただ待ってるだけなんて、もっと、こわいから……」
子どもらしい言葉の選び方だったけれど、そこに込められた想いはまっすぐだった。
ファングはしばらく無言でカナタを見つめ、それから、ため息をひとつ漏らした。
「…暴れている奴がいたら絶対に近づくな。目を合わせるな。通りに出るときは立ち止まるな。誰かに呼び止められても、答えるな」
ファングは低く、だが明瞭な声でそう言った。まるで任務に向かう部下に指示するような口調だった。
カナタは一瞬たじろいだが、それでも真っ直ぐに頷いた。
「……わかった。絶対、気をつける」
「日が暮れる前には戻れ。迷ったら、大通りじゃなくて、最初に来た道を辿れ。通れなかったら、無理に進むな。すぐに引き返せ。いいな?」
「う、うん……全部覚えた!」
「覚えただけじゃだめだ。実際にやれ。自分の命を、ちゃんと守れ」
ファングの言葉に、カナタはぐっと唇を結んで、もう一度うなずいた。
その様子を見て、ワタルは思わず小さく笑った。
「……なんだか、ちゃんとした大人みたいだな、ファング」
「お前が甘すぎんだよ、少しは見習え」
「はいはい」
苦笑するワタルの肩を、ファングは軽く叩いた。そして、もう一度だけカナタに向き直る。
「口うるさくして悪かったな…俺たちのために無理はしてほしくねぇんだ」
ファングはそう言って、少しだけ目を伏せた。その声には、カナタの勇気に対する感謝と、子どもに頼らなければならない現状への悔しさが滲んでいた。
けれどカナタは、首を横に振った。
「ううん、ちがうの。わたし、頼られたのが……ちょっと嬉しかったから」
「ああ、あいつらにも…名前は何て言ったかな…」とカナタと一緒に保護した獣人の子供をファングは思い浮かべる。
「ビワとツツミ、だよ。ふたりとも今、サヤさんたちのところに行ってるの。わたしたちと同じで、修道院のみんなに知らせるために、走ってってくれたの」
「そうか……」
ファングは、どこか遠くを見るような目をした。わずかに伏せたまぶたの奥に、かつての自分が重なるようだった。
「……あいつら、たいしたもんだな。あんな小さいのに」
「うん。でもね、きっとすごく怖いと思う。私も怖い。でも、それでも動こうって、あの子たち、自分で決めたの。わたし、それがすごいって思ったんだ」
「色々とすまないな。頼んだぞ」
ファングは短くそう言って、ほんのわずかだけ目を細めた。
それは、照れくささを隠すような仕草にも見えた。
カナタはその言葉に、胸を張ってうなずく。
「うん、任せて! ちゃんと気をつけて行って、ちゃんと戻ってくるから!」
その声は、まだどこか子どもらしさを残してはいたが、確かな意志を宿していた。
ワタルとファングはその背中を、静かに見送った。
彼女の足取りは軽く、けれど確かだった。
――カナタをはじめとする獣人の子供たちは、その身に宿す身体能力が高く、特に足の速さには目を見張るものがある。
万が一、追われるような事態に陥ったとしても、狭い路地をすり抜け、屋根を伝って逃げるだけの力が彼女たちにはある。
それは、ワタルたちにとって唯一の救いだった。
だからこそ、今は信じて託すしかなかった。





