あと1日の夢
「君は明日、死ぬことになる」
目の前の小さなカニは、真っ黒でつぶらな目をじっと私に向けて、口をパクパクさせてそう言った。
ベッド横にある腰までの高さの小さな机には、寝るときに読む本が積んである。その本の上から私を見上げる小さなカニを見つけた時はギョッとした。
カニは見たことの無い色をしていて、桜貝のような淡いピンク色から、上にかけてよく晴れた日の空のようなブルーにグラデーションになっていた。おもちゃのようなそれは、しかし確かに動いていて、虫が苦手な私はどうやったら追い出せるかを考えた。ティッシュをかぶせるか、コップを使うか迷っているところで、カニが物騒なことを言い出したので、返って気持ちが落ち着いて辺りを見回す余裕ができる。
そこは見慣れた自分の部屋に似ていて、しかし、すぐに別空間だとわかった。
部屋の空間が驚くほど縦長なのだ。私の身長の三倍はあるだろう。
薄いオレンジと白のチェック柄のカーテンが左右にまとめられ、少し日焼けしているレースの薄いカーテンがたなびく窓はいつも見ている景色なのに、その窓の周りには365からの数字一つ一つがフォントもバラバラに描かれ、それぞれ違う額縁に入って散らばるように壁に張り付いていた。その1つ1つの数字ははっきりと読み取れ、一番遠くにある額縁はそれなりの大きさなのだろうと思われる。
まるでカウントダウンみたいだ、と思う。それと同時に、これが夢の中だと言うことに思い至った。
夢の中でもないと、私の部屋は縦長にはならないし、カニが突然物騒なことをしゃべるはずもない。
変な夢だと思いながら壁の額縁を順に目で追っていくと、数字が2までしかないことに気づいた。
「明日で1になるんだ」
私の視線に気づいたのか、カニが言う。カニを見ると、向きを変えて壁の数字を見上げていた。
「1になったらどうなるの?」
私が尋ねると、カニは「死ぬのさ」とあっさりと言った。
「1が終わったらゼロだ。363日前から、カウントダウンしていたはずだろ?」
カニはそう続けるけれど、私にはとんと覚えが無い。なのに、不意に頭の中で365からのカウントダウンと日々過ごしてきた日常が流れ出して、残り「2」となったところで妙にしっくりときた。「そうだった」と。
そして少しの恐怖が風のように通り過ぎ、ぶるりと身体が震えた。両手で両腕を抱えるように摩る。自分の手の暖かさに、いくらか安心した。
「君があまりにもいつも通りだったら、念の為に会いにきたんだ」
カニは両手の鋏をカチカチと合わせた。「ただ」と続けて、ジロリと目だけをこちらに向ける。
「ただ、ここでのことは起きたら忘れてしまうから……」
カニはそう言って再び目を伏せた。両手の鋏がカチカチと鳴る。なるほど、だから私はこれまでのカウントダウンを覚えていなかったのか、と妙に納得がいった。
「じゃ、この夢もあんまり意味ないんじゃない」
思わず笑いながら言ってしまう。どうせ、起きたら残り一日だと言うことも忘れてしまうのだ。ここで教えてもらったところで、何ができるわけでもない。「そりゃあそうだけどさ」とカニは困ったように背中――頭かもしれない――を鋏で叩いた。
「会いたい人がいるなら会いに行ったほうがいいし、やり残したことがあるならやったほうがいい」
カニは呟くようにしてそう言った。まるで独り言みたいに。
もしも夢の出来事を覚えていられるとして、私は最後の一日をどう過ごすだろうか、と考えてみる。
そもそも、本当に死んでしまうのだろうか?
一体、何が原因で死ぬことになるんだろうか?
最後までやり残したことなんてたくさんある。
カニが立っている下に積まれた小説だって読みかけだし、先日応募したばかりのコンサートは開催が半年後で、抽選結果が出るのも来週なので結果すらも知ることはできない。
最後に会いたい人くらいには会えるだろうか。でも、全員は無理だろう。地元に帰るには距離が遠すぎるので、誰かを選ぶと誰かに会えない。
結局は、いつも通りの一日を過ごして、いつも通りに終えるような気がした。
明日は当たり前のようにくるのだと、そう信じて。
「そういったことを最後に考える時間が必要だろうと思ったんだ」
カニは背筋を伸ばすようにしてまっすぐに私に目を向け、「本当はいつだってそういうことを考えておくべきなんだ」と言った。
これはカニなりの気遣いだったようで、その意味を成さないかもしれない優しさに、自然と笑みが浮かぶ。
「ありがとう。考えてみるよ」
私は頷いて、カニが乗っている本の表紙をトントンと突いた。
勇気があればカニ自身を突いてみたかったけれど、その足を見ていると触るのには抵抗があった。虫は苦手なのだ。
「……良い一日を」
小さなカニは私を見上げ、そう言った。
***
目が覚めた。
やけにすっきりとした目覚めだ。チェック柄のカーテン越しに入ってくる光を見るに、天気も良さそうだ。
部屋は縦長じゃないし、窓の周りのカウントダウンも消え、ベッド横の机に積まれた本の上にはもちろんカニはいない。
夢から覚めたのだ、と実感した。あれは夢だったのだ、と。
本当に、今日が最後の一日だったらどうしよう。不意にそんなことを思う。
忘れるはずだったあの夢は、覚えていることで「ただの夢」だという思いが強くなった。
しかし、「死ぬことになる」と言うカニの声が耳に残っているような気もして。
今日が終わる時、一体私はどうなるんだろう。
身体が小さく震えた。
了
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