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「まだ皆さんの事覚えたわけではないんですが・・・う。」
「水樹!」
水樹が‘う’と声を漏らす前に、タイミング良く聖也が走って水樹に近寄った。
「あれー聖也。」
「ちわーっす。夏子さん今日はどうしたんですか?」
「今からバイトなんだ。でもその前に可愛い可愛いって評判の新マネちゃんに会いに来たの。そんな事より聖也こそどしたのー?」
「あー、トイレです。たまたま夏子さん達が見えたんで・・・。」
「へー、たまたまねえ。今ね、ハンドでかっこいい人見つけた?って水樹ちゃんに聞いてたんだよ。」
あからさまに悪ふざけをしてにやけている夏子をどう追い払うかが今の自分の試練だと聖也は敏感に察した。
面倒臭せー。しかもそんなの俺に決まってるしまじうぜー。と言いたげに聖也がちらっと水樹を見ると、ばっちり目が合ってしまいそしてお互いに苦笑して、それは些細な事だったけれど、聖也にとっては思いがけず凄く幸せな瞬間だった。
「バイト何時からですか?」
「ん?やだ、もう行かなきゃ。じゃね聖也。水樹ちゃんの事よろしく。水樹ちゃんもバイバイ。また今度色々教えるね。」
やっと帰りだした夏子に聖也が心底安堵した途端、夏子は振り返り余計な事を言い放った。
「聖也ー。マメだったんだねーがんばー。」
「なっ・・・!」
ちっ。おせっかいなお姉様だ。
怪しく思われたかどうか気になって、恐る恐る水樹の表情を確認してみたけれど、悲しいかな、いつもと同じ顔色で、何も気付いていなさそうだった。その上極普通に話し出す。
「私が遅いから探しに来て下さったんですか?遅くなってすみません。それからありがとうございます。」
水樹が本当に素直で、本当にそれだけの事なのに、聖也には物凄い事だと思えた。
「絶対迷子だって思っちゃったよ。」
「ほんとですか!?はは、そこまで子供じゃないんですよ。」
笑っている顔がどうしようもなく可愛い。
「他にも困った事あったらさ、俺とか勇利とか、誰にでも言えよ。少しくらいは頼りになると思うから。ほら、あいつらもう休憩だろ、帰んぞ。」
急に恥ずかしさが顔に出てきてしまい、照れ隠しで聖也は水樹の少し先を歩く。でも水樹の体温はちゃんと感じていた。
「正木さんっ。私も1つポット持ちますっ。」
「いいって。」
振り返らずに聖也は返事をしたけれど、自分の左手の重みが半分になってわかった。
やばい・・・。一緒に持ってるよね・・・?
一つのポットの持ち手を二人で握っているだけで、決して手を繋いでいるわけではないけれど、聖也の緊張が左手に走る。まるで心臓がそこにあるような、聖也の左手の鼓動が速くて熱くて・・・。
このままグランドに着くなよ。なんて思いながら、聖也は前だけを見て歩き続けた。




