出航
こんにちは、夜神 衣千伽です。
今日はとうとう、出航の日です。
このイギリス――いや、イングランド王国の支配する、アルビオンから離れるのだ。
そして、出航の時間を待ち、オレ達は船の前で眼鏡さんと別れの挨拶をしている。
「それにしても、宜しかったのですか? これ程の大金を頂いて……」
アン・ズーは眼鏡さんに問う。
手中に納まる、金貨の袋を見つめながら。
それに対し、眼鏡さんは真剣な表情で頷く。
硬い声でアン・ズーへ答える。
「あの殺人鬼は、元イングランド軍の兵士です。それも、腕が立つ事で知られた人物でした。その彼が魔化していたのです。お二人が居なければ、どれ程の人間が犠牲になっていた事か……」
やはり、あの魔人は厄介な相手だったんだな。
魔狼どころの強さじゃなかったし。
半端な兵士では、返り討ちになる可能性もある。
それ故の、大金という事らしい。
「ですので、お気になさらず受け取って下さい。色々と入用になる事もあるでしょう?」
眼鏡さんの視線が、アン・ズーの背後に向かう。
そこには、ラザーちゃんが居た。
その視線は優しそうに細められている。
この人って、もしかして良い人なのかな?
オレの中では、アン・ズーの追っかけってイメージしかないけど……。
「それでは、ありがたく頂戴致します。このご恩は、必ずお返しさせて致きます」
「ええ、そちらについては、是非とも期待させて頂きます」
アン・ズーの返しに、眼鏡さんが苦笑する。
二人の間で、時々交わされる密約かな?
疑問に思っていると、アン・ズーの声が頭に届いた。
『その件は、時が来たら改めて説明致します……』
今はその時じゃないと?
あの会話の上で、そう判断したのか……。
なら、今回はアン・ズーを信じて、追及はしない事にしよう。
その思いを読んだらしく、アン・ズーは嬉しそうに微笑んだ。
そして、視線を戻して眼鏡さんに別の質問を行う。
「それと、彼女は問題無かったのですか? この街から連れ出してしまって……」
「ええ、何も問題ありませんよ。スラム街の住人に戸籍はありません。納税も行われておらず、実質的には居ない扱いとなっていますので」
眼鏡さんは眼鏡をくいっとする。
そして、こっそりと息を吐く。
後ろめたさを感じているみたいだ。
瞳を伏せて、口を閉ざした。
そんな眼鏡さんに、アン・ズーが気遣う様に声を掛ける。
「余り気になされない事です。今のアルビオンには余裕が無い。そういう事なのでしょう……」
「そう言って頂けると、こちらとしても気が軽くなります……」
眼鏡さんがふっと笑う。
そして、懐から懐中時計を出してオレ達に告げる。
「さて、そろそろ出航ですね。余裕をもって、乗船されると良いでしょう」
「では、その様にさせて頂きます。短い間でしたが、お世話になりました」
オレ達はそれぞれに頭を下げる。
互いに感謝の気持ちを向け合いながら。
そして、オレ達は船に向って歩く。
船員の誘導に従い、船へと乗り込む。
これで、この島ともお別れである。
次の目的地はフランスだね。
……まあ、魔女狩りがあるから、そこもすぐに離れるんだけど。
そんな事を思いながら、オレは隣に視線を移す。
そこにはラザーちゃんが居た。
服装は昨日の旅装束。
それは良いのだが、その背に視線が吸い寄せられる。
今の彼女は、身長に不似合いな程の巨大なリュックを背負っていた。
いや、これって、どう見ても児童虐待で通報されそうなんだけど……?
『この世界に、その様な概念は御座いません。それに、従者が荷を背負うのは当然です』
アン・ズーの声が、オレの考えを否定する。
キッパリと宣言して来る。
そう、アン・ズーは認めなかったのだ。
オレが荷物を背負う事を……。
『アルフ様の設定をお忘れですか? 彼女を従者に引き立てた以上、今後はその配役を徹底して頂きますからね』
再三に渡る、アン・ズーの忠告。
オレが納得していないと理解してるのだろう。
だが、オレも理解はしている。
以前の常識から、感情が拒否してしまうだけで……。
『ふう……。少しずつ慣れて下さい。そうでなければ、彼女の立場も無いのですから』
そうなんだよね。
当のラザーちゃんが、やる気満々なんだよ。
オレの役に立ってると思って、荷物運びも率先して手を上げるくらいにさ……。
『それに、あのリュックも魔法が掛かっています。見た目程は、重くありませんからね?』
それはオレも確かめた。
確かにあれは、片手でも持てる位に軽かった。
なので、問題はオレの気持ちだけ。
アン・ズーの言う通り、慣れるしかないのだ。
オレはラザーちゃんを見つめる。
彼女は物珍しそうに、周囲を観察してた。
船に乗る機会なんて無かっただろうしね。
楽しそうなのが、せめてもの救いか……。
「あ……」
オレはつい、その手が伸びてしまう。
ラザーちゃんの頭を、気付くと撫でていた。
……何だから癖になってるな。
その頭を見ると、つい撫でたくなってしまうのだ。
ラザーちゃんは照れた様子で俯く。
上目遣いで、オレを嬉しそうに見つめていた。
「ふふふ、それでは出航の時間ですよ」
その声と共に、船が動き出した。
ゆっくりと、港から離れて行く。
その様子を眺めながら、オレは次の冒険に期待を膨らませるのであった。
<蛇足な補足>
・殺人鬼のモチーフは「ジャック・ザ・リッパ―」
・ラザーちゃんのモチーフは「灰かぶり姫」
・アルビオンは古いブリテン島の名前。
ドーバー側から見た絶壁が「白い」から名付けられた。
(ラテン語の「albus」が語源)