9話 舎監補助
美しい人の居場所は一歩を踏み入れただけで違いが分かる。エリアの居場所である舎監室がそうだ。念入りに焙煎されたコーヒー豆の香り、練乳や角砂糖の甘い匂、花瓶のお花、万年筆のインクとカリグラフィ。エリアの跡形一つ一つが残した香りは、舎監室を訪れた人々の心を安らかにさせる魅力を発する。
おかげさまで体がだるくなってソファーに横たわっていたエバン·プルートーが背伸びをしてから立ち上がった。エバンはエリアの本棚から寮生罰点帳簿を取り出した。
「また点呼の時間だな。」
「いつもお疲れ様です。 さあ、今日のコーヒーです。」
エリアは今日もエバンに魔法びんを渡した。
「ご注文通り、練乳の量を四半分にしました。」
「そんな気にしなくてもいいのに。 とにかく、ありがとう。」
「ああ、お待ちください。」
「なんだ?」
「今日からは一人で点呼に行かなくてもいいです。手伝ってくれる人がいるので。」
「手伝ってくれる人?」
トントンっと舎監室のドアを軽くたたく音がした。
「エリア様、入ってもよろしいでしょうか。」
ドア越しでしっかりした女の子の声が聞こえてきた。エリアが呼ぶと学生一人がドアを開けて舎監室に入ってきた。
「お邪魔します。」
その学生が姿を現してから真っ先に目立ちたのはミント色の髪だった。北部ではめったにない髪色なので、とても神秘的で異国的な印象を醸し出した。睨むような目線とツンツンとした顔からは、きりっとした気迫が感じられる。そして他の生徒たちは楽な私服に着替えた遅い時間なのに、しわ一つなく整頓された制服姿をしていた。
エリアとエバンに礼儀正しく黙礼をしてから入ってくるその歩き方からは、貴族や財閥学生とは違う気品が感じられた。社交の場に合う気品ではなく、訓練された制式のような気品だった。
「本日の夜間点呼の補助のためにただいま参りました、エリア様、そして···イバンさん。」
「エバンだ。」
「ああ、エバン·プラトンさん。」
「プルートーだ。」
彼女はエバンかイバンか興味ないからどうでもいいっという態度で適当に挨拶をしてから、すぐエリアに向かった。
「こんばんは、ルミリ嬢、今日は来てくれてありがとうございます。」
「いいえ、いいえ!エリア様、及ばずながらもお力添えできて本当に嬉しいです。これからも必要ならばいつでも呼んでください。私は舎監補助ですから!」
ルミリがエリアの前に立つと、先ほどまでの迫力がまるで全部演技だったかのようにニコニコする顔になっていた。
「ちぇ、何だよ、この温度差は。」
「あなたにもご紹介します。こちらは舎監補助のルミリ・アイテルソード嬢です。」
「アイテルソード···」
舎監補助のルミリは再び格式ばってエバンに会釈した。もちろん、エリアの前で見せた明るい面影はどこにもなかった。
「ルミリ嬢、今日からは舎監代理のエバンさんを補助して点呼を行うことになります。 どうか無理はしないで、エバンさんの指示に従ってください。お願いしても良いでしょうか?」
「ええ、もちろんです。任せてください。絶対にエリア様を失望させませんから!」
「エバンさん、ルミリさんのことをよろしくお願いします。」
「わかった。すぐやってくる。」
エバンはルミリを連れて舎監室から出た。舎監室のドアを閉めると、エリアという繋がりが無くなった2人の間には、気まずい沈黙だけ残っていた。エバンの傍で一言も言わず歩いてたルミリは舎監室から十分に離れてロビーに出ると急にエバンの行く手を遮った。
「ん?なんだ?」
「......」
ツンツンとした目つきでエバンをじっと見るルミリが彼の制服に手を出して襟を正した。
「いったい何ですか、この襟は?それに、ちゃんとボタン留めてください。中のシャツが飛び出していてだらしなく見えます。端正な身なりと着付けは基本中の基本なんです。この程度なら私の基準じゃ品位維持の勧告事項なんですが、残念ながらも舎監代理に罰点を与える権限など私にはないんですね。」
ルミリは冷たい声で言ってから、もう一度エバンの服装を点検した。
「寮生たちの生活を指導する舎監代理がこんな様じゃ、何の資格で寮生たちを指導するのでしょうか。あなたはエリア様の代理人です。エリア様の顔に泥を塗るような行為など許せないんだから、今後とも気を付けて欲しいです。」
「分かった、分かったから、そう怖い顔するな。さあ、早く行こう。」
「待ってください」
「はぁ、なんだよ?」
「歩き方に気を遣ってください。歩き方を見ると人柄が分かるものです。 あなたの歩き方はとても軽薄なんです。もうちょっと威厳を込めて...」
「良いから、さっさと始めよう。こうしている内に夜が明けそうだ。」
「エリア様からあなたの指示に従うように言われたから言うことを聞きますけど、勘違いはしないでください。私はあなたを舎監代理として認めていませんから。」
「はぁ…」
こりゃ、ユリアよりもきついヤツとが来たな。これから毎晩こいつと一緒に寮を廻らなければいけないのか?エバンはルミリのことを観察するように見た。その視線を意識したルミリが小言を止めて後ずさりした。
「な、なんですか?もしかして怒ったんですか?言いたいことがあれば人をそう見詰めないでちゃんと言葉で言ってください。」
まなざしに力を入れてカリスマを作ろうとする、強迫的に品行に気を遣う、目上の人の信任を強く求める、制式に似た歩き方、そして何よりもアイテルソードという名字。
「お前、騎士家門の娘だろう? イスティア出身の。」
「な、な、なぜそれを聞くのですか?あなたも私のことを身分や出身で蔑ろにするおつもりなんですか?!」
「なんでそうなるの? そう言ったことねぇじゃん。」
「……すみません。過敏に反応しました。」
「何だかお前にガミガミ言われていると妙に懐かしい気がしたけど...こうなったわけか。」
「それってどういう意味なんですか。」
「なんでもねぇよ、気にするんな。もう頼むから仕事始めよう、なぁ?」
ロビーの中央に着いたエバンは直ちにルミリの反対側の階段に向かいながら話した。
「ここからは効率を考えて別行動にしようか。お前と私が一緒だと朝までも終わらない気がしてさ。私が4階、5階に行くから、お前は2階、3階で。どう思う?」
「どう思うかと言われたら…」
ルミリは唐突な目つきでエバンを見上げながら手を伸ばした。
「その罰点帳簿を私にください。点呼は私一人で十分ですから。」
「え?なんでそんな面倒なことを?ここって一人で全部廻るにはかなり広いのに。」
「実は夜間点呼は舎監補助の役割だけど、エリア様は私一人で真夜中に寮を廻らせるのが不安でした。だからあなたが舎監代理として入って来てから私にも点呼を任せたんです。でも私も子供じゃないし、一人で十分にエリア様の力になれるとお見せするつもりなんです。だからすみませんが、あなたはここで引き下がってください。」
「ありがとう。さあ、帳簿、どうぞ。」
「ふぇっ??」
エバンは少しも躊躇なく罰点帳簿をルミリに渡し、後ろ振り向かず直ぐにロビーに向かった。とても爽やかそうな顔までして。
「あの···こんな簡単に引き下がるつもりなんですか?本当に?」
「何だ?お前が先に要求したじゃん。私は聞いてあげるだけだし。これで良いだろう?私は楽に休んで、お前はエリアに認められて。そして寮生たちも男が部屋に来ないから楽だし。皆幸せになる結末ね。良いじゃん?」
「でも···」
「何かあったらすぐ助けに行くぞ。 まぁ、私がひとしきり引締めておいたから多分おだやかに進めると思うけど。とにかくエリアにはよく言っておくから頑張れよ、舎監補助さん。」
エバンはルミリーの気が変わる前に急いでロビーに行った。きっとロビー中央にある憩いの場で油売るつもりだろう。やっぱり気に入らない。あんな人が本当にエリア様の頼りになれるのかよ?
ルミリはエバンの後ろ姿を見て不満そうに唇をとがらせた。そして帳簿をちゃんと手にして寮を廻り始めた。
◇◇◇◇◇◇◇
「起きてください。」
ルミリの声が憩いの場のテーブルで居眠りしているエバンを起こした。ルミリは不満そうな顔で罰点帳簿をエバンに返した。
「生徒に仕事を押しつけて自分は呑気に寝ているなんて。もしエリア様が見たらどうするおつもりなんですか。」
「私はそんなに粗末ではないから心配するな。対策はいくらでもあるよ。」
「誰があなたの心配などすると思うんですか?勘違いもお上手ですね。」
「ところで, なんでこんなに遅かったのかよ?待ちくたびれてうっかり寝てしまったじゃん。私だったらもう既に3回も廻ったのに。」
「スピードは重要ではありません。私たちに求められる徳目は細心と誠意です。」
「っで、細心と誠意を持って廻ったかい?」
「もちろんです。」
「何かあった?」
「何もなかったんです。うちの寮生たちはみんな身だしなみに拘りますから。」
「だから男子学生が22人も潜り込んだのか?」
「それは!それは…オルトスの方から勝手に忍び込んできた男子たちがほとんどでした。」
「まぁ、お疲れだったぞ。もう部屋に帰って着替えて寝なさいな。」
「まだです。まだ巡回が残ってます。」
「何が巡回なんだ?成長期のお子様は早く寝なさいよ。」
「子供扱いしないでください。正式に騎士になったら戦場で警戒任務も担うんです。 寮で事前に経験しておけば訓練になるでしょう。」
「お前の大好きなエリアの立場で考えてみよう。お前が適時に寝ずに無理をして生活サイクルを壊したらエリアが喜ぶと思う?」
「ううぅっ、重役にはそれなりの苦労が伴うものなんでしょう。」
「だからその重役と苦労はこのS級・舎監代理に任せておいて、お前は早く寝ろ。」
エバンはルミリを部屋に戻してから、帳簿をまとめて舎監室に向かった。
◇◇◇◇◇◇◇
廊下に並んでいる部屋のドアの一つがそっと開き、ドアからルミリがヒョッコリと顔を出した。周りに誰もいないと確認したルミリは、静かに廊下に出て、ルームメイトたちの目を覚まさないようにそっとドアを閉めた。
「それでは、巡回をしてみようか。」
ルミリはまだ制服姿だった。彼女は誰もいない廊下を歩き廻りながら、制式が乱れないように歩き方に気を遣った。
「舎監代理さまが有能だとは認めるけど、それでもエリア様の隣に相応しいのはこの私よ。いつかエリア様もわかってくれるよね。」
中等部の時からひたすら払ってきた努力のおかげで、高等部に進学すると同時に寮生委員会の会長、すなわち舎監補助の座に座れた。だからこれからはエリアの信任と寵愛を独り占めすることだけ残っている。そんなはずだったのに…
なのに、突然どっかで現れたNPCが寮に来ては、舎監代理の名札をつけてエリアの信頼を受けている。ルミリはこんな自分の気持ちも分からずノンビリしているエバンを見るたびに腹が立ったけど、彼を舎監代理に任命したのはエリアの決定だから仕方がなかった。
「ふん、点呼も巡回も全部私にもできるよ。舎監代理にできるのに舎監補助にはできないことなんてないから!」
ルミリはできるだけ抜き足で静かに廊下を歩き回った。皆が眠っている深い夜、静かな廊下を一人で歩くルミリは、妙な満足感を感じていた。私が今ここの人々の安らかな夜を守っている、私が目を開けて見守っている間には、ここの人々は熟睡できる。そんな騎士の心だった。
しかし,あいにく彼女が一人で僅かな達成感を味わうのを妨げる連中がいた。
パツパツッ!伝送魔法の術式が発動する音が聞こえてきた。怪しい音を聞いたルミリはすぐに音が聞こえる方に向かって駆けつけた。
「今の音···3階の憩いの場の方だった。 魔力も感じられる!」
思いっきり階段を駆け下りたルミリが3階の広いロビーに出てみると、壁に大きな魔法陣が現れていた。ルミリが手を施す暇もなく活性化した魔法陣は術士に道を開く座標関門になった。
侵入者数人が座標関門を通して寮に入ってきた。こんな時間に裏口から出入りするのを見ると、きっと潔い用件で来たお客ではない筈だった。廊下の片隅に身を隠れていたルミリは侵入者たちの様子を見た。