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バイクトーク  作者: 秋山如雪
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第125話 日本史ライダー、史跡巡り。山梨県編

 突然、「日本史ライダー」って勝手に名乗ってますが。


 私は、大学時代に日本史を勉強してたのと、高校時代から日本史が得意科目だったので、その影響で、ツーリング中によく、「史跡」に行きます。


 ということで、唐突に始めたコーナー。

 初回は山梨県編。


 気が向いたら、他の地域もやるかもしれません。


 山梨県、旧国名は甲斐かい国。

 「やまなし」と言ってるのに、周りは山だらけの地形、「かいのくに」って言ってるのに、「海がない」そんなところ(ダジャレか)。


 かつて、東京都の西側、多摩地域に10年以上も住んでいたので、その頃、よく行きました。


 その時の経験から、有名どころから、マニアックなところまで取り上げます。


天目山てんもくざん(甲州市)

 ご存じ、甲斐国の戦国大名、武田信玄。その子で武田家最後の当主、勝頼かつよりが主従と共に、最期の時を迎えたのが、この天目山。場所は甲府盆地の端、甲斐大和(やまと)駅から山に入ったところ。


 景徳院けいとくいんという寺があり、ここが勝頼の菩提寺になってます。

 勝頼、夫人、その子の信勝の墓があったり、武田の旗が立っていたり。

 近くには鳥居畑とりいばた古戦場があったり、土屋惣藏(そうぞう)片手切かたてぎりっていう史跡があります。


 土屋惣藏というのは、土屋昌恒(まさつね)という武田家の重臣で、天目山の戦いの時、昌恒は勝頼が自害するまでの時間を稼ぐため、織田勢を相手に奮戦したとされてます。その際、狭い崖の道で織田勢を迎え撃ち、片手で藤蔓をつかんで崖下へ転落しないようにし、片手で戦い続けたことから、後に「片手千人斬り」の異名を取ったそうです。


 ちなみに、昌恒のために日川ひかわに突き落とされた千人もの兵が流した血は、川の水を赤く染めて、それは3日間も色を失わなかったと言われています。人々はのちにこの川を「三日血川」と呼ぶようになり、後世まで片手千人斬りの伝説を語り伝えたという、ある意味、すごい生々しい伝説を持った地。


大善だいぜん寺、柏尾かしわお古戦場跡(甲州勝沼の戦い)の碑(甲州市)

 大善寺は、勝沼にある古い寺で、真言宗の寺。本堂は国宝で、国重要指定文化財も多数あります。通称「ぶどう寺」とも呼ばれています。

 甲州勝沼の戦いは、慶応4年(1868年)、元・新選組の局長、近藤(いさみ)が「大久保大和」という変名を使って、甲陽鎮部隊という名前で、ここら辺に陣取って、西から攻めてきた土佐藩らの新政府軍を迎え撃った戦い。


 ですが、元・新選組の隊士ら約70名を抱えていたとはいえ、残りは農兵などの兵力と、旧式の大砲しか持っていなかった甲陽鎮部隊は、板垣退助ら率いる新政府軍の前にあっさり敗れ、たったの2時間で壊滅したと言われています。


 現在、戦いがあったとされる、甲州街道(国道20号)沿いの柏尾あたりに近藤勇勇の銅像や石碑があります。


③武田神社(甲府市)

 歴史好き、戦国時代好きとして、もう3、4回は行ったことがあるところ。昔の躑躅ヶつつじがさき館、つまり武田信玄の本拠地だった城跡。

 江戸時代には、甲府城が中心になりますが、戦国時代にはここが甲斐国の中心。


 ご存じの方もいるかもしれませんが、武田信玄は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と言っていたように、人材を大事にしたので、あえて大きな城を作らなかったと言われています。


 つまり、現在は神社になっているここ自体、いわゆる「平山ひらやま城」に近い、堀を巡らしただけの簡素な城なのです。


信玄堤しんげんづつみ公園(甲斐市)

 「信玄堤」に関しては、詳しい史料がいっぱいあるので、そっちを見ていただくとして。要は、戦国時代当時、この近くの釜無かまなし川と御勅使みだい川が雨で度々氾濫して、近くの水田が水浸しになっていたそうです。

 そこで、武田信玄は20年もの歳月をかけて、ここに強力な堤防を築き、それ以降、その堤は「信玄堤」と呼ばれて水害を防ぎ、江戸時代まで農民は信玄に感謝したと言われています。


 それくらい、本当に民のことを考えていた武田信玄。実は人材育成も上手く、他の武家で「こいつは使い物にならん」と放逐された武将を、信玄は適材適所できちんと使いこなした、と言われています。


新府しんぷ城跡(韮崎にらさき市)

 マニアックです。武田信玄は、本拠地を躑躅ヶ崎館から移さなかったんですが、息子の勝頼は、後にこの新府城を築き、ここを拠点にしたと言われています。


 しかし、せっかく新たな本拠地として築き上げ、躑躅ヶ崎館と同程度の規模で、なおかつ戦闘能力もある程度有していたと言われるこの城ですが、天正10年(1582年)3月、勝頼はいわゆる甲州征伐によって、織田・徳川連合軍に攻められ、家臣の小山田おやまだ信茂のぶしげ岩殿いわどの山城に移るために、新府城に火をかけて廃城にしたと言われています。しかもその時、まだ新府城は未完成だったとか。


 その上、その小山田信茂に裏切られ、勝頼一行は天目山に追いつめられて、自害。武田家は滅亡します。


 現在、武田家重臣の墓などがあったはずです。訪れる人も少ない寂しい城で、心霊スポットのような独特の雰囲気があります。


 ということで、他にもあるけど。

 今回、取り上げたところは、全部バイクで行きました。


 山梨県、最近はほとんど行くことがなくなりましたが、かつては地理的に近かったので、よく行ってました。

 盆地なので、夏は暑いんですけどね。


 あと、山梨県名物のほうとうは「小作」がオススメです。よく行きました。県内に何店舗かあります。

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