不穏な気配
F県中央部にとある町がある。
山に囲まれた盆地で、幾多の村の合併という歴史により成立した小岳町という名のこの町は、豊かな自然に囲まれた地域であった。
山の麓付近などには水田が広がり、その合間には木造の古民家が点々と立ち並ぶ、というように各所には今も田舎の名残が色濃く残っているが、町の中心部分へ近づくにつれ、その喉かな風景も次第に様変わりしていく。
いわゆる再開発の進められている小岳町の中央部付近などには、RC造の巨大な建造物が乱立している事から、そうした緑に囲まれた景色など忘れてしまいそうになる。
しかし、まだまだ発展途上などと言われる小岳町全体を正確に捉えるならば、『田舎町』という呼称が未だ相応しいと言えるだろう。
そんな小岳町の中央部付近。
林立する木々の隙間から差し込む眩い陽光に目を細めながら、小岳町の某高校に通う少年、真葛 一は一人、道中を歩いていた。
時刻は午前八時。
通勤時間帯によって沢山の車が埋め尽くす片側二車線道路の縁側にある歩道を、詰襟の黒い学生服を着て、黒い鞄を肩に担ぎながら、真葛は黙って歩いていく。
一見すると、これといって特徴的なものは何もない少年のように思えるが、それはあくまでも相対的な評価をするならば、という条件付きなのかもしれない。
何故ならば、真葛の周囲を囲むように歩いている他の学生達は各々目立つような服装や髪型をしている者が多数いたからだ。
例えば、極端にスカートを折って短くして、脱色した金色の髪を靡かせながら三、四人で固まって歩いているギャル風な女子生徒、剃り込みの入った髪型を真っ赤に染色しているヤンキー風な男子生徒、中には青髪や緑髪の学生なんかもチラホラいたりする。
勿論、辺り一面がそのように目立つ学生達で埋め尽くされているわけではなく、平均的に捉えるならば、やはり標準の学生服を違反なく着こなし、黒髪の学生ヘアースタイルで統一している生徒が大半だ。
しかし、自己主張の激しい一部の目立つ生徒と比較すれば、薄い茶髪をオールバックにして両耳に小さなピアスを付け、首から刺々しい銀色のペンダントを提げている真葛は、平凡な学生とは言えないまでも、やはり群衆に埋もれてしまう程度の格好と言えるだろう。
ましてや真葛は基本的にいつも一人での通学となっている。周囲が騒がしげに集団登校している光景の中、一人ポツンと歩き続ける真葛など目立つはずもなく、ある意味では浮いてしまっているとすら言えるのかもしれない。
そんな真葛は片手をポケットに突っ込んだまま考え事にふけていた。
(…浅川高等学校。地元じゃ知らぬ者無しと恐れられる不良のエリート校…ねぇ)
真葛は周囲を見渡すが、やはり浅川高校の生徒など一人もいない。真葛の通う学校と浅川高校は近くにあるといっても通学路自体は全然異なるため、滅多に浅川高校の生徒とすれ違う事などない。
行き交う場があるとすれば、それは公共機関であるバスや電車を利用した際だろう。
真葛は思わずため息を吐いてから足を止めた。
横に視線を向ければ、その少し先に大きな町立病院を確認できる。
恐らく、昨晩襲撃を受けたとされる松田は、現在あの病院で療養中なのだろうが、流石に今行っても面会時間には少し早すぎるだろう。
松田と会って話ができるとは思えない。
そんな風に思い、再び歩き出す真葛の背を後ろから駆け寄ってきた誰かが軽く叩いてきた。
「よぉ、真葛。さっきは悪かったな、あんな時間に電話かけちまって。もう寝ぼけ頭は覚めたか?」
振り返ると、そこにいたのは真葛より頭一つ分ほど大きな体格の同級生、午前四時頃に電話のやりとりをした男、茶本 京一だった。
「茶本か。珍しいじゃねぇか、お前いつも遅刻ギリギリだったろ」
「…ま、流石に昨晩の件を考えたら、いつもみたくボーッとする訳にもいかねぇだろ」
「……、」
茶本は言いながら真葛の横に並んできた。茶本は短く切り揃えた黒髪をしており、真葛のように装飾品などは一切身に付けていない。真葛と比べれば、服装に関して言えば控え目な印象にも見て取れる。
もっとも、華美な装飾品など身につけなくても、その大きなガタイと屈強な顔つきからは、十分過ぎる程の存在感が放たれているが。
そんな二人は肩を並べながら真っ直ぐに続く歩道を歩き続ける。
やがて、茶本は真葛に切り出した。
「…で、どうするんだ?やっぱ、浅高の連中とは今日にでも会う予定か?」
「あぁ、そのつもりだ。と言っても、あくまで俺の予定だ。アイツらが俺に合わせて行動してくれるわけじゃねぇし…大体、奴らの連絡先も居場所も分からないんじゃコンタクトの取りようがない。なぁ茶本、アイツらの連絡先とまで言わねぇけど、浅高に連絡取れる知り合いでもいねぇか?もしいるなら、そいつからアイツらの連絡先なり居場所なりを教えてもらうとか」
「いや、そりゃ駄目だぜ」
真葛の言葉を茶本は力強く区切った。
一瞬、呆気に取られた真葛だが、茶本はすぐさま言葉を繋げていった。
「お前も知ってるだろ?地元じゃ、その名を耳にするだけで震え上がるとまで言われてる不良高校だが、それでも中には普通と呼べるような人間だっているんだ。浅高に知り合いはいるんだが…アイツらとは特に無縁の人間でな。だから、この件には電話の一本とはいえ関わらせる訳にはいかねぇ」
「……、」
「変に関わったら、そいつがアイツらの的になる可能性もあるだろ?そんな事は極力避けたい」
「…そりゃそうだな。ん?」
と、そんな風に歩いていた二人だったが、真葛はやや前方にできている生徒達の群衆の中で見覚えのある後ろ姿を発見した。
「おい茶本、あれって…」
「ん?あぁ、それっぽいな。いや、間違いねぇ」
真葛はその人物へ気がつくと、近寄ろうと若干早歩き気味になり、茶本も真葛の後に続いていった。
その人物の特徴を捉えるとすれば、どこに着目点を置くのが正しいのだろうか。
白いワイシャツの上に灰色のスクールカーディガン、紺色のプリーツスカートにオーバーニーソックス、胸元には赤いリボンを付けている。
明るい茶髪のポニーテールという髪型をしており、外見だけを捉えるならば明るいイメージを持ってしまいそうだが、不思議な事に暗い印象を覚えさせる少女だった。
その仰々しいまでに肩をすくめるような態度で歩いている姿からは、とても明るい印象とは程遠い。
いや、肩をすくめているのは、彼女の性格云々ではなく、単に外的要因に怯えているだけなのかもしれないが…。
ともあれ、真葛は早歩きで少女へ近づいていき、何気なく後ろから声をかけた。
「よう、筿村」
「……ッ⁉︎」
それは二週間程前に、浅川高校との件に巻き込まれた少女、筿村 千菊だった。
突然背後から自分の名前を呼ばれた少女は、ビクッと体全体を震わせ、思わず身を縮めるようにした。
彼女はオドオドした様子で、ゆっくりと首を回して真葛の方へ振り向く。真葛は、筿村の反応に少し戸惑ったような様子を醸し出しながら続けて言う。
「あぁ、その…悪りぃ、突然声かけて。…久しぶりだな。二週間ぶりだっけ?暫く見なかったけど、何事もなかったか?」
「……、」
筿村と呼ばれた少女は、口元を少し震わせながら真葛の顔を見上げていた。
その表情に戸惑いが膨らむ一方だった真葛は思わず言葉を詰まらせるが、とりあえず最低限の忠告程度はしておこうと考え、再び口を開く。
「どうやら、また浅高の連中が動き出しているらしい。同じ手口で筿村に近寄らないまでも、外出してる時は誰かと一緒にいるか、人目のある所にいた方がいいと思う。この間みたいに裏路地みたいな場所を一人でうろついてると」
「何?」
「…え?」
突然、真葛と茶本の背後から、誰かが会話を遮るように小さな声色で言った。
その一言に真葛は思わず素っ頓狂な応答をして振り向いた。
そこには、鋭い目を更に細めるようにして立ち尽くす小柄な少女がいた。
背丈は筿村よりも僅かに小さい。
筿村と同じ制服を着ている事から同じ学校の生徒である事は間違いないのだが、少なくとも真葛や茶本は、その少女の顔を拝んだ事など一度としてなかった。
色白の肌に、艶のある黒髪を肩まで伸ばし、クールとでも表現するべき冷徹な表情で真葛の元へ近づいてくる少女に筿村は呟くように言った。
「…雫、ちゃん」
「ねぇ」
しかし、雫と名前を呟いた筿村の声を払い除けるかの如く、真葛達の眼前に迫る少女は語尾を強くして真葛と向かい合う。
「何が言いたいの?君。まさかとは思うけど、千菊の心配でもしているつもり?」
「……、」
「冗談じゃないわ。この間は千菊を下らない争い事に巻き込んだくせに今日は心配しているフリ?…随分と手前勝手な物言いね。つくづく、反省の足りない人間だと感じるわ」
「……お、おい。ちょっと待てよ」
と、そんな少女の突き刺すような言葉の一つ一つに反応したのは、真葛ではなく横にいた茶本だった。
「何なんだお前。いきなりそんな言い方ねぇだろーが。真葛は筿村の為にと忠告してやっただけだ。そりゃ、あの時は大きな揉め事になっちまっけど、元凶は浅高の馬鹿共だ。一方的に真葛を糾弾すんのは筋違いもいいとこ…つーか、そもそも誰だよお前」
と、少女は、真葛より前に乗り出して発言してきた茶本へゆっくりと視線を移した。
氷のような冷たさ、ガラスの破片のような鋭さを覚えさせる瞳で見つめられた茶本は思わず後退りしそうになる。
少女は背丈こそ筿村よりも僅かに小さい事から、大柄な茶本から見れば恐るに足りないように思える。が、やはり視線一つから何か特異なものを感じ取った茶本は、心を縛り付けられたような謎の錯覚に陥った。
そんな茶本に応じる形で、少女は落ち着いた表情のまま声のトーンを変えずに言った。
「君は馬鹿?千菊は歴とした被害者なの。筋合い云々の話なら、それこそ加害者のそちらが、被害者の千菊に対して上から目線で忠告なんて方が遥かに筋が通ってないように思うんだけど?そもそも、暴力以外の解決策なんて幾らでもあったはずよね?警察なり誰かに助けを求めるとか。にも関わらず、まるで暴力に支配されたかのように暴れた彼は、果たして千菊を救った偉いヒーローかしら?」
「…加害者だぁ?」
「そうよ。それに、もし何か一つでも状況が違ってたら千菊が無事だったって保証すらない。結果として千菊は助かったんだろうけど、君のやった事なんて本質的に捉えれば、変に輪に入ってきて変にややこしくしただけ。結局あの連中も君も似たようなものよ。はっきり言って迷惑な存在に他ならない」
「…いーから誰だって聞いてんだよ。まず正体くらい明かして物言いやがれ」
そんな二人のやり取りをわなわなした様子で蚊帳の外で眺めていた筿村だが、真葛や茶本の目前にいる少女は悠然と立ち尽くし、ほんの僅かな表情の変化すらない。
茶本のうんざりしたような問いかけに、少女は小さくため息を吐いてから答える。
「月城 雫。以前いた学校で問題を起こして退学直前に担任から転入を強制され、両親にまで厄介払いされた挙句、地元の都会から飛ばされてこんな田舎町に来ました。本日より小岳高等学校、二年一組の一員です。はい、自己紹介はこれで結構?」
月城 雫と名乗った少女は最初から用意していた文章を読むかの如く早口で言った。
両者の間で少し沈黙が訪れるが、やがて茶本がうんざりしたような口調で言う。
「転入?マジかよ…しかも二年一組って俺らと同じクラスじゃねぇか」
「何か問題ある?」
「…今、自分で言ったじゃねぇか。問題あるから前の学校にいられなくなったんだろうが。典型的なトラブルメーカーってやつか」
「心配ご無用。転入してまで問題起こすような思考回路してないから。因みに私は根っからのトラブルメーカーなんかじゃないので、たとえ君が私に失礼な口を聞いても、余程の事でない限り痛い思いはさせないから、その点は安心していいよ?」
「…はっ、何を言い出すかと思えば。そりゃ浅高のワル共なんかじゃ脅し文句にでもなるだろうが、お前に言われた所でちっとも怖かねーよ。大体…」
「ただし」
月城は茶本の言葉を遮る。
茶本が嘲るような表情と口調を思わず一瞬で食い止める程、決して大きくないその声音は、やけに威圧感を放っていた。
一体、この小さな少女のどこからこれ程の威圧感が相まみえるというのか。
月城は、真葛と茶本の間を遮るように歩き、その後ろでオドオドしていた筿村の元へゆっくりと歩いていく。
それから筿村の前に立つと、今度はゆっくりと真葛達の方へ振り向いて言う。
「千菊に危害を加えた場合は話は別。とりあえずは平和主義でも目指すつもりだけど、もしも千菊に悪意を持って何らかの手段で近付きでもしたら…その時は誰であろうと容赦はしないから」
「……、」
「他所の学校との騒動で千菊が巻き込まれそうになったって件に関しては特別に見逃してあげる。あの場に限りアンタが千菊を助け出した事は間違いないようだし。むしろ浅川高校…だっけ?あの馬鹿の掃き溜めみたいなとこ。相手にするなら連中の方が妥当だしね」
と、そこまで言われて先程から黙っていた真葛は口を開く。
「悪い事は言わん、病室の天井眺めたくなけりゃやめとけ。第一、俺らが好き勝手に動いたら、お前の守りたがっている筿村にまで飛び火する可能性だってあるだろ?だから、浅高との件に関しては連中だけじゃねぇ、俺にだって落ち度はあったんだよ。お前もさっき言ってたよな?状況が違えば筿村が無事だった保証すらないんだ」
「私の場合、全く問題ないけどね」
「あ?」
真葛は疑問を浮かべながら月城を見下ろすが、月城は余裕のある表情を作り出し口元に不気味な微笑を浮かべながら言う。
「私の場合…君と違って、そんな連中に敗北する可能性なんて皆無なの。だから、問題ないと言っている」
「……、」
「相手がここいらで名を馳せている不良高校の面子だとか何だとかさぁ…正直、下らな過ぎてどうでもいい限りなんだけど。ただ一つハッキリ言える事があるとすれば、私なら、その程度の連中如きに、私や千菊を危険に陥れるような余地なんて一切与えないね」
月城は少しの間を置いて、声のトーンを低くしてから呟くように言った。
「その程度の力を私は持っている」
再び、両者の間で沈黙が広がる。
茶本は、先程までのような小馬鹿にするような口調も表情も作り出さず、ただ純粋に浮かんだ疑問として質問をした。
「何だ?小さい頃から格闘技でも習っていたのか?腕っ節に相当自信のあるような発言じゃねぇか。そもそも、お前にとって筿村って何なんだ?何故、そこまでして筿村を、まるで守護神のように…?」
「…別に。単なる友達だよ。…でも、私にとっては唯一無二の…ね。だから守るの。それだけだよ」
「随分と純粋なんだな」
「馬鹿にしたけりゃすればいい。さっきも言ったけど、千菊に対して悪意を向けない限り、私からは何も起こす気はないから。転入早々だけど、これだけは君に言っておこうと思っただけ」
そう言って月城は、真葛と真っ直ぐに視線を合わせた。
真葛は、軽く瞼を閉じ、小さくため息を吐いてから、月城の後ろで無言で立ち尽くしている筿村へと視線を移した。
「本当にすまなかったな、筿村。また浅高が動いたのだって俺が大元の原因かもしんねぇし、ろくに考えもせずお前を危険な目に合わせちまったのは完全に俺の落ち度だった」
「……いや、別に…そんなこと…」
真葛の視線から逃げるように、困惑したような表情で俯き様に小声で呟く筿村に真葛は続ける。
「俺はこれから浅高との件にかたをつけようと思う。つっても殴り合いの喧嘩なんかでケリをつけるなんて意味じゃねぇ。何とかコンタクトを取れるよう努力はする。だから、この事態が収まるまではお前も、いや、お前達も用心しておいてくれ」
「……、」
「だから、私は問題ない。君からの忠告なんて不要だと言ってるの」
不貞腐れたような態度で吐き捨てるように言う月城を無視して、真葛はその場から動こうとする。
「月城…だったか?お前の話は理解した。肝に銘じておくよ。じゃ、俺はもう行く。お前達も学校遅刻しないようにな」
そう言いながら真葛は筿村や月城を通り越して、通学路の一本道を再び歩き始めた、その時。
ブオオオオオ‼︎と、辺りを震わせるような大きな排気音と共に向こう側から何かが猛スピードで疾走して来た。
それは片側二車線道路の端から一気に加速して、車と車の間を縫うように蛇行運転を繰り返し、猛スピードで道路を通過していく。
思わず、その場にいた全員がそちらへ振り向いたが、あまりの速度に目の焦点を音のした遠くの方に当てた時、それは既に自身のすぐ隣を通過しようとしていた。その場にいた者の中で、何人がそれを正確に視認できたのかは定かではなかったが、真葛の目は、それを不思議と鮮明に捉える事ができた。
それは、黒の大型自動二輪車だった。
運転操作をしている者は、黒を基調にしたヘルメット、グローブ、ブーツ、プロテクターを装備していた。
それ自体は別に不思議には思わない。
自転車を運転するのとは訳が違うのだから、当然の重装備と言えるだろう。
しかし、その後ろへ同乗していた者は明らかに異質だった。
まず、ヘルメットを着用していなかったのだ。
警察官にでも見つかったら即追跡されそうな光景だが、これでもまだ序の口。
あれ程、目にも止まらぬ速度で蛇行しながら走行しているにも関わらず、後ろへ乗っている者は優雅に足と腕を組んで、瞑想でもしているかのように目を瞑っていたのだ。
一体、どこにどういう風に重心を働かせれば、あのような芸当を可能とするのか全く理解できない真葛のすぐ横を、大型自動二輪車は猛スピードで通過していく。
真葛は運転している者ではなく、後ろへ乗っている者へと視線を向けた。
真葛と大型自動二輪車が交差する瞬間、そんな一秒にも遥かに満たない刹那。
後ろへ乗っていた者は、ふと瞼を開けた。
偉そうに腕と足を組み、それから真葛の視線に合わせるような形で赤い瞳を動かした者は、真葛と同じ制服を着ていた。
同じ学校の者だろうか?
しかし、少なくとも真葛の見知った生徒ではない。
黒い学生服の上下に、銀色に輝いているホスト風な髪を靡かせ、一メートル以上は幅のありそうな細長い黒い鞄を肩から掛けており、斜めに流している。
その細長い鞄の中身などに一々疑問を抱かなかった理由は単純明白だ。
それを身に付けている人物の存在感が圧倒的過ぎて、その他の光景が目に入らなかったから。
その男は沈黙を保ったまま、瞳を真葛の方へ向けてきた。
時間にしてみれば一瞬の間ではあるが、たしかに両者は互いを視認していた。
真葛はその男の赤い瞳に、思わず息を呑む。
先程まで話していた月城にも冷徹と言っていいような瞳で見つめられていた真葛だが、この男は月城以上に遥かに冷たく、鋭さを感じさせる何か底知れないような目付きをしていた。
特に表情など作り出しているわけではない。
恐らく、本人にしてみれば至って無表情とも呼べる状態なのかもしれないが、その細長い横に裂けるような目付きに輝く赤い瞳は、もはや鮮血の付着した鋭利なナイフにも見て取れた。
その瞳に暫く唖然としていた真葛だが、その男はやがて真葛などに関心はないと言わないばかりに、再び瞼を閉じた。
両者見つめ合っていた体感時間はやけに長く感じたのに、再び男が視線を逸らしてからの体感時間は、まるでリアルタイムに戻ったように短く感じた。
もはやズドンッ‼︎という何かが爆発したような爆音をも発生させ、大型自動二輪車は、そのまま真葛達を置いて一瞬で遠くの方まで疾走していこうとする。
その瞬間、真葛はある音を耳にした。
バイクのエンジン音など継続して響くような音ではない、何かを叩きつけるような、弾き飛ばすような甲高い音だった。
「あっ…」
その音に気がついた時、状況は既に進行していた。
一体、誰が放置していたのか、道端に落ちてあった飲料缶が勢いよく真葛達の方へ吹っ飛んできたのだ。
より正確に言えば、真葛の少し後ろの方にいた筿村の方へ目掛けて。
恐らく、大型自動二輪車が走行の際、タイヤで道端に横たわっていた缶を弾きとばしてしまったのだろう。中途半端に中身の入った缶は真葛の真後ろ、筿村が立っていた方へと砲弾のように射出される。
「チッ…‼︎」
その状況に真葛が咄嗟の判断で動けたのは偶然に過ぎなかった。大型自動二輪車の後部へ居座る銀髪の男に釘付けになっていた中、たまたま視界の端に勢いよく飛んでいく何らかの物体を捉えたのだ。
反射神経に尻を蹴られたかのように、真葛は慌てて左腕をポケットから出して、飛んでいく飲料缶を拳で弾き飛ばそうとした。
豪速球のように筿村のいた位置へと迫る飲料缶と、真葛の風を切るように突き出した拳が激突した。
鋭い音が炸裂し、飲料缶は拳と激突すると同時に破裂し、中身を盛大にぶちまけた。
真葛は、缶の中に中途半端に入っていた液体を頭からかぶってびしょ濡れになった。
そんな自分の状態を眺めて思わず顔をしかめる真葛は、そのまま後方へと振り返る。
当然、筿村が先程いた場所だ。
しかし、
「筿村。大丈夫…って、あれ?」
後方へ振り向いた真葛は訝しげな表情と共に、疑問の声を発した。
先程まで、そこに突っ立っていた筈の筿村の姿がなかったのだ。
辺りを見回すと、少し離れた場所で月城に肩を支えられるようにして立ち尽くしている筿村が見えた。
「…あれ?」
真葛はもう一度、疑問の声を発しながら筿村達の方を見ていた。
月城は筿村の肩を抱き支えるようにしながらも、大型自動二輪車が去っていった方向を無言で見据えていた。既に大型自動二輪車を視認する事はできないが、少し怯えたような表情で立ち尽くす筿村とは対照的に、月城は睨みつけるように、その方角をじっと見つめていた。
真葛は、そんな二人の方を見ながらも、側にいた茶本へ質問する。
「…なぁ、茶本。あいつ、あの月城とかいう奴…今何やったんだ?」
「ん?何って何が?」
唐突に質問を投げかけられた茶本は訳の分からなそうな様子で問い返してきた。
「いや、どうやってあの位置まで移動したのか見なかったか?」
「…さぁ、今のうるせぇバイクの方見てたから気がつかなかったな。気のせいじゃねぇか?元々あの位置いたとか…っていうか、お前こそ、よくあんな速度でかっ飛ばされた缶に反応できたな。拳は何ともねぇのかよ」
「…俺の動きは見えたのか?」
「あぁ、何とかな。月城達の方は全く気がつかなかったけど」
真葛は思わず無言で立ち尽くしながら、さっき月城が言っていた言葉を思い出した。
ーー私の場合、全く問題ないけどねーー。
浅高へ、一瞬敵意を向けそうになった月城に忠告した時に返ってきた言葉だ。
ーーその程度の力を私は持っているーー。
その言葉が妙に信憑性を帯びたように思える不可解な状況とでもいうのか…それとも茶本の言う通り、単純に真葛の勘違いで、あらかじめ月城達は少し離れた場所に立っていたのだろうか…?
どちらにせよ、はっきりとしない事を前にして、真葛はただ疑問を浮かべる事しかできなかった。
(…何なんだ今日は。朝っぱらから色々と…。浅高の件といい、転入生の月城といい、バイクに跨ってたあの銀髪といい…何やかんや立て続けに起きてるが…何かの予兆じゃねぇだろうな。ま、筿村が二週間ぶりに登校してきた事に関しちゃ正直ホッとはしたが)
と、そんな事を立ち止まって考えていた真葛に茶本が横合いから声をかけた。
「おい、真葛。早く行こうぜ。せっかく早起きしたのに、いつもみたく遅刻ギリギリなんてごめんだぜ」
「あ、あぁ…」
何か消化不良を思わせるような声色で軽く返事をして、真葛と茶本は学校へと続く道を再び歩いていった。