#5 白の天使
「――じゃあまた明日な」
「おう、また明日」
放課後を迎え、多くの生徒が部活へと足を運んだり、帰路に着く中、輝夜は学園内に併設されている図書館に来ていた。
高等部と中等部の間にあるこの図書館は3階建てで、外観は何処かの宮殿をモチーフにしたような造りになっているが、周囲が木々に覆われている為その雰囲気はさながら魔女の家のようだ。しかし視線を建物から左に向けると、白線とアスファルトで出来た駐車場があり、此処が中世では無く現代だということを実感させられる。
何故輝夜がこんなところにいるのかと言うと、特に大きな理由は無く、単なる暇つぶしだ。
輝夜が通う高等部の校舎の中にも図書室はあるのだが、そことは比べ物にもならない程広い。中に入って見渡せば、目に入るのは当然本の山で、そこかしこに連なる本棚に隙間無く収められている蔵書は100万冊はくだらないだろう。
始めてこの図書館に訪れた頃はその蔵書の数に圧倒されていた輝夜だが、数日もすれば慣れたもので、適当な本をいくつか抜き取り手頃な席に着くと、無言で本を開き読書に耽った。
「……」
静かに染まるその場所でページをめくる音だけが鼓膜を小突く。
机に積まれた本に一貫性は無く、子供向けの絵本から小難しい事の書かれた論文に至るまで多岐に渡っているが、その中で輝夜が現在目を通しているのは、正義について書かれた論文だ。
内容を掻い摘んで説明するならば、正義にはいくつかの種類があり、正義とは善悪を含んだ表裏一体の概念であると同時に、人のエゴによるものだという身も蓋も無い結論に至った、当たり前を再確認するような論文で、それに目を通し終えた輝夜は特に感想等を抱くことをせずに次の本に手を伸ばす。
手に取られた本はファンタジーを題材とした作品のようで、表紙には妖精と思わしき羽の生えた小さな少女と恐らくは主人公である青年が写っていた。
輝夜は本を開きページをめくる。
――中に描かれていたのは美しい世界。煌びやかな森に、美しい泉。沢山の人々が往来する城下町。元気にはしゃぐ子どもの姿や金属製の鎧に身を包み、腰に剣を提げる兵士の姿。
目に見える程に繁栄しているその国に住まう、1人の精霊使いの少年を主人公としたその物語を前に、輝夜はページを見進めてゆくと、次第に情景は絶望の出現と共に悲鳴や嘆きの声が轟く、狂乱の坩堝と化した国の様子に移り変わっていった。
逃げ惑う人々をまるで悪魔のような姿をした化物が追い立てる。狩りをしているつもりなのか、遊んでいるつもりなのか、1人ずつ捕まえると、足を引き千切り、殺さずに投げ捨てる。それを目撃した人間が1人、また1人と気力を失って膝をつき、そうして立ち止まった人間を化物は手に取ると、生きたまま咀嚼していった。食べ終えた化物はニタリと笑みを見せ、それを見て立ち尽くす主人公の姿が描写され――――。
そこまで目を通したところで、輝夜はふと向かいの席に1人の女子生徒が腰掛けていることに気付いた。
「――――」
視線を向けて、声を失う。
肩口まで伸びる真っ直ぐで綺麗な白い髪に、陶器のように白い肌。宝石のような黒い瞳に淡い桜色の唇。
天使と見紛う程に美しく、まるで現実味のない容姿のその女子生徒は輝夜の視線に気づくと、ほんのりと頬に朱を差し、慌てるように声を発した。
「――あ、ご、ごめんなさい。邪魔しちゃいましたか?」
鈴を転がしたような澄んだ声が輝夜の鼓膜を震わせる。それはとても心地が良く、ずっと浸っていたいと思えるものだったが、輝夜は甘える自分を殺してにこやかに応えた。
「ううん、そんなことは無いよ」
「そうですか、良かった……」
輝夜の言葉を聞いて安心したのか、彼女はほっと息を吐く。それから小さく深呼吸をすると、言葉を連ねた。
「あの……その本、どうでしたか?」
「ん? ああ、まだ途中までしか読んでいないけど、面白いと思うよ」
少し唐突な問いに、輝夜は本の感想を求められているのかと判断して感想を述べると、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「そうですよね! 私は主人公のアレンが姫様に引き止められて、『貴方が英雄になる必要は無いの!』って言われる所が特に好きで――」
そこまで口にして、彼女は輝夜が目を丸くしていることに気付くと、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「……ご、ごめんなさい」
「いや、謝らなくてもいいよ。ちょっとびっくりしただけだから。それにしても、本、好きなんだね」
輝夜の言葉に彼女は一瞬躊躇してから頷く。
「読書をしているときはまるで別の世界に居るみたいで、とても楽しくて、例えば――」
彼女は好きな事で話が出来るのが余程嬉しいのか、笑顔を絶やさずに話し続ける。そんな彼女の話に輝夜は辛抱強く耳を傾けていた。
やがて時計の短針は6時を周り、図書館に居た他の生徒は既に帰ってしまったのか周囲に人影が無くなると、残っているのは輝夜と彼女の2人だけになる。
「――この本は恋愛物なんですけれど所々にギャグが散りばめられていて、ハマってしまうと中々抜け出せない面白さを――」
「……そ、そろそろお開きにしない? ほら、時間ももう6時だし」
話はいつしか本の紹介となっていたが、彼女はまるで疲れを知らないとでも言うように現在進行形で話し続け、余りに嬉しそうに話す彼女に出るに出られずに2時間弱。話に付き合っていた輝夜は、まさに疲労困憊といった様子でそう声を掛けた。
「えっ、もうそんな時間――」
彼女は振り返って柱に掛けられている時計を見て固まる。
「ご、ごめんなさい! つい夢中になってしまって――」
慌てる彼女を見て、輝夜はくすりと笑みを零すと彼女は恥ずかしそうに頬を染め、縮こまった。
そんな彼女を見て今度は苦笑を浮かべる。
「そろそろ帰ろうか」
輝夜はそう促すように言って席から立ち上がると、彼女を待ち揃って図書館を後にする。
そうして高等部の敷地へと歩いていると、彼女が不意に輝夜の方を向いた。
「あの、今日はありがとうございました」
「ん、なんのこと?」
「私の話にお付き合い頂いて、です」
輝夜は律儀だなと思いながら言葉を返す。
「気にしないでよ。僕も楽しい時間を過ごせたから」
「それは光栄です」
嬉しそうに微笑んだ彼女とそのまま高等部の敷地に入り、校舎前にある噴水を横切り、暗くなった空に星が輝き始める様子を目にしながら歩く。僅かに視線を向けると彼女も同様に空を見上げていた。
やがて正門に到着した2人は学園の外に足を踏み出す。
「私は電車なのでこっちです」
「僕は徒歩だからこっちだね」
街灯の明かりが照らす中、特に打ち合わせなどはせずに、お互いに帰り道の方向を示し、その方向が正反対であることに顔を見合わせる。
なんとなく舞い降りた沈黙に2人はそのまま見つめ合い――、輝夜はそう言えば、と聞いていなかったことがあることを思い出した。
「――聞き忘れていたんだけど、君の名前、教えてくれるかな?」
その質問は本来最初にされるべきだったのだが、彼女もすっかり忘れていたようで目を瞬かせるとすぐに苦笑を見せた。
「自己紹介してなかったんですね、私達。――私の名前は音無詩乃です。2年A組です」
「僕は2年B組、藤咲輝夜。よろしく、音無さん」
「はい、よろしくです。――あ、詩乃って呼んでくれてもいいですよ?」
お互いに遅い自己紹介を終えて、詩乃はからかうように付け足した。
微笑みを見せる詩乃に輝夜は応えようとするが、詩乃はそれを聞くことなく後ずさるようにして数歩分の距離を取る。
「それじゃあ――」
そしてすぐに別れの挨拶を口にしようとして、逡巡を見せた。それから何を思ったのか、輝夜の方へ1歩近づくと上目遣いに別の言葉を口にした。
「あの……またお話に付き合ってくれますか?」
少し小さな声で尋ねた詩乃に輝夜は一瞬硬直した後、微笑みを返す。
「うん。もちろんだよ」
「本当ですか?」
輝夜が頷くと、詩乃は嬉しそうに口角を上げ、恥ずかしくなったのか鞄で顔を隠した。
少し待っていると落ち着いたのか顔を出したが、その顔は暗くてもわかるくらいに赤い。
「じゃ、じゃあ、待ってますから」
赤くなった顔を見られたくなかったのか、早口でそう言った詩乃は踵を返して、足早に学園最寄りの駅に向かって歩いていく。
輝夜はそれを手を軽く振って見送ると、反対方向に向かって歩みを進めた。