#0 プロローグ
背にはアスファルトの感触。胴体には灼熱感が駆けずり回り、口内には血が喉を逆流して溢れ出る。
そんな状況で彼は月も星も見えない、雲に覆われた、今にも泣き出しそうな空を見ていた。
――きっと運が悪かったのだろう。
空を見上げながら、そんな事を思った。
この時間に帰路に着かなければ、この道を選択しなければ、傍に立つフードを被った誰かに声をかけなければ、家に帰ることが出来たのだろうか。
次第に薄れゆく意識の中、彼はそんな事を考え、直ぐに被りを振った――実際には身動ぎをする程度に留まったが――。起きてしまった事はもう変えられないし、例え変えられたとしても他の選択肢を選ぶことはなかっただろうから。
帰りを待つ娘がいたのだ。今日、いや、昨日誕生日を迎えた娘が。
フードの誰かに声をかけてしまったことだけは少しばかり後悔はあるが、それだって自らの正義感に従って起こした行動だ。
悔いが残るとすれば娘の誕生日を祝ってあげられないことだろうか。
愛する娘の笑顔を思い返すと、同時に日々の記憶が脳裏に蘇った。
三人で暮らしていた頃の幸せな記憶。
妻を失い、悲嘆に暮れていた日々。
悲しむ自分の為に常に笑顔を振る舞い、自室で一人泣いていた娘。
大人なのに、親なのに娘に甘えて何をやっているんだと自身を叱咤し、娘の本当の笑顔を見るためにと挑戦してみたパンケーキ作り。
出来たパンケーキは所々焦げていて、ボロボロで、とても美味しそうには見えなかったが、娘は美味しいと言って、泣きながら、笑顔で食べてくれて――――
「……?」
不意に何かが目元に落ちた。恐らくは液体だろうそれは目元から頬を伝って流れてゆく。
沈んでいた意識が引っ張り出され、頬に付着したそれを拭おうとして体に力が入らないことに気づく。
次いで体を苛んでいた灼熱感がいつの間にやら消え去っていることに気づいて、同時に何かが失くなりかけているような感覚を覚えた。
彼はその何かについて思考しようとした。だが、何故だか頭が上手く廻らない。
必死に考えようとして、何をしようとしていたのかが判らなくなって、どうでも良くなって――――
「……夏憐……」
何故か言葉に、音に、声にしたそれを彼はもうよく分からない感情で包んだ。
何故かそうしたいと、そうするべきだと想った――――。
†††
次第に雨音は強くなり、パーカーに付着していた誰かの血液が雨に濡れて滲んでいく。右手に握ったままの刃物に付いていた血は雨と混ざり合って、地面に落ちた。
「…………」
彼の視線の先には横たわる一人の男性の姿。
既に息は無いが、その傷口からは今もなお、血液が流れ出ていた。
「…………」
雨は屍を叩き続けている。流れ出る血液に雨粒が落ち、それは赤い水面を微かに揺らす。
「…………」
雨が降る中、無言でアスファルトの上に転がるそれを見ていた彼はやがてそれから視線を外すと、右手に握ったままだった刃物を仕舞い、身を翻しその場を後にした。
微かに聞こえた声。男性が死に際に声にした誰かの名前はどうでもいいことだと忘れ去った。
割れたガラスは元の状態に戻せるのだろうか。
過ぎ去った時間は返ってくるのだろうか。
死んだ命はもう生き返ってはくれないのだろうか。
一度黒く染まってしまえば、二度と白には戻らない。