音響捕物帳
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふう、ここのところ、夜が静かでいいねえ。
一ヶ月くらい前までは、パトカーなり救急車なりが、一日に一回は鳴り響いていただろう? 寒いからガスに頼る人も多いだろうし、空気は乾燥気味と来ている。
いかにもボウボウやってください、と言わんばかりの日本の冬だ。しっかり公務員として働いている姿を見せねえと、市民からどんな陰口叩かれるか分かったもんじゃねえ。
この手の正義の味方、万人の奉仕者っていうのは、おおっぴらな事件が起きないとアピールできないからなあ。
普段から事故、事件が起きないように仕事していたら、「何のために存在してんだ」と突っ込まれる。そしていざ、事故、事件が起きると「お前らは今まで何してたんだ」だろう?
やってらんねえな。俺が同じ立場で、もし許されるんだったら、ひとりひとりにきっちりと「お話」をしてやりたく思うな。
自分を取り巻くことに「俺、私の気持ちも知らないで」と思ったことは、一度や二度じゃないはずだ。
この仕事に隠された意味。その手掛かりのひとつに出くわした時の体験、聞いてみないか?
ひとり暮らしも三年が経つと、倦怠期というか、慣れてきちまうな。
引っ越ししたての時は、部屋を汚すまい、汚すまいと気をつけているが、そのうち手の抜きどころが分かってくると、あっという間にゴミ屋敷だ。
自分にとっての最低限の居住空間さえ確保されれば、グッド。幸いなことに、家族以外の誰も部屋にあげることはないからな。ちと寂しいが、宅飲みだったら友達んちでもできるし、俺に取っちゃ自分の部屋は、「拠点」みたいなイメージだ。
イレギュラーに見舞われず、俺の思った通りの時間が過ぎていく。
これこそがプライベート空間に求められる、最重要事項だと思っているんだが、どうだ?
それゆえに、出前とか通販とかの予期している来訪者以外は、うっとおしく思えてくるんだよなあ。
俺がかつて住んでいた部屋はアパートの二階の角部屋。ベランダの真下は野ざらし雨ざらし上等の駐車場で、住民たちの車が停められている。かなり広々とした空間で、宅配便のトラックなどが悠々と乗りつけて、なお余裕があるほどだ。
当時は停めている車の数がさほど数が多くなく、両親が俺の部屋にやってくる時なんかは、空いているスペースへ、一時的にマイカーを停めさせてもらったこともしばしばだ。
だがそれも、元々契約していた人が、ちょうど両親の車を停めているスペースに戻ってきてしまって終わりを告げる。以来、両親は部屋に来る時、アパート近くの有料駐車場を利用するようになった。
その駐車スペースを使っているのが、俺のすぐ下の部屋に住んでいる、すっかり頭が禿げ上がった40がらみのおじさんだ。
休みの日の日中に、自分で車のお手入れをしている姿を何度か見たことがある。じろじろ見たわけじゃないし、専門知識もないから「工具が転がっているなあ」程度の感想しか浮かんでこなかったが、少々、困ったことがある。
夕方から夜中にかけて、ごくたまになんだが、車上荒らし対策と思われる警報が鳴り響くんだ。故障なのか、メンテなのか知らねえが、唐突にだ。
パトカーもかくやっていう、大音量のサイレン鳴らしながらさ、「ガラスが割られました。警察に通報してください」と告げた後に、三秒くらいウーウーとうなり、また「ガラスが割られました。警察に……」の繰り返しで、うるせえ、うるせえ。
これに対し、誰かしら文句を言うと思うだろ? どっこい、うちのアパートじゃいなかったんだよ、俺を含めてな。
今まで、いくらうるさくしたって、せいぜいが五分で止まるんだぜ? ヘタなカップ麺が完成するまでの、わずかな時間だ。ヘタなことに首を突っ込むよりも、パソコンで動画でも見ている方が、有意義というもの。
嵐が来たなら逆らわず、洞穴や軒先に身を隠し、通り過ぎるまでじっと待つ。古典的な災害対策だろ?
頻度はそこまで多くない。たまたま天気雨に降られただけ、と思ってずっとやり過ごしていたのさ。
そんで、今のような冬のある晩のこと。
俺は布団の中に潜りこみながら、枕元にノートパソコンを広げ、ネットサーフィンをしていた。
久々の連休。ここぞとばかりに遊び溜めしておかなくっちゃ、人生がもったいねえ。
外じゃ寒空の下にも関わらず、猫の鳴き声がひっきりなしに聞こえてくる。どうも複数の猫が互いに鳴き合っているようだった。
地元でもよくあることで、猫同士のけんかだと聞いたことがある。俺はまだ、実際に現場を押さえたことがなく、想像するばかりなんだ。
音の主は、アパートの近くをうろちょろしているようだった。ついには俺の部屋の真上の屋根の上をカタカタと音を立てて、歩き去っていく気配を残す始末。
俺は画面から目を離さなかったが、聞き耳だけは立てている。立ってしまう。
――せっかくの憩いのひととき、邪魔すんなよなあ。
頭の中でぼやいた時だった。
ブォーっという風が吹きつける音が、新しく聞こえてきたかと思うと、言い争いの声が止む。それだけなら喜ばしいことには違いないんだが、直後に、ばしゃっと水音が、頭上の屋根から聞こえてきたんだ。
なんだ? とは思ったが、すでに寒さ対策で雨戸を閉め切っている。開けて確かめるのも面倒で、俺は見始めた動画をいったん止め、ひょいと天井を見やっただけ。数秒ほどですぐに顔を戻した。
動画を止めたせいで、パソコンの排熱ファンの音が目立つ。かなり大忙しで冷やしているようだった。
翌日。見事に寝落ちをかまして、数時間の記憶を吹っ飛ばした俺。
時刻はまだ午前5時になる直前。時折、アパート前の道路を大型トラックが通り過ぎて、雨戸を揺らす。
昨日の予報では、今日の未明から朝にかけて、雪が降る可能性があるとのことだった。どれどれ、と俺はそっと雨戸を開けてみる。
ごくごく小さい、粉雪が舞っていた。
もう少し大きめの粒だったら積もるだろうが、これではせいぜい道路を水びたしにするのがやっとだろう。
俺は雨戸を閉め直して、ふと、自分の指先に雪がこびりついているのを見た。
汚れているせいか、だいぶ灰色がかっている。洗面所で蛇口をひねり――冬場のお決まりで、お湯が出るまで時間がかかる――洗い流しにかかったものの、想像以上に頑固。
ただこするだけでは色が皮膚に伸びるばかりで、ハンドソープをつけて流して、を三回ほど繰り返して、ようやくといったところだった。
いつもなら休日の朝は、牛丼屋の朝食セットと相場が決まっていたんだが、この中を出ていくのはめんどうくさい。やむなくストックしておいたカップラーメン用のお湯を沸かしにかかったところ……。
ウー、ウー、ウー。
「ガラスが割られました。警察に通報してください」
ウー、ウー、ウー。
「ガラスが割られました。警察に……」
もはや名物となっている、警報訓練だ。タイマー代わりにちょうどいい、とのんきに構えていた俺だったが、その日は30分ほどなり続けていたのを覚えている。
それでも止めようという奴は現れず、俺も悪態をつきながらラーメンをすすりながらの動画視聴に、いそしむばかりだったけどな。
そして近所の床屋や本屋さんが、ぼちぼち開店時間を迎えるころだ。
数時間前まで、大型トラックが走り去っていくばかりだった道路を、今度はパトカーがサイレンを鳴らしながら、通り過ぎて行くようになる。
その頻度たるや、三十分に一度ほど。「どこかでけが人でも出たんかなあ」とのん気に構えていた俺だが、昼近くを迎えて。
アパート前の道路が混みあい、パトカーが「道を空けなさい」と放送しながら道路の真ん中を闊歩していくのを見る。ナンバープレートも、ばっちり判別できた。
そうして去っていったはずの同じナンバープレートのパトカーが、また十数分ほどでこちらへ戻ってくる。サイレンを鳴らしながら。
――探し物をしている?
その予想は当たったようで、二時ごろにはすでに俺たちのアパート周りに、パトカーが数台停車するように。
誰かが降りてくる気配も、サイレンを止める気配もない。
俺はカーテンのすき間から、そっと様子をうかがうばかり。もしや事件があったのか、と気をもみ始める俺の耳の中を、不意に強く揺らしてくるものが。
朝からつけっぱなしにしている、ノートパソコンからだった。
先ほどまで大人しかったが、また排熱ファンが音を立てている。心なしか、昨晩よりも大きく、「プッ、プッ」と操作に関する警告音に近いものも混じってくる。
さすがに休ませた方がいいか、と近寄った俺の前で、ひとりでにパソコンは電源を消した。
ガコッとパソコンの内部で、部品がずれる音がしたかと思うと、もう一度だけファンから「ゴウ」と風が出る。
突然、俺の耳の中へ痛みが走った。
耳かきとかで、深く耳をいじった時とは違う。奥の奥の方で、盛んに何かが震えているんだ。間近で聞く大太鼓の音が、絶え間なく俺の鼓膜を揺らしている。
それだけじゃない。釣られるように頭がガンガン痛み出した。
やはり内側から上下左右に揺さぶられる。加えて、頭蓋骨を四方から突き破ろうとしているかのよう。
割れる。
声を出すこともできず、俺は床に倒れ込んでしまう。
ウー、ウー、ウー。
「ガラスが割られました。警察に通報してください」
その警報と共に、痛みが急に引いた。
次の瞬間、すぐそばの窓のカーテンが持ち上がったかと思うと、ガシャンと音を立てて、窓の中ほどが割れる。
野球ボールほどの小さな穴。何かが通り抜けたのは確かだったのに、俺には何も見えなかった。まだ痛む頭をおさえながら外を見た時には、パトカーが次々に発進していくところだったよ。
パソコンはその後、無事に機能した。ウイルスチェックもしたが、問題なしとのこと。
ただ、夕方に外へ出かけたところ、近所のおばさんの話が耳に入った。
アパートの屋根の端で、二匹の猫の死体が見つかったらしい。いずれも、耳の辺りを中心に、頭部がえぐれているものだったとか。