第16話 ピンク電話
「じゃあ、俺は、まだ仕事あるから。またね」
男が仕事に戻ろうとした時、桃子が切羽詰まった様子で男を呼び止めた。
「あの……」
「ん?」
もじもじする女子高生の声に、男がキョトンとした顔で振り返った。
「お手洗い……お借りできますか?」
桃子にしては珍しく、とても小さな声だった。
「もちろん。店の奥にあるから、ご自由にどうぞ」
男の快諾に、桃子は慌てて頭を下げた。
「ちょっと待っていてくれる?」
桃子は俺と目を合わさず、呟くように言った。
「お、おう」
トイレに行くだけのことに、女の子が、これほど恥じらうとは知らなかった。もしかして、ずっと我慢していたのか? と思うと、鼻がヒクヒクと動いて動揺を隠せなんだ。
そそくさとバーに入っていく桃子の後ろ姿を見つめていると、視線を感じた。気配がする方へ目玉を動かすと、男の不思議そうな顔があった。
男は小首を傾げ、俺をじっと見ている。
「……なんですか?」
不機嫌そうな俺の声にも、男は眉一つ動かさない。
「いやね、俺たち、どこかで会ったことないかなあ、と思ってさ」
「ないと思いますけど」
仏頂面を隠すために、視線をそらした。
「そうかあ、気のせいかあ」
腑に落ちないといったふうに、斉藤は少し考えているようだったが、すぐに思い直したらしく、またにっこりと笑みを見せた。
「俺は斉藤。見てのとおり、ここのバーで、週末だけバイトしてるんだ。普段は大学生なんだけどね」
急に自己紹介をされても、反応に困るというもの。俺たちは、通りすがりに過ぎない。
「はあ……」
「で、君は?」
「僕ですか?……えっと、星です」
「ふうん、星くんか。良い名前だね。連れの彼女は?」
「桃子、ちゃんです」
反射的に、苗字ではなく名前を口にしてしまった。しかも、ちゃん付けした自分が、特に理由はないが、なんだか恥ずかしい。
「長いの?」
「は?」
いきなりのプライベートな質問に、俺は横目で男の顔を睨んだ。
それでも、斉藤さんは糸目をゆるませたまま、静かな笑みを絶やすことはなかった。
「付き合って、長いの?」
「……僕ら、そういう関係じゃないんで」
自然と口がとんがっていく。どんな関係かなんて、俺が聞きたいくらいだ。
「そっか。でも、なんだか楽しそうだね」
と言って、斉藤さんは陽気に笑った。
馬鹿にしているのではなく、純粋に「それって青春だね。いいね」と言いたいのだろう。悪意がないことは、俺にも伝わっている。
しかし、俺と桃子の年齢は、四捨五入すれば二十歳だ。マリエもそうだが、制服を着ているだけで、子供扱いするのは勘弁して欲しい。
「ねえ、君はどう思う?」
空気を察したのか、斉藤さんは話題を変えてきた。
「何をですか?」
「ほら、あの噂だよ」
またか、と思うと、うっかり舌打ちしそうになった。誰も彼もが、あの話をしたがる。
都市伝説などを話題に持ち出して、やっぱり子供扱いしているに違いない。間を埋めるために、子供の好きそうな話をしているのだろう。
「もしも、その噂のさ、なんでも願い事を叶えてくれる、っていう神様がいるとしたら、星くんは会ってみたいと思わない?」
あってたまるものか、というのが正直な感想だ。噂どおりなら、そんな都合の良い神は、悪い奴と相場は決まっている。受け取った代償に、必ず何か大事なものを奪われるのが落ちだ。
「まあ……会えるなら、会ってみたい、かな? よく分かんないですけど……でも、いるわけないですよ」
「うん。星くんの言うとおり、いないかもしれない。でも、いるかもしれない。この世に不思議なことはたくさんあるし、奇跡、なんて言葉も存在するくらいだ。この噂も、あながち嘘じゃないかもしれないよ」
斉藤さんは、本当に楽しそうに笑った。この胡散くさい詐欺師のようなムードは、どこか海斗を思い出す。
「あらら、雨が降りそうだ」
言葉に釣られて、俺も空を見上げた。空に明るさは残っているが、確かに一雨きそうだ。
その時、店の奥から、ドアが閉まる音がした。
顔を向けると、桃子が小走りで戻ってきた。
桃子は俺に苦笑して見せたかと思うと、すぐに斉藤さんに向き直り、目をパチパチさせながら、ぴょこんと頭を下げた。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
にっこりと、斉藤さんが返す。
「お帰り。すっきりした?」
俺の言い方が悪かったのか、桃子がちょっとムッとした。
「お待たせしました。アオタくんも、お借りしたら?」
目つきも悪いし、なんと刺々しい言い方だろう。だが、悪くない。新しい一面を知れた気がして、俺の口角が珍しく上がった。
桃子のむくれた顔を見ていると、輪郭のあたりの髪が濡れていることに気づいた。
「っていうか、顔、洗った?」
「そうよ! だって……汗でベタベタしてたから!」
何故、そんなに喧嘩腰なんだよ。と思いながら、怒った顔も可愛くて、色々ゆるんで、今、俺はだらしない顔をしている。
「なるほどね。ま、俺もベタベタかな」
「うん、テカってる」
桃子が笑った。
どれどれ、と確認しようと、自分のほっぺたを触ってギョッとした。湿気と汗を混ぜた油が、ぺっとりと顔中に塗られているみたいだ。
俺は「うわっ、キモっ」と小さく叫んだ。
「洗ってきたら? すっきりするよー」
桃子の提案はもっともだと、俺も洗面所を借りることにした。
斉藤さんは俺に聞かれる前に、「どうぞどうぞ」と言ってくれたので、すぐに店に飛び込んだ。
「あ、そうだった」
すぐ入り口に、薄いピンク色の電話が目に入った。おかげで、すっかり忘れていた海斗との約束を思い出した。ファミレスから電話しようと考えていたが、出来る時にやっておくのが、この世界の流儀。
戸口から外に顔を覗かせ、桃子と歓談中の斉藤に声を掛ける。
「すみませーん、電話もいいです?」
「いいよ。小銭は持ってる?」
「はい」
少し天気も気になっていたから、用事を手早く済ませようと、早速、店の中に飛び込んだ。
店の一番奥に、トイレはあった。入り口に、小さな洗面台を見つけて、ちょっと顔がニヤけた。
水道から勢いよく流れてくる水に両手を突っ込み、バシャバシャと顔を洗う。
サッパリした俺は、備え付けのペーパータオルを2、3枚つかんで、顔や首の水分を拭き取ると、自然と気の抜けた声が漏れてくる。
次は思い出したように、トイレに入り用を足した。
おかげさまで、電話台の前に戻ってきた時には、気持ちまでリラックスしていた。
それにしても、公園にあった公衆電話は緑だった。でも、このバーにある目の前の電話は、ピンク色だ。何か仕様が違うのだろうか? 見る限り、性能に差はなさそうだ。
そこで、ふと閃いた。
「あ、そっか。ここがバーだからか。なるほど、雰囲気を出してんだな」
あくまで個人の見解です。
すっかりリフレッシュした俺は、鼻歌まじりにパンツの後ろポケットに手をつっこんだ。万札が入った財布の中から、あるだけの小銭を電話の上に重ねて準備する。
受話器を取り上げ、ご挨拶がわりに十円玉を何枚か穴に入れた。受話器を上げて耳に当てると、気持ちが切り変わり、少しだけ緊張が走る。
「……雅次郎、出てくんなよ」
電話越しに、口喧嘩はごめんだ。
祈るような気持ちで、プッシュ式のダイヤルをポチポチと押していく。じいさんの家の番号だけは、なんとか覚えていたのでセーフ。
受話器を握る手に、妙な汗がにじんできた。
ガチャでも回している気分だ。
出てこい!
「もしもし、海斗?」
一拍おいて、溜息混じりの声が聞こえた。
「そうだけど」
冷ややかな声。海斗らしい嫌味な声を聞いて、俺は胸をなでおろした。
「良かった、雅次郎じゃなくて」
「雅次郎くんは昼寝中」
「昼寝かよ。のんきなもんだな」
「青葉くんは、どこで、何してるんですかね」
「無事、桃子をクソ兄貴から奪還し、現在、逃走中であります」
こんな猿芝居では、海斗は笑ったりしない。苦々しい顔で、眼鏡のブリッジを上げている姿が、俺には容易に想像できる。
「こうして電話してんだからさ、別にいいだろ。予定とはだいぶん違うけど」
「僕は責めてないよ」
この全く色のない言い方が、すでに俺を責めているとしか思えない。
俺は、子供がイタズラの言い訳でもするように、ふてくされ気味に釈明を始めた。
「お前たちと別れた後にさ。腹が減って、駅前のドーナツ屋に行ったんだ。そこで桃子に会った、ってわけ。というか、見かけた。偶然だけどな」
「砂上さんを連れて逃げるはめになった原因は?」
「さくっと、話します」
「はい、どうぞ」
「じゃあ……ドーナツ屋に寄ったところからだな」
そう、偶然入った駅前のドーナツ屋で、俺は桃子に遭遇した。
縦長の店内には、ショーケースに沿うように、長い列が出来上がっていた。レジは店のちょうど真ん中辺りにあり、先頭の客が清算を行なっている。俺は十番手くらいだった。
待っている間に、ガラスケースを覗き込んで、何を食べようか、と商品の物色するのは楽しかった。財源は確保済み、となれば、選び放題である。
あらかたオーダーを決めると、次はドリンクだ。屈めていた体を起こし、壁の上方に表示されているメニューに目を凝らした。
「メロンソーダか。アリだな」
あとは注文するだけとなり、店内をぐるりと見まわしてみると、一人客は少ないようだった。
ちょうど前に並ぶ二人組も、恐らくカップルだろう。
醜い男の嫉妬から、密かに嘲笑するつもりで、小さく鼻を鳴らした。青春疾走系のロックなBGMと、客たちの談笑で賑わう店内では、聞こえるはずがない。
と、俺は一人ほくそ笑んだ。
ここまで話したところで、海斗の直球がアウトローにビシッと決まる。
「メロンソーダのくだり。アレはいらない」
海斗が平坦な口調で、優しさの欠片もなく口を挟んできた。
「いいから、黙って聞けよ……」
「それで? 何かヤバい決定的瞬間でも見たわけ?」
「そう! いや、どうかな……」
自信はないが、感じたままで言えば、直感を見過ごすことは出来ない事象だった。上手く伝えられない、もどかしさが残る。当事者でもない海斗からすれば、意味が分からないのも仕方ない。
「なんだそれ」
でも、海斗はクスクスと笑った。
何故か、俺は少しホッとする。
読んでいただき、ありがとうございます。
1−2日ごとには、更新していきたいな、と思っています。




