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交換日記は下駄箱の中に  作者: くにたりん
第2部
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第4話 帰ってきたよ

 集中治療室のフロアは広く、真ん中に360度見渡せるカウンターがある。カウンターの中では看護師たちが、たくさんあるモニターを見ながら、患者の様子を伺っていた。


 カーテンで仕切られた隣のベッドには、まだ若い女が眠っている。その向こうにも、誰かが眠っている。この中で一番、死に近いのは父さんかもしれない。


「青葉、雪葉――」


 名前を呼ばれ、顔を伏せたまま振り返る。鼻をすすりながら、マリエが俺と雪葉の肩を強く抱き寄せた。


「二人は本当に、よく頑張ったね。しっかりした二人を見て、お父さんは喜んでるんじゃないかな」


 マリエはゴクリと息を飲み込んだ。


「あのね――どちらを選んでも、間違いじゃないから」


 モニターが示す心拍数も、酸素量も安定している。なのに、今この瞬間にも、アラームが鳴るかもしれない。細かに変動する数字を見つめていると、目の奥がひどく熱くなっていく。


 規則正しく、ピ、ピ、ピ、という電子音の響きに、心を砕かれそうだ。


 ちょっと気弱に笑う、優しかった父さんの顔が頭に浮かんでくる。


 どちらも辛い選択になるに違いない。ならば、俺が選ぶことで、救えるものもあるかもしれない。


「なあ、雪葉……兄ちゃん、決めたぞ」


「……うん」


「延命しない」


 雪葉のしゃくりあげる声が大きくなる。


 ベッドに近づき、俺は布団の中に手を突っ込んだ。


 足は速い方だから、と父さんが自慢していたことを思い出す。投げ出された脹脛ふくらはぎの筋肉はげ落ち、小枝のように細くなっていた。


 それでも、温かい。


 この温もりが完全に消えるまで、何もせずに待っていられるだろうか。最後は、父さんの死を待つだけになるとは、これっぽっちも考えていなかった。


 震える雪葉の肩を引き寄せ、ポロポロと大粒の涙を流す瞳を覗き込んだ。


 絞り出すように、俺は言葉を継いだ。


「どんな形でも――この世に居てくれたら、って……思ったんだけどさ……父さん、頑張ったよな? もう十分だろ」


 声が震えて、どうしようもない。


「次にアラームがなったら……だから、まだ泣くなよ」


 延命処置を拒否する意思を先生に伝えて、本当にすぐのことだった。それが合図だったかのように、甲高いアラームがフロアに響き渡る。


 別れを惜しむように、ゆっくりとモニターの数字は徐々にゼロに戻り、父さんは何も言わず、眠るように逝ってしまった。


 一本調子の電子音が鳴る中、俺は声が枯れるほど、初めて父さんに謝り続けた。でも、遅かった。


 それからはベルトコンベアーに乗るように、火葬場までスムーズに事が進むもんだから驚いた。ちょうど坊さんも、火葬場もスケジュールが空いていた。


 極小の葬儀は終わった。


 今は晴れやかな空の下、荼毘だびで眠る父さんが、ちょうど火葬されている。人が骨になるまで、一、二時間は掛かるらしい。


 巨大な庭を突っ切るように続く廊下の先には、広々とした待合室がある。吹き抜けの高い天井の下に、いくつもの家族が、その時を待っていた。


 中に入る気になれず、待合室の扉の前で立ち止まる。


 ふと見遣った庭園の草木は、初夏の風に揺れて気持ち良さそうだ。俺は扉から手を離し、庭に出てみることにした。


 この季節に制服のブレザーは暑い。歩いているだけで、薄っすらと額に汗がにじむ。パンツの前ポケットに両腕をつっこみ、眩しいほどの晴天を見上げた。


 堪えていたものが、目に溢れてくる。


「……兄ちゃん」


 雑に目元を拭ってから、不愛想に振り返った。


「なんだよ……まだ、時間あるだろ」


「うん」


「どうした?」


「……これから、僕たちどうなるの?」


「どうって……父さんの保険もちょっとはあるし、お前は心配しなくていいよ。大学までちゃんと行かせてやる。俺は来年から働くし」


「そうじゃなくて……そうじゃなくてさ」


「二人っきりなんだ、お前も俺も、頑張るしかないだろ」


「そりゃ頑張るけど……」


 それっきり雪葉は目を伏せて、口をつぐんでしまった。


 これは勝手な思い込みだと分かっている。それでも、何故だか雪葉に責められている気がして。


「あのなぁ、他に何があるって言うんだよ」


 俺は、つくづく性悪だと思う。


 余裕がなくなると、湧いてくる苛立ちをそのまま、言葉にも態度にも出してしまう。そうして、大事な人をいつも悲しませるんだ。そんな自分に反吐へどが出る。


 溜息は何度も吐き出すもんじゃない。体から魂がちょっとずつ抜けていくような気分になる。


 帰りのタクシーの中では、雪葉が父さんの遺影を持ち、俺が膝に骨壷を抱えることになった。


 終わってしまうと、呆気ないものだ。


 父さんと向き合えた時間は、たったの半年。それも、相手は会話もできず、喜怒哀楽まで失っていた。少しは俺の懺悔する気持ち、愛おしむ気持ちは伝わっただろうか。


 もっと早くに向き合えていたら、そう思わずにいられない。


 思考がぐるぐると堂々巡りしている間、渋滞もなくスイスイときたおかげで、火葬場から三十分ほどで、マンションが見えてきた。


 小さな壺に納まった父さんが入った桐箱に顔を近づけ、俺は「帰ってきたよ」と囁いた。聞こえているといいけど。


 助手席に座っていたマリエも、黒いハンドバックからスマホを取り出すと、どこかに電話を掛け始めた。


「星です。あ、はい。終わりました。ええ、もうすぐ家に着くので、いつでもいらしてください」


 用件が終わったらしく、マリエはバックにスマホをしまった。


「ねえねえ、マリエさん。誰を呼んだの?」


 雪葉の問いかけに、マリエは助手席から身を乗り出すと、俺たちを見てニッコリ笑った。


「葬儀屋さんに来てもらってね、家に祭壇を作ってもらうのよ」


 笑って話すことか、と悪態をつきたくなったが、グッと飲み込んだ。今日は色々と飲み込みすぎて、気分が悪い。


 こんな俺に抱えられている父さんも、良い気分にはなれないだろうな。


 帰宅すると、雪葉とマリエは楽しげに話しながら、祭壇に飾る花を活けたり、備える果物の位置を相談し合ったりしている。


 やることのない俺は、自室にこもることにした。用事があれば声を掛けてくるだろう。


 部屋の前までくると、パンツのポケットの中でスマホが震えた。


 スマホを取り出して、画面を覗いて見ると、奴らだった。定時連絡と言って、ちょくちょく連絡してくる。


 適当にスタンプで返事を濁していたが。


「まあ、言っとかないとな」


 というか、誰かと話がしたかっただけかもしれない。つかさず、俺は父さんの葬儀があったことを、報告としてグループチャットに送信した。


 秒で画面が光った。


「あいつ……速いな」


 と呟きながら、スマホをポケットにしまい、部屋のドアノブに手を掛けた。ごく普通に、いつもどおりに。

読んでいただきありがとうございます。

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