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金魚

作者: 新界徹志

金魚


弘法さんの縁日には参道脇にずらりと市が立つ。裸電球をぶら下げた露天が軒を連ね、行き交う人の群れが通りを賑わす。

信心などわずかも持ち合わせないミチルだが、縁日になると無性に心が沸き立ち、ついついお寺まで足が向いてしまう。

いつもなら、仲の良い友人と連れ立ってくるのだが、今日に限って、連れ添う相手がいない。淋しい思いもあったが、ミチルにはかねてより描いていた計画があった。と言っても大したことではない。

それは縁日で金魚すくいをすることだった。

ミチルはこれまで一度も金魚すくいというものをしたことがない。金魚すくいくらいはしようと思えば、その機会はいくらでもあった。だが、ミチルのささやかなプライドがそれを許さなかったのだ。

ミチルは金魚すくいなどというものは簡単にできるものと思い込んでいた。何故とは言えぬが、その自信があった。しかし、その自信があるだけに、もし人前で上手くできなかったら、などと考えてしまうのだ。たかが金魚すくいといえども、ミチルにとっては大切なことであった。初めて拳玉をした時、サラリと皿に玉を乗っけた、あの時の感触が忘れられない。コマ回しも教えて貰ってすぐに上達した。自転車は友達の中で真っ先に乗れるようになった。

金魚すくいもそれらと同じように、自分には朝飯前くらいに思えるのだが、万一にも一匹たりともすくえなかったらと思うと、人前でするのにはどうも臆してしまうのだ。

ミチルは金魚すくいの前で足を止め、ポイを片手にしゃがみ込む小学生の頭越しに水槽の中を覗き込んだ。黄色や黒の小さな体をうねらせながら、水槽の中を縦横無尽に動き回る金魚の群れを追って子供らが必死でポイを動かすのを眺めているうちに、ミチルは自分もやってみたくなった。

ミチルは辺りを見回し、見知った顔がいないのを確かめると、露天の親父さんにポイをひとつ注文した。初めての金魚すくい、ミチルは少し緊張しながら、狙いをつけた金魚目がけて勢いよくポイを水に浸けた。その途端にポイの端っこが破けた。「しまった」と思いつつ、金魚の後を追ううちにポイはすっかり破けて使い物にならなくなった。

ミチルは親父さんにもう一つポイを注文した。

今度は失敗するまいと、気持ちを落ち着け、そっとポイを水に浸け、金魚を追ったが、またもやすぐに破けてしまった。

ミチルはまたポイを注文したが、それもまた失敗に終わった。ミチルは懲りずに、四枚目、五枚目と注文していったが、どれもうまくいかなかった。ミチルは段々意地になってきて、財布の中身を気に掛けながら、次々にポイを注文していったが、何度やっても結果は同じだった。

焦ってきたミチルは、俯き加減のままそっと左右を見渡した。そしてボウルを水槽の縁にそっと引き寄せて行き、金魚を追い詰めていった。ボウルを少し沈め、その中に金魚を流し込もうとした、その時、

「ちょっと、お姉ちゃん、ズルしちゃいけないよ。」

店の親父さんがたしなめた。

ミチルはバツが悪そうにボウルから手を放すと、ボウルは波に乗って横の方に流されて行った。

「一匹も取れないのかい。」

ミチルのボウルを受け止めて、隣に座っていた男が言った。

「ほうら、こんな風にすれば良いんだよ。」

と言って、男は自分のポイを水の中に差し出し、軽々と金魚をすくった。続けて、二匹、三匹とすくってミチルのボウルの中に放り込んだ。ポイを扱う男の手際は鮮やかだった。みるみるうちに、一つのポイで六匹の金魚をすくい上げ、ボウルをミチルの元に戻した。

ミチルは


家に帰るとミチルは台所で夕餉ゆうげの支度をする母に向かって、縁日での出来事を話した。母は、ガスコンロに向かいながら、背中で聞こえる娘の話に耳を傾けた。

「それで結局、あんたは一匹も取れなかったってわけ。」

「うん、思ったより難しかった。」

「そうでしょ。金魚すくいだってコツはあるんだから。」

「甘く見てたな。」

「ははは、そりゃそうよ。あんたは自信家だから何でも簡単にできちゃいそうに考えるけど、そんなものじゃないわよ、世の中って。」

「何よ、金魚すくいくらいで、そんな大層に言わないでよ。たかが金魚すくいじゃない。」

「たかがって、あんた、一匹もすくえなかったんでしょ。」

母はからかうように言った。そのうち、クスクスと笑い出した。馬鹿にされたと思ったミチルは、不機嫌そうに

「お母さん、そんなに笑わなくったって。」

と言った。

「ううん、違うの。」

「違うって、何が。」

「あのね、あんた、やっぱり私の血を引いてるんだな、って可笑しくなったの。」

「どういうこと?」

「ふ、ふ、いえ、ね。お母さんも昔、似たようなことがあってね。それも弘法さんの縁日だったわ。金魚すくいをやったんだけど、やっぱり、ちっともすくえなくて、意地になればなるほど、余計にすくえないのよね。」

「それ、わかる。」

「でしょ。それで『今度こそは』とじっと水槽を眺めてたの。そしたらさ、隣にしゃがんでた男の人が軽々と何匹もすくい上げるの。それ見て、『すごいなあ』って思って、思わず、『どうしたらそんなに上手くすくえるんですか』って聞いたの。男の人に声を掛けたことなんかなかったのに、それくらい夢中だったのね。すると、その人が、ポイを握った私の手を取って、水槽に入れて、浮かすようにしながら、金魚をすくってボウルに入れたの。『あ、取れた。』って驚いて言ったの。『え、え、今のどうなったんですか。』って聞くと、その人がね、また私の手を取って、『もう一度やってみるから、感覚で覚えてね』って優しく言って、水の上を滑らせるようにしたの。そしたら、また簡単にすくえたの。嬉しかったわ。『もう一度だけお願いします。』って言ったら、気持ちよく教えてくれたの。そんなことを何度か繰り返して、そのうちとうとうポイが破れちゃったんだけどね、ボウルの中には十匹くらいは入ってたんじゃないかしら。『ありがとうございます。』礼を言うと、『どう致しまして、今度は自分でやってご覧。』と言うのでね、新しいポイを買ったの。しっかりコツを身に付けたつもりだったから、簡単そうに思えたんだけど、やっぱり、金魚に触れた途端に破けちゃったの。もう一枚ポイを買ってみたけど、同じだった。流石に、もういいや、って気になって諦めたの。それに金魚はたくさん手に入れたしね。それで店のおじさんにボウルの金魚を袋に入れて貰って、隣の男の人にもお礼を言ったの。私が立ち上がると、その人も立ち上がったの。そしたら、その人、思ったより長身でね、そっと舐めるように腰から上へと目を移していくと、これがなかなかの美男子だったの。今で言うイケメンね。ドギマギして、『あの、ご親切にありがとうございました。』って言うのがやっとだった。その人、『いいえ、どういたしまして。』って笑みを浮かべながら言うの。右頬に笑窪なんか浮かべてね。それを見たら、胸がキュンとして、そのまま『さよなら』って逃げるようにしてその場から離れちゃったの。」

「へえ、勿体ないな。私だったら、名前くらい聞くのに。その人も一人だったんでしょ。」

「さあ、もしかしたら連れはいたかも知れないけど、そこじゃ一人だったわね。」

「それならアタックしちゃえば良かったのに、『他の店も回ってみませんか』なんて言ってさ。」

「そんなことできっこないわよ。あんたと一緒にしないで。」

母に言われて、ミチルは考えてみた。ミチルは惚れやすい質である。好きな男子が現れると、その度にそのことを母に話す。どれだけ夢中かとか、誕生日に何を送ろうかとか、熱にうかされたように取り留めもなく話すのだが、これまで一度だって実行したことがない。そのうち、恋が冷めるか、別の新しい恋に移ってしまう。ミチルは勝ち気でおしゃまに見えるが、意外に引っ込み思案なところがある。特に恋愛に関しては臆病なのだ。それを自分でも知っているから、余計、自分を勇気づけるために母に話してみたりするのだ。

「それっきりだったのね。」

ミチルは訊いた。

「それが、不思議なものね。その翌々日だったか、もう少し日が経ってたか。昔のことだから忘れちゃったけど、駅前の本屋でバッタリ出くわしたの。と言っても、あちらは私の事は覚えてなかったんだけどね。本を選んでる彼を見かけて、そっと歩み寄っていったの。『先日はどうもありがとうございます。』知らぬ間にそんな言葉が口をついて出ちゃったの。私も驚いたわ。でも、その人、きょとんとした顔で私を見るのね。それで、『先日、縁日の金魚すくいでお世話になって、、。』そしたら、『ああ、あの時の、、』って。『高校生だったんだね。』って私の制服を見て言うから、『ええ』って返事したの。それだけ。それだけで、彼は『じゃ』って手に取った本を持ってレジに行って、その日はそれでおしまい。」

「その日は、って、その後もまた会ったの。」

「うん、それから、ちょくちょくその本屋や駅で出会うようになってね。会釈くらいはするようになったのよ。多分、それまでからお互い、顔を合わせてたんだと思うけど、意識もしていなかったから気付かなかったのね。」

菜箸で鍋の中を掻き回す母の手が止まった。その背中は、何処か遠くを見ているようにミチルには映った。今更、昔のことを掘り起こすようなことはしたくない、ミチルはそう考え口を噤んだ。ミチルの気遣いにも拘わらず、母はさらに続けた。

「ある日、通学で同じ電車に乗り合わせたの。しかも私のたっている隣に彼が立っていたの。満員電車で私の肩と彼の腕が触れる、と言うより押し合うようになってね。恥ずかしくて、多分、顔が真っ赤になってたと思うの。」

「それ、分かるな。私も経験あるもの。」

「電車に乗っている間、ずっとそんな状態で、真っ赤になった顔を彼に気付かれないように俯いたままだったのね。駅に着いて、私の方は先に下りたの。そのまま彼は乗っていったんだけど、下りてから肩の辺りをさすって嬉しいやら恥ずかしいやら。」

初心うぶだったんだね。」

「何よ、親をからかうものじゃないわよ。」

母は後ろを振り向き、睨み付けるような表情をしたが、ミチルと目が合って、互いに笑った。

「ホント、不思議なことってあるのよね。その日、学校から帰る時に電車に乗ったらね。彼が乗ってたの。その隣が空いていたから、申し訳なさそうに座ると、今度は彼の方から『いつもこんな時間に帰るの。』と訊ねてきてね。『いいえ、いつもは部活でもっと遅いんですが、今はテスト前なので。』って答えてね。それから駅に着くまでずっと話したのよ。

『あの時の金魚はどうしたの』って訊かれて、『ちゃんと元気にしています。』って答えたの。そしたら、『へえ、すごいね。僕なんか三日くらいで死なせてしまったよ。』って言ったの。お母さんさ、子供の頃から、何でも飼うのが上手みたいでさ、縁日で買ったひよこも成長して鶏になったの。卵をたくさん産んでくれて『助かったわ』なんてお婆ちゃんが良く言ってたの。それからも電車で会うことが多くなって、その度に、『金魚は』って訊かれるようになったの。お陰さんで金魚は元気に生きてて、どんどん大きくなって、そのうち金魚鉢には収まりきらなくなって、それで別の水槽に移したの。随分、長生きだったわ。」

「え、もしかして、裏の池にいる鮒みたいにでっかい奴?」

ミチルは驚いて言った。

「何言ってんの。そんな訳ないじゃない。二十年以上も昔の話よ。大体、あれはあんたが中二の時に、弘法さんに行った時、友達から貰って来たものじゃない。」

「あ、そうか。忘れてた。」

「そんなことだと思った。そこはあんた、私と違って、ルーズなのよね。でもね、裏の金魚を見ても分かると思うけど、お母さん、面倒見が良いのかしら、育てるが上手なのよね。だから、あの時の金魚も八年くらい生きてたんじゃないかしら。」

「へえ、長生きだったんだね。」

「よく言うわね。さっき、裏の金魚がそれだったの、なんて訊いたくせに。」

「へ、へ。」

話しているうちに料理が仕上がり、母に言われてミチルは食器棚から皿を取り出した。

「ねえ、お母さん、それからその人とはどうなったの。」

ミチルは興味本位で訊いてみた。

「ただいま−。」

そう言ってドアの開く音がした。一家の主、ミチルの父が帰ってきたのだ。

「シー、お父さんにはこの話は内緒よ。」

母は人差し指をミチルの口に押し付けて言った。ミチルもそんな子供ではない。母の恋話こいばなしを簡単に父の前で話すようなつもりなどなかった。

「おーい。こんな処に金魚の袋を置きっぱなしにしちゃ駄目じゃないか。」

父は玄関の傘掛けの柄に掛けたままにしておいた金魚の袋を手に取ると、部屋に持って入ってきた。

「弘法さんに行って来たのか。誰だ。こんなに沢山すくって、大したもんじゃないか。」

「あ、それ私。でも自分ですくったんじゃないんだ。他人ひとから貰ったの。」

「ふーん。」

父は気のない返事をした。

「母さんじゃないとは思った。昔から下手だったものな。ポイを無駄にするだけだからな。でも、ミチルも同じか。やっぱり母さんの血を引いたんだな。」

そう言ってニンマリする父の頬に浮かんだ笑窪とも覚しき一本の筋。

ミチルは母の顔をそっと見、ニッコリ微笑んだ。

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