こひはさめるもの
カランコロン。
扉を開くと軽やかな音が喫茶店に響く。
「いらっしゃいませ」
一歩中に入ると、店員が近づいてきた。
にこっと笑う店員に待ち合わせだと告げると、奥の方で人が動いた。目を向けると、待ち合わせ相手が手招きしていた。
懐かしい姿に思わず頬が緩む。
少し早足になりながら彼の方へ向かうと、彼の前に空のカップと文庫本があるのに気づいた。
しまったと心の中で呟く。彼が早めに来ることは人柄からわかっていたが、飲み終えるほど待たせてしまっていたとは思わなかった。
もう少し早く家を出ればよかったと思いながら彼の向かいに座って、ホットコーヒーと彼のお代わりを注文する。
完璧な笑顔を浮かべた店員を見送ると、彼と目があって固まった。
記憶の中の彼よりもずっと大人びていて戸惑う。
前は眼鏡をしていたのに、今はコンタクトで顔がしっかり見える。
垢抜けた服装もきちんと整えられた髪型も、私が知っている彼とは全く違っていた。
「あ、えと、その、待たせてしまってすみません」
何とか口を開くが言葉に詰まってしまった。
会うのが久しぶりで緊張しているのもある。けれど、今目の前にいる彼はまるで知らない人で、何を言えばいいのかわからなかった。
「いや、僕が早めに来ただけだから、気にすることはないよ」
でも聞こえてきた声は、私が知っているものだった。淡々と話す声は穏やかで落ち着いている。
一つ、記憶と同じところを見つけると、もう知らない人だとは思わなかった。
私を見る目は眼鏡越しだった時と変わらず優しい。コーヒーが好きなところも、本をいつも持ち歩いているところも、変わっていない。
緊張していた心がほどけるのがわかった。
「お久しぶりです、先輩。元気そうで何よりです」
さっきより普通に話せて、自然と笑顔になれた。
せっかく彼と会えたのだから、いつまでも緊張なんてしてられない。彼との時間を大事にしなくては。
「うん、君も元気そうでよかった」
彼はふんわりと微笑んで言う。
あまり表情が変わらない彼の笑顔はとても貴重だ。見れた日は良いことがあると言われていたくらいに。
綺麗だったからもっと見たかったと、彼と会えなくなってから何度も思い出しては思った。
「お待たせしました」
彼の笑顔に見惚れていると、店員がコーヒーを持ってきた。
湯気の立つカップをテーブルに置き、空いているカップにコーヒーを注ぐ。ふわっと香る匂いに気分が良くなる。
ちらっと彼を見ると、少し口角が上がっていた。
はっと慌てて店員を見上げるが、コーヒーを注ぐことに集中しているようで彼を見ていなかった。
それにほっとして、彼に視線を戻すと笑顔は消えていつもの無表情になっていた。
店員に彼の笑顔を見られなかったのはよかったが、私が見れないのは残念だ。
久々なのだからもっと笑顔が見たい。私だけに笑っていてほしい。
なんて、私にそんな権利も何もないのだけれど。私は彼の後輩でしかないのだ。
そっとカップを持ち上げてコーヒーを飲む。
「ふう」
苦い。甘党の私にとってコーヒーはとても苦いものだ。
でも美味しいと思えるくらいには飲み慣れてしまった。
それが何故か、この目の前の彼は知らないのだろう。
私が呼び出した理由も、私がもっと笑顔を見たいと思っていることも知らないのだ。
彼は周りからどう思われているか、あまり気にしていない人だ。そんなところも好ましいと思っているが、今は憎らしかった。
美味しそうにコーヒーを飲んで、全くわかっていない。
なんだか苛々してきた。本当に彼はわかってない。
そんな真っ直ぐな目で見てきても知らないことに変わりは……
「大丈夫か?」
「うわ!」
気付けば彼が顔を覗き込んでいて、大声を出してしまった。店にいる人から迷惑そうな視線を感じる。彼も胡乱げな目をしていて、あははと誤魔化し笑いをした。
今この時間はとても貴重なのに、私は何をしているのだろうか。
彼が知らないことなんて、とっくにわかっている。何も言っていないのにわかってほしいなんて我儘だ。
ぐっと熱いコーヒーを飲んで、気分を入れ替える。
心配そうに見てくる彼に笑いかけると、彼は少し頬を緩めてカップを傾けた。
彼はコーヒーを味合うように飲む。本当にコーヒーが好きなんだと思う。
「今更だけど、お代わりありがとう」
彼はいつも無表情だ。でも目はとても表情豊かだ。
温かくて優しくて、その目で見られるとぽかぽかと胸のあたりが暖かくなる。
体温が上がったのはきっとコーヒーだけのせいじゃない。
「一人で飲むのは嫌ですから」
気恥ずかしくて目を逸らしてまた一口飲む。
何だかさっきよりも美味しく感じる。
その理由を考えて、さらに体温が上がった気がする。
ちらっと彼を窺うと、じっと私を見つめていた。
「せ、先輩、どうかしました?」
どきりと動く心臓を抑える。
これ以上体温を上げるのは止めておきたい。熱を出して別れるなんて最悪だ。
「ん、いや」
彼は首を傾げて、不思議そうに私の手元を見た。
視線を下げると、まだ少し湯気を立てるコーヒーのカップがある。黒い水面は照明の光を反射していた。
「君は、前からブラックで飲んでいたか?」
ちらりとテーブルの上のミルクと砂糖を戸惑ったように見て彼は言う。
ミルクの入った白い陶器は、このテーブルに置かれてから動いていなかった。角砂糖の数も変わっていない。
「ああ、前はミルク入れてましたよ。砂糖も少し。でも最近は無しで飲んでます」
本来私は甘党なのだ。ミルクを入れても砂糖を加えてもコーヒーは苦い。
そんな私がブラックを美味しいと飲めるようになったのは、彼のせい。
一日に三杯以上飲むコーヒー好きで、カフェイン中毒でもあった彼がとても美味しそうに飲んでいたから。
彼の無表情が一番崩れやすくなるのはコーヒーを飲んでいる時だったから。
コーヒーをゆっくりと飲んでみせると、彼は驚いたように目を丸くした。
それに気分を良くして、いたずらっぽく笑いかける。
「ブラックも美味しいですね、先輩」
「いつの間にそんな飲むようになったんだか……」
呆れたように溜息をついて彼は眩しそうに目を細めた。
その目が優しいのはいつものことだったが、どこか寂しそうにも見えた。
でもすぐに消えて見えなくなった。
「そういえば、話したいことがたくさんあるんだろう。僕で良ければ聞くから」
彼は頬杖をつくと私をじっと見つめて言った。
さっき少し見えた表情が気になったが、本当に一瞬のことだったから気のせいだったのかもしれない。
今はもういつもの無表情だ。
「言いましたね、先輩。満足するまで聞いてもらいますよ」
ぐいっと身を乗り出すと、彼はふんわりと微笑んで頷いた。
最近読んだ本に好きな作家さん。
お薦めの映画やドラマ、歌。
最近あったこと。会っていない間に起こったこと。たくさん話をした。
将来のことを相談すると、彼は真剣に考えてくれた。
彼は見た目は変わっていたが、中身は何も変わっていない。
彼の無表情を見て、冷たい人だという人もいたがそんなことはない。優しくて温かい人だ。
こうして彼と向かいあってコーヒーを飲んでいると、自分は彼にとって特別な存在なのだと勘違いをしそうになる。
そんなことはないのに。
話に夢中になって、すっかり冷めたコーヒーを飲み干す。
コーヒーみたいに、この想いもさっさと冷めてしまえばいいのだ。
恋ではなく、憧れだったと言えるように。
そうすれば私はきっと前に進める。
空になったカップを皿に戻して、彼を見る。
彼は私のカップを見ると、自分のを飲み干した。
もうお別れなんだと悟る。
「あのさ」
彼は気まずそうに目を動かす。
少しは彼も別れを悲しく思っていてくれるのだろうか。
それだけでもう十分な気がした。
穏やかな気持ちで彼の言葉を待っていると、彼はゆっくりと口を開いた。
「お代わり、してもいいか?」
カップを持って彼は相変わらずの無表情で言う。
でも目は逸らされていた。
初めて店のBGMが大きく聞こえるようになった。
有名な曲をオルゴール風に変えているもので、喫茶店の雰囲気とよく合っている。
他の客が抑えた笑い声を上げた。
コーヒーを淹れる音と香りがする。
私が、はあと息を吐くと、彼はカップから手を離した。
「じゃあ、私もお代わりします」
私の言葉に彼は嬉しそうに目を輝かせた。
彼は本当にコーヒーが好きだ。
呆れるくらい、好きなのだ。
彼は店員にお代わりを頼むと、恥ずかしそうに少し微笑んだ。
そんな彼に笑い返す私も、私だ。
呆れるくらい、好きなんだ。
湯気を立てる熱いコーヒーに、冷めるのはまだまだ先そうだと心の中で呟く。
もう暫くこの想いを抱えていよう。
彼は何もわかってない、気付かない人だから、別にいいだろう。
ちらりと彼を見ると目が合う。
目と目を合わせて微笑みあうだけなのに、温かくて幸せなのはなんでだろうか。
幸せなのにとても悲しくて泣きそうで、でもやっぱり嬉しい。
情けない顔をして笑う私を、彼はとても優しい目で見ていた。
そんな風に彼との時間は過ぎて終わった。
去っていく彼の背中をぼんやりと眺めていると、話したいことや聞きたいことが次々と浮かんでくる。
コーヒーの美味しさを語ればよかった。
一人で飲むのもいいけど、誰かと飲むのも美味しい、特に先輩と飲むと美味しい、とか。
でもこれでよかったような気もする。
何故かはよくわからないけれど。
ただ確かなのは、私が彼を好きだということ。
冷める日が来るまで、ずっと。
彼の姿が見えなくなるまで見送って、私も歩き始めた。
その足取りは軽かった。