逃走中
RUN FOR YOUR LIFE
膨らみのある初夏の朝の日差しは、柔らかさを伴ってガラス越しに映える。僕はそれを駅の構内のベンチに座りながら浴びていた。
「真面目な人は、損だよね〜」
声が聞こえた。優しい声である。
「N高(校)の子でしょ?
彼処で髪、染めてないのは君ぐらいだよ」
見上げると可愛らしい私服に身を包まれた女の子が、顔を屈ませていた。この地域では私服の高校は進学校の証である。僕は制服。
「くそ真面目な人は、損だよね〜」
彼女は僅かに顔を覗かせる青空を見上げて言った。
僕は彼女に連れられて、学校とは反対方向の電車に乗った。学校を休んだのは、今日が初めてだった。皆勤だけが取り柄だったが、もはやそれをも失ってしまった。しかし僕が何故彼女に惹かれたのかは未だ謎のままである。
その日、初めてゲームセンターに立ち入った。やり方が分からず、彼女に教えてもらった。その日、初めてプリクラと云うものを撮った。笑顔の自然な作り方が分からなかった。その日、初めて…。その日、初めて…。
午後の気だるい空気を吸い込んだ公園で会話を交えた。元々僕は、くそ真面目しか取り柄のない人間だった。自分で云うものも何だが、やっぱりそれ以外は…(そっとしておいておくれ)。
「君はどうして僕のことを?」
昭和なベンチに座りながら、おつな事を聞く。
「覚えてない?
あなたが未だ中学生だったとき、道端で轢かれた猫を助けなかった?」
「ま、まさか…。その猫が…」
彼女は笑いながら応えた。(ちなみに、同級生だった事に後々気付く)
「違うってば、この妄想爆発こーこーせい。その時、一緒に手伝っていた暗い感じのメガネっ子、いたでしょ?」
「…。あ、思い出した」
「その時からかな、私が獣医を目指したのは。元々動物が好きだったし」
「兎に角、ひたすらに命を助けようとしたあなたに感動したの」
僕は照れてしまった。その頬を見詰め、一人にやける少女がいる。
「ねぇ、目を閉じて…」
こ、…これはもしや。妄想が爆発寸前。健全な男子高校生には願ってもな
「って、ちょっと」
彼女は私の左右の頬を摘まんで、ワイドに引っ張った。
拗ねる僕を尻目に、彼女の笑い声だけが公園にこだました。
それからの詳細について語るのは止めておく。僕達の毎日のとりとめもない触れ合いなんて、面白くないからだ。ただ、かなり親密な仲になった事は確かで、名前(彼女は睦美、僕は生都)でお互いを呼びあえるくらいに、距離は縮まったような気がする。
睦美の家に呼ばれていた時の事だった。彼女の部屋は質素ながら可愛らしさを兼ね備え、僕の妄想は更に…。しかし、現状はシリアスで、此処に来たのには二つの理由があった。一つは勉強を教えて貰う為、一つは彼女自身の悩みを聞いてあげる為である。
部屋には色んな物があった。
参考書、シャーペン、筆箱、ベッド、…。自分が変態化しないうちに歯止めを掛けようとしたその時の事である。
低い声が響いた。何事かと思って、そこまで駆け寄ると其処には深い闇があった。そこでは、彼女の叔父が眠っていた。いや、瀕死の状態だった。
驚くべきは、そこに包丁を持っていた睦美がいた事だ。
サスペンスドラマみたいに激しく綺麗な現場ではなく、日常を切り取った延長上のような(実際そうであるが)風景が其処にはあった。そうだ、叔父さんは眠っているに違いない。その文化包丁は先ほどまで魚かなにかを調理していて、驚き慌ててその柔らかい手で握って来たに、違いない。違いない。違いない。嗚呼、違いない。
目を覚ませ。しっかりしろ、生都、生都。今あることから、目をそらすな。
脈拍、極度の頻脈と断定(15秒計測)。確実に分換算100以上。
呼吸、微か。
全身6ヶ所を刺され、出血多量の重体。
恐らくもう助からない。睦美は精神的に錯乱し、いつ自殺を謀ろうとしても不思議ではない状態。この場において、冷静な現場処理能力の有るものは私のみ。
…私、のみ。
先に口を開いたのは、彼女だった。
「だって、叔父さんが…。何もしないから、って。
もう、嫌だった。おもちゃは、もう、いや…。
生都君。私、もう自首するか死ぬしかな…」
「睦美。僕を狂っていたことにしてくれ」
涙でくしゃくしゃになった彼女から、微かな声を抑し僕が言った言葉だった。
「さぁ、早く。文化包丁の指紋を[ある程度]拭き取って。これから、べっとりと僕の指紋を付ける。僕の物だった事にするんだ。いいかい、狂った僕が君の叔父さんを金目的で刺し殺し、君は凶器を奪った。無理が有るのなら、変更があっても対応できる」
「…だ、だめ、だよ。だって、生都君、何もしてないもん」
僕は絶望した。昔はひたすら闇雲に命を救おうとした男が、この様である。しかしまた、これもこれでしょうがないと思った。
「細かい目撃証言は任せた。僕は逃げる。僕は逃げねばならない。
あと、叔父さんの金庫の番号を教えてくれ」
「…そんな事、わ、分かんないよ」
「生年月日。いや、誕生日は?」
「10月…18日かな」
四桁の暗証番号を入力すると、そこには100万円弱の金額が入っていた。僕はただ無心にそれを取った。
「僕はこれから逃げる。さぁ、早く警察を呼ぶんだ。いや、救急車が先か、もしかしたら生きかえる事もなきにしもあらず」
僕たちはこれから起こる事の結末、罪の意識を肌で感じていたのかもしれない。彼女の吃音から僅かにもれる笑みが、事を生々しくさせた。
7月28日、普通の学生は訪れ始めたこれからの夏休みに、胸を高鳴らせていたはずの時期である。(一部の受験生を除く)
駅へ着いた。早急に、1番早い時刻の新幹線を探さなければならない。一刻も早くこの地域から脱出しなければならなかった。閉鎖空間となる前に。
荷物は最小限に抑えた。金は使ってもいいはずである。やはり気になるのはナンバーである。銀行員、という職業が順接に作用するかどうかは分からない(この場合、職業柄というのが順接。銀行の不条理さを知っている故にあえて金庫にコツコツ貯金した、というのが逆接。)が、使うしか選択肢は無いように思えた。
とりあえず、東京に行く事にした。やはりあそこはなにかと機転が利く場所である。長岡駅から東京駅まで(思いつきで降りられる様に少し余分目に)の切符を買う事にした。
新幹線に揺られながら、いろいろな事を考えた。勿論、思考にふけることができる精神状態でないことは認めるにおよばないが、それでも考える必要があった。
宿は取るべきか、取らざるべきか。何にせよ、警察に捕まった時点でゲームオーバーと考えるべきだ。深夜徘徊による補導で一発アウトになるのも恐ろしいが、宿を取って密告されるのも恐い。
そもそも新幹線に乗った事自体が間違いではないのか。
証拠過多。現場に指紋がべっとりと残った包丁を残し、現在逃走中の少年。あやしい。あやしすぎる。警察に自白文でも送ってみるか…。
似顔絵や顔写真の公開、非公開。ほぼ犯人確定とされていても、やはり僕は未成年。似顔絵がいいとこだろう。
これから、どうするべきか。どうするべきか。
結局都内まで乗ってしまった。はずれの方まで、田舎の方まで行って。やっぱり宿を取ろう。コスト削減のために、リスクを伴ってカプセルに泊まる必要はないと判断した。
バスに乗って、結局埼玉まで来てしまった。もう、何がなんだかわからない…。
どうにかして割と質素な旅館に付いた。空き部屋は思った通り、やはり存在した。
2階の突き当たって一番奥。
しまった。荷物が軽量過ぎた。動きやすさを重視するあまり、旅館では違和感となってしまった。風呂に入って、ろくに喉を通らない飯を食って、テレビを付けた。9時前。
8時代の番組と9時代の番組の合間にニュースが入った。ニュースは淡々と事実のみを伝えた。しかし、誰の目から見ても僕は犯人決定だった。
「今日午後二時頃、新潟県在住の銀行員の男性が胸部を6ヶ所刺されたとして通報があり、同三時搬送先の病院で死亡が確認されました。
殺害されたのは新潟県長岡市在住の銀行員 久留間 五十七 さん(41)
親類関係にあった 久留間 睦美さん(16)の通報により 事件が発覚しました。
睦美さんの証言によりますと、交際関係であった同級生の青木 生都さん(16)が金銭目的で五十七さんを殺害し、そのまま逃走した模様です。現場からは二人の指紋の付着した凶器と見られる包丁が見つかっており、五十七さんの金庫からは現金97万円が盗まれた形跡もあり、生都さんは現在行方が分からなくなっています。
警察は生都さんを重要参考人とし、事件を強盗殺人事件として捜査を進める方針です」
顔写真も似顔絵も公開されなかった。10時頃放送されたニュース番組で更に詳しく説明された。
僕の性格。出身高校。定番の、とてもそんなコトする人には見えませんでした発言。精神科医による精神分析。評論家による主張云々。やはり顔は出ない。偽名を使っているので、ひとまずの回避はなされた。
まるで僕はあたかも当事者ではないかのように、番組から情報を得る事が出来た。
チャンネルを回すとサスペンス番組が。僕はそれを視姦し、そして、どうしようも無く憤りを覚えた。
ここのような質素な旅館にも(徹底してないからかもしれないが)現代文明の礎、パーソナルコンピュータはあるもので。夏休みシーズンとはいえ、パソコン室には僕しかいない。一台のみなので些か助かった。インターネットにも繋げる事が出来た。
自分の名前をググってみる。ヒット件数が昨日と今日とでは雲泥の差だ。
ひとさら、目が覚めるのはこんな掲示板である。
「新潟県強盗殺人事件について犯人を晒し早期解決を促すスレッド」
氏名 青木 生都
職業 公立高校2年生
特徴 黒のズボンに黒いTシャツ
容疑 強盗目的で銀行員(41)を殺害
補足 現在逃走中
顔写真をうpしといた。両親が警察に提供したものらしいが、どこからか流出したのを漏れが使ってる。
2:名無しさん 7/28 21:30
犯人は今、何処にいると思う?
15:名無しさん 7/28 21:40
>>2。長岡からの行動範囲はたかが知れてる。せいぜい関東方面。捕まるのも時間の問題。
73:名無しさん 7/28 22:01
漏れも長岡に住んでいる銀行員。許せない。
90:名無しさん 7/28 22:07
この人、今日乗った新幹線で見た。確か東京駅で降りていた。腕組をしながら、何か考えてた。
…これを期にレスが激増している。
202:名無しさん 7/28 22:40
>>90 即刻警察へGO。
479:名無しさん 7/28 23:20
犯人は今、かなり精神的に追い詰められていると思う。今日だけでも、かなりの目撃情報があった。同じようなサイトが幾つもあった。
しかし、この書き込みを見てから眠気と疲労感がピークに達し、パソコン(窓98)を終了し部屋に戻った。何故だか、今日は深く眠れた。焦りが余計にそうさせたのかもしれない。
翌日、目が覚めたのは8時半頃。朝食を取って、シャワーを浴び、チェックアウトを済ませた。延滞金も取られた。残金 94万円也。
まず最初に旅館を出てから向かった場所は、床屋である。
特徴的な天然パーマネントと、太い眉をどうにかせねばならぬ。坊主にするべきか、ストレートパーマをかけるべきか迷ったが、余り目立たないようにストレートパーマをかけた。仮にそれでも不安ならば自分で短くすれば良いと思った。
僕は別人のように豹変した。まだ、やはり顔立ちなどは変えられないので完璧ではないが、顔見知り、少なくとも写真のなかの僕しか知らない人にとっては全くの別人である。
床屋を後にし、服を買った。伊達眼鏡も買った。更に別人になった。唐突と鮮明に、運命から逃げる意欲が沸いてきた。それは覚悟と云っても過言ではない。警察と真っ向から対峙し、一戦を交える微かにして無謀な覚悟が。ふと、手紙を書こうと思った。
僕がかなり追い詰められている事は確かである。昨夜は雪崩のような目撃情報が相次ぎ、警察にの電話線を詰まらせてくれたみたいだが、朝のニュースでは一切触れられていなかった。本格的に捜査が進み、意図的に規制しているのだろうと思った。僕の行動範囲は徐々に狭まるどころか、むしろ膨らみを持った。
馬鹿をした。お札のナンバーはそろっている事に気付いた。
銀行員、という職業が順接に作用した。後はやはりこの番号がきちんとどこかに記帳やらされているか否か、もしくはメモリーに保存等されていないか、が心配だった。普通の人はそんなことなどしない。しかし、もしかして銀行員なら…。その可能性の悪寒は頭に巣食い、昇華をなしえるのに暫し時間がかかった。
残金 急遽0円となる可能性有り。それでもやはり足が付かない事を願い、使い続けるしかなかった。
九州、福岡県に親戚の家がある。頼るつもりはないが中学までそこで育ったので、地理的にある程度自由度がきく。何よりも、帰省本能が強いのかもしれない。
高速バスで行く事にした。無闇に動き出さぬ方が僕的には得策であるが、やはり睦美を容疑者ロードショーの舞台に引きずり込ませない為には、観客の目を出来るだけ主役が惹き付ける必要があった。叩けば叩くほどボロが出そうで、怖いものではあるが。
高速バスに乗っている間に、手紙を書いた。
「前略
親愛なる父 宗太郎、母 淑子へ
昨今ニュース番組等で話題になってご承知の通り、私は金銭目的で銀行員の久留間 五十七さんを殺害してしまいました。
動機は銀行員ならば現金を沢山所持しているかもしれないという非常に幼稚で短絡的なものでした。睦美さんを始めとするご遺族の皆様には、弁解の言葉もなく申し訳なさで一杯です。覚悟が出来次第、直ぐに自首を致します。お父さん、お母さん、今まで私を育てて頂き感謝しています。今こそけじめを付ける時期だと思っています。どうか今一度、この私を信じて戴きたい所存です。
青木 生都
早々」
書き終わった後、僕は初めて両親に裏切りを期待した。正義の名のもとに僕の写真を警察へ提供したのだ(或いは、体裁の事を気にしてせめてもの足掻きをしたのか)。この手紙が間接的に警察へ渡る可能性は極めて高い。直接警察へ郵送する事も考えたが、やはり消印を意図的に操作しようとしている事を悟られて欲しくはなかった。
丁度浜松に差し掛かった所で、中年の男性が乗り込んだ。きょろきょろとなめるように潤った目で瞳を転がし、結局僕の隣に座った。引っ張られそうになる時速100kmの景色に慣性を感じる。
「……。これから旅行かい?」
唐突な言葉に驚きつつも、やはり人間関係というものはここにも絡み付き、返さざるを得なかった。
「ええ、はい。これから、私は……」
「私もね、なけなしの有休を使って、やっと」
「ああ、そうそう。私、望月って云います。一応警察官やってます」
この人と関わらない方が良かった。逃走2日目にして窮地。
「へぇぇ、警察官を……。それはそれはご立派で」
「全く、自分も……。(僕の事を言ったのか彼の事を言ったのかは分からなかった)」
当たり触りのない会話がしばらく続いた。勿論、相手には疚しい事など何もないのだから、そう感じたのは僕だけであろうが。所謂世間話と云う部類の会話だ。
「最近は世の中が少しずつ可笑しくなってきていると思います。誰も彼も頭が良すぎて……。望月さんも、職業柄そう感じる事が多いでしょう?」
話題は若年層の犯罪増加に流されていた。君みたいな年齢の子が、という言葉に釣られてしまった。
「いや、本質はもっとシンプルな所にあると思うよ。偏差値云々ではなくて。例を挙げるなら、う〜ん、そうだなぁ……」
少し口ごもった後、こんなことを耳に叩きつけられた。
「本当はさ、秘密なんだけど。新潟県の強盗殺人事件の犯人も典型的な例だと思うよ。銀行員だから金を持っていそうだ、とか。その少年は大分に親戚がいてね、そこに逃走している確率が高いって、こっちも捜査を進めてるんだ」
怯んだ。読まれてた。しかし、僕の頭は驚くべきほど冷静に次の回路を創り出した。大分に行くのは止めた。今度は北だ。たしか、この人は京都で降りて、新幹線を使うとかなんとか。九州から遠く、なるべく北を目指そう。
「全く、そのせい(たぶん付き合いかなにかだろう)で飛ばされてね。旅行ってことにして、自分に言い聞かせてるんだ」
一刻も速くここから脱出したい。この世界から脱出したい……。僕の内外に纏わりつく繭のいとを振りほどいて、嘔吐し、ただ天井に映る景色のみを抗わずに抱きしめたい。
「あぁ、本題の傑作でしょうがないのは、盗んだお札のナンバーのメモが見付かってね、一万円札の。長岡駅と東京駅でそのお札が発見された事だよ」
僕はその会話を傍聴者として愉しんだ。残金、89万円。但し著しい規制あり。
ふと、こんなことを思った。
叔父が金庫の番号をご丁寧に自分の誕生日にしたり、わざわざナンバーのメモまで取ったのは、わざと睦美に盗難(未遂)させて弱味を握る為ではなかったのか、と。前々から睦美に噂ぶいていたらしい事も、気になる。ベタな昼ドラ的展開だが、叔父からの圧力に耐えきれなくなった睦美が金庫に手を出そうものなら、ちょいと待ちなよお嬢さん、と云った感じであんなことからこんなことまで……。
ずるい、ずるすぎるぞ……。もとい、ひどい、ひどすぎるぞ。
仮に、彼が不在の時に数枚無くなったとしても、ナンバーは割れてるんだよ作戦。(しかしこの場合どうなんだろう? 財布の中で発見された場合はともかく、出回った場合は? やっぱり、ルートは割れてるんだよ、とかはったりをかますのかなぁ。勿論、一銀行員が出回ったお札を回収出来る程の権力が有るとは到底思えない……。故にはったりははったりのままである。更なるこじつけが必要だ。)
「市場に出まわったお札なんて、回収できるんですか?」
「うん、彼の場合、長岡市出身だったから、交通機関を徹底的に洗った(調べた)らしいよ」
「そんなに数字が好きなら、宝くじでも買えば良いのに……」
望月さんの笑い声が耳に触った。いろんな意味で、冗談じゃない。心からの本音がするりと抜け出てしまったのだ。
「どうだい、頭の良さじゃないだろう?」
あわれな傀儡は、なおも踊り続ける。
京都駅に着いた。
駅には、2・3人の連れがいた。彼らは警察官ではないが、有給にさえも飛ばされたので仲間が欲しい気持ちも分かる気がする。望月が切符を買いに離れたときにこう言った。
「僕、九州に旅行に行きたかったのですが、急な用事で引き返さなくちゃならなくなったんです。でも、どうしても記念に消印が欲しくて。あのう、お願いなのですが、着いたらこの手紙をポストにやっていただけませんか?」
かなり苦しい理由だが、これしか思いつかなかった。手紙を預けて三人と別れた。
「じゃあ、本官はこれにて」
一人称がえらく角張ってしまったが、去り際のささやかなジョークと受け止めた。
急ぎで再び、東京へ戻った。
万札は空港で出来るだけ両替してきた。これからは念のため、(自分が本当に利用する)交通機関では使わず、出来る限り田舎や外れで使おうと思った。
東京に戻って高崎へ向かった。宿をとった。何にもやる気が起きず無気力になったのは、その時からだ。彼らは万札が南下しないことに、何を覚えるだろうか。
もうナンバーなんて沢山だ。
それからと云うもの、夜の高崎を彷徨した。夜の〜と付くと何でもそれっぽく聞えるらしいが、今は別にそんな事はどうでも良くて、うつろな目をして、まるで幽霊の様に半分の月を見詰めていた。
昼は田舎の飲食店で、万札をくずした。しかし、皿が運ばれても食べる気はせず、それでも食べなければ不自然だから、揺らぐ吐き気にみまわれ、唯ひたすらに食べては嘔吐した。
唐突に、激しさを増した嫌悪感が突如として僕を書き換えた。
「自首、しようかな……」
結局のところ3日間高崎で過ごした。まるで泥沼にはまったように、足掻いても一向に体は動かず、ただそこに沈んでゆくのみだった。
ゴシップ誌やワイドショーで、僕は九州にいる確率が高いと報じられた。どうして僕が九州にいないと分かったのだろうか。まぁ、薄々3日もすればばれるものだと思ってはいたが。
圏外の場所を探して、逃走から初めて携帯電話の電源を入れた。
GPSが怖かった。
辛うじてアンテナが一本立つ所にでて、意味もなくセンターに問い合わせて、またすぐに圏外へ戻った。正体不明の野次馬からメールが来ているかもしれないと思い、参考程度にやってみた。案の定(誰から流失したか分からないが)アドレスが公開されているだろうと思ったから、その思惑は当たった。と云うよりむしろ当たりすぎである、受信件数150件。……勘弁。
殆んどが仮か偽かスパムメールのアドレスだと分かった。
「恥ずかしくないのか」
「氏ね」
「お前、今群馬にいるだろ?」
「ご近所で逢える出会い系」
etc……。
着信履歴は40件程度だった。非通知、公衆電話、非通知、警察、非通知、非通知、公衆電話、どこぞの店の電話、非通知、久留間 睦美、非通知、etc……。
睦美からの着信があった。危うく見逃す所だった。
……2日前だが。
ここに来て無謀な意気込みが、再びけたたましく紅を浴びて炎上した。リアカーなきK村、動力借るとするもくれない馬力。
急いで電源を落とし、(この時、投げ捨てようかとも思ったが気が進まず止めた。希ガスる)公衆電源へ走った。番号を押す手は震えていた。
「…。もしもし」
「睦美か?」
「……いくと、くん?」
「うん。……そっちは、どう?」
「まったく。そっちの方が心配だよ」
その声には色があった。僕達は遠くで会話している筈なのに、今にも肩をすくめた彼女がくっきりと見えそうだ。
「お願い。こんなこと、もう、やめようよ……」
そんな涙声で言われたら、……。
その淑やかな声は、こう続けた。
「知ってる?
人を殺した後、一円でも奪うと、強盗致死罪が成立して死刑か無期懲役になるんだよ……
今、生都君が、叔父さんを殺して、現金を奪った事になっているんだよ……」
その時の僕の固まり具合といったら、足の爪先から髪の毛先まで全てが凍り付き、まるで無機質なものに仕上がっていた。
「……。僕がまだ小学生だった頃、鬼ごっこをしていた時の話、聞いてくれる?
公園の片隅に隠れていたら、好きな女の子がこっそり此方に来た(僕達は子、つまり逃げる方だった)。暫くしたら、鬼が向かってくる気配がして、僕はその子の事を捕まえて欲しくないと思ったから、飛び出して囮になって仕舞った。勿論僕は捕まった。
大分日が暮れてくると、みんな飽きてきて自然解消してきちゃって。塾とか、観たいテレビだとか。仕舞いには二人だけが夜の公園に居残って、おかげで色んな事を喋れたんだ。
話題が鬼ごっこの事になると彼女は、ばかじゃない、と一言呟くと、軽く頬にキスしてくれたんだ。その時が嬉しくて、胸が熱くなって……。
幾日か経って彼女は転校しちゃったけどね……」
少しの沈黙の後、睦美は呟くように囁いた。
「優しい人は、損だよね。真面目な人は、損だよね」
しっとりとした声は僕に語り掛ける。
「もしかして、妬いた?」
「……ばか」
逃走してから五日目の朝が来ようとしていた。
北上する事に決めた。まずは、仙台を目指すことにした。一旦新潟に戻り、福島経由で行く。事の発端した全ての原点、長岡へ。
新幹線でまず高崎から新潟に向かった。なぜか長岡で降りてしまった。新潟で降りれば良かった(いや、絶対に降りるべきだった)と、ひどく後悔した。
普通電車で新潟駅まで向かう事にした。
駐車場から街の全体を一瞥する。このまま、長岡警察署で自首をしたいとの衝動を必死でこらえ、長岡の街を徘徊した。訳もなく流れ出る涙をこらえるのに必死だった。信越線でいく長岡から新潟は相対的に遠かった。始点から終点である。1時間と暫く、自分が動いているのか景色が動いているのか分からない。新潟からは高速バスで郡山(福島)まで向かう。いい加減、自分の移動機関の少なさに不安になってきた。
全ての物が変貌していくように見えた。窓に映る景色も、いばらの棘も、人の心も、無機物も、音も、言語も数式も、普遍も絶対も、そして、いのちも。
死ぬ。というバットエンド的選択は、ほぼ無いに等しかった。誰かが云ったように、自分が生きていないという状態が怖くてしょうがないから(勿論死ぬのも怖いけど)。ただ、僕が死ぬ事で事件が終わるのならば、悪くもないと思った。でもやっぱり怖い。
思ったより福島は近かった。通過点をくぐるには、僕は充分に真面目だった。キセルをせず、自首をせず。(ふと、自首とは真面目なものなのか否かと、誰かに問いたくなる)
よく、真面目な人を頑固な人や無口な堅物と混同してしまう人が多いが、僕の見解は必ずしもそうでない、完全には一致はしないと思う。真面目な人は真面目なのだ。ユーモラスに富んでいても、よく喋る人であっていても、真面目な人なのだ。そして、頑固者には頑固者の魅力があり、無口や堅物にはおのおののオツがある。
母親を撲殺して、1300KM逃走した少年がいるらしい。岡山から自転車で京都から日本海へ抜けて、福井、富山、新潟、と進んみ、秋田で通報されたという。15日(数えで16)後、通報により逮捕されたという。捕まった内での少年による逃走劇(殺人)は、これが限界である。勿論、僕が知り得る範囲での事だから、検挙されてないものや明るみになってないもの、そのまま逃げ切れたもの(行方不明、一例として国外逃亡、国内でも時効が成立した場合等々)などは含まれない。
しかし、最長記録は15日である……。
郡山に着いたときは、辺り一面真っ暗。何をすべきか分からない。ひたすら、まっくら。
足の赴くままに暫く歩くと、丁度良い廃墟に辿り着いた。なかなか味があるものである。
立ち入り禁止と明示されたテープを跨ぎ、不法侵入する。古びて軋む床の跳ね返りを感じ、足音が唸る。古い工場の様だった。当然と云えば当然かもしれないが、かなりの人数に侵入された跡がある。操作方法など毛頭分からない機械がずらりと並んでいる。微かにもれる月光を反射して、余計に不気味である。
ここで眠ることにした。静かで外界を怖れる(勿論この廃墟も充分怖いが)心配が少しだけ和らぐ気がしたから……。
横になって寝返りをうつと、小さな瓶を見付けた。埃をかぶり静かに眠っていた、茶色の小瓶。今にも剥がれそうなラベルには、KCNという化学式が書かれていた。シアン化物はメッキなどに良く使われていた事は知っていたから、そう云う頃(昭和)に稼動していた工場にあるのは、別段におかしいとは思はなかった。起きあがって薬品棚を漁ってみたが、他に価値のありそうな薬品は全て空だった。
空気に触れると酸化する事を知っていたから、僕は大切にスプーンでそれを掬いガムの包み紙(この時、ましな包装物を持っていない事にひどく後悔した)で厳重に包装した。
劇物の王様KCN、通称青酸カリ。僕はそれを何に使うか分からなかった。
朝早く始発に乗り、仙台へ向かった。全ての風が輝かしく、懐かしい。このまま何にもおびえる事が無く、感傷に浸っていたかった。
隣に一人の男性が腰掛けた。顔は堀が深く熟年を思わせ、身なりも悪くない為、いかにもおじさまという愛称がぴったりだ。少しばかりしおれたスーツは、その道のベテランを思わせた。
「私、桜田商事の吉田と申します。よろしければ、少しばかり世間話でもいかがですかな」
ふふふ、と僕口から笑みがこぼれてしまった。その口は冷静にこう返した。
「桜田商事というと、警察関係のお方でしょう。たぶんあなたは相当のお偉いさんでしょう。そのようなお方が、今更何故私に世間話など?」
今度は、吉田[警部]の口から笑みが漏れた。このように、口とは絶えず笑みを量産するものなのだろうか?
「おや、ばれていましたか……。実はあなたの事件、結構世間の注目が熱いんですよ。狂気的な犯人の逃走劇がどうも皆様は気になるらしくて」
当然、あちらも僕の正体には気付いていた。
「こちら側も当然、あなたの動きは手に取る様に分かるわけですが、とある理由により捕まえるのを躊躇してしまいましてねえ」
「ガサ(逮捕状)ですか」
「現行犯な訳ですから、あなたに対してはいらないわけですよ」
「私に対しては?」
しかし、その声は空しく僕の口から滑り落ち、周囲の音に掻き消された。
「私はあなに少し興味がありましてね。あなたからの熱いラブレターも受け取りましたよ。捕まえてしまうと立場上、もうあなたとお喋りできないわけですから、捜査一課に無理を言って今に至るわけです」
二人とも向こう側の窓をぼんやりと見詰めていた。
「しかし、もうそろそろマスコミにあなたを晒さないといけない訳ですから、本気で来ると思います。自首を、お勧めしますよ」
「そりゃどうも」
軽く会釈をして、降りる支度をした。どうやらこの警部は、直接僕を捕まえる気は無いらしい。
アナウンスが響いた。
「まもなく、仙台。仙台です」
電車が完全に停車する間際に、面白い事に気付いた。扉越しに、望月がいる。その他、警察関係と思われる人物がたくさん。
扉が開くなり、一瞬だけ時が止まって彼はこう呟いた。
「ひさしぶりだね」
警官が僕に捕まえかかるまでの、その刹那は妙に長かった。その間に、車内に乗っていたと思われる多数の警官が僕を取り囲む。完全に包囲されてしまった。そうか、暴れて電車から飛び降りて負傷(死んでしまったり、病院に搬送されてしまうといろいろ厄介だから)をしてしまわない様に、ご丁寧に完全に停車してから、僕を生け捕りにするんだ……。
僕は獣の様に低く地を這いつくばって、その足を掬い、その手を強引に解いた。
怯む警官をよそに、人波のなかを掻き分け、ホームを抜け、改札を潜り、しがらみを駆けた。足はとどまる事を知らず、ひたすらに地を蹴る。
一瞬だけ足が地から離れた。それが走っていると云う事なのだが、先ほどと同様にその刹那が妙に長い。段段と僕の目は天井をとらえるようになり、数秒後背中がほのかに冷たいコンクリートに打ち付けられた。じわじわと熱い刺激が接触個所から感じられたが、それほど問題ではなかった。私服警官に投げられたのである。そして今、寝技を食らっている。天井はえらく近く、猛然と広く、いまにも手がとどきそうだった。
「……容疑者、青木生都。確保しました」
無線はそう伝えた。僕は仙台の街に出ることがなく、隔離されたまま、ここで朽ちる。三十秒にも満たないうちに、刑事たちはここに到達した。
しかし、この後に及んで諦めると云う感情は湧いてこなかった。片手の自由が利かないと分かるや否や、僕はそっとズボンのポケットからガム(の包み紙)を取り出して口に含んだ。
「午前八時十四分。青木 生都。犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪、加えて逃走の罪により逮捕」
望月の言葉に驚愕した。
「ご、強盗致死罪のあ、ちがい(間違い)じゃな、いんですか」
言葉が上手く喉を通らないが、何とか伝わったらしい。
「久留間 睦美は傷害致死罪で逮捕したよ。最も、裁判となると正当防衛が立証される確率が高いがね」
「なんで……」
淀んだ目からは、涙が止まらなかった。僕達は最初から、国家権力に完全敗北を喫していたのだ。
同時に吉田警部が発した言葉の、真の意味を理解した。僕のガサ(逮捕)状はいらずとも、彼女のガサは必要だっだから……。
彼女を逮捕してから、僕はじっくり捕まえればよかったのか。
「それより、口に何かふくんでいるな?」
最期の手段に移る事にした。
「……青酸。カリだよ…」
「このまま僕を捕まえるというなら、毒薬を飲んで死んでやる」
最後の悪足掻きだった。もう、睦美に合わせる顔がない。
「構うな、はったりだ」
怯む集団に促す、望月の声。
「危険だぞ。離れた方がいい。強アルカリだから、万一皮膚に触れただけでも、炎症を起こすぞ」
僕はぷっ、と勢いよく包み紙を、取り押さえている警官に向かって吹いた。包まれたままなので、触れても炎症は起きないが、いきなりそんなことを言われた後に挙動をされてしまうと、普通の人間ならばたじろぐ。
僕に絡んでいた警官隊の手足の網が少し緩んだ。すかさず全てを強引に剥ぎ取り、再び逃走する。
僕は、生きることにした。
やらねばならぬ事を見付けたからだ。睦美を助けなければならない。
第2ラウンド、スタート。
ただ、ひたすらに走った。パトカーのサイレンの音を背にして、仙台の街を駆け抜ける。風を肌で感じ、全てを飲み込む。先程まで、警官は死の使いだと思っていたが、今はそんな格好良い設定はどうでもよい。
目指すは、長岡。ただそれをみるのみ。足は意識を忘れ、アスファルトを迎え撃つ。終わりの果てしなく遠いマラソン大会は、伴走者が多い。伴走車も多い。しかもその伴走しゃ達は僕を捕まえに来るのである。トンだ逃走劇である。
何か、よくわからない程強大で絶対な力に引き寄せられている気がする。今の状況の分析すら、もはや必要でさえないのだ。
今の僕は走っている。同時に、生きている。それ以外に、考える余地がない。翼など、はえぬ。もう十分だ、生きているから……。
対向斜線から、大きな箱のようなものが僕と接触した。トラックだった。
しかし、それは身体を少しかすめただけであった。僕はまた転がった。ひどく滑稽なコケ方だ。
すかさず、幾人もの警官が僕を取り押さえる。気力さえ無くなった僕は、アスファルトを嘗めて、空を見上げて必死に謝罪をした。
誰に対して?
いつの間にか空には、星が輝いていた。ネオンに掻き消されそうになりながら……。決壊する涙が止まらない。
僕は拘留後、法によって裁かれた(驚くべき程に迅速でした)。裁判所で多くのマスコミに騒がれながら(この裁判官こそが罪なお人で、主文を最後に読み上げたため、多くの傍聴者は僕の判決を死刑だと思ったらしいです)訊いた判決は、懲役3年。情状酌量に値するとして執行猶予4年。丁度よく望月刑事と吉田警部が出席してくれたので、睦美の居場所を知ることが出来た。
意外に三人ともアニメに詳しかったので、嬉しさのあまり何気無く共鳴することにした。
「さあ、はじまるザマスよ」
「行くでガンス」
「フンガー」
「うるさ〜い」
スケッチブックを持った傍聴者の一人に叱られた。しかし奴は知らない、自らをも共鳴に巻き込まれていることを。
此は後に気付いた事だが、法廷画が少し気に入らなかった。
判決が下ってから数日後、睦美に会いに行った。ただ、あちらの方も留置所に留められていたものだから、正確には面会ということになるらしい。ふと、秋の冷たい風が冷たく感じられた。しかし、どこか温かいぬくもりもあった気がする。
アクリル製の薄い板(いや、果てしなく聳える壁とでも云うべきか)を一枚隔てて、僕達は再び逢うことが出来た。彼女は質素な衣服に包まれて、本当に虚ろな瞳をしている。僕と、目さえ合わせようとしない。向こう側には睦美の他に面接官が一人、ただ扉の隣に立っていた。
自分の耳を疑った……。
「ちっ、使えない奴」
えっ、と吐息に近い感情が漏れる。
「使えない奴、って言ったのよ。あんたみたいなバカは、私の為に利用されるのがお似合いだからね」
「なんで……、どうして」
「気付かなかった?
全部私の計画だったの。なのに、あんたがほぼ無罪で私が殺人罪。可笑しいくって笑っちゃうわ。
あははははは……」
彼女の高笑いは完璧なものだった。優美で、侮蔑的で……。
微かに、彼女の足が震えているのを見た。
「残念だったわねぇ〜。初恋の女に騙されて。あなたみたいなのは、あなたみたいな、のは……」
「膝、震えてるよ。目も潤んでる」
「そ、そんなことないわよ。何、言ってるの」
「嘘、つかせてごめんね。 もう、いいんだよ」
「あははは……。ナルシスト。バーカ、バーカ。何言ってるか全然分かんないや」
「泣いてるって言ってるんだよ」
「あははははは……。私はあんたの事が大嫌いだって、言ってるの。
分かる? 私は……、私は……」
彼女の頬を一筋の涙が伝った。
「ああああああ。
…ひっ。うっく。うっく。
大好、きだよ。
私は、生都君、のこと、が大、好き、だよ」
「なら、なんで……」
「私は、もう……。汚れ、ちゃったんだよ?
殺人鬼なん、だよ?
……うっく。うっく。
生都君は、私を、捨てた方が、いいんだよ。あなたは恋人の、罪を被って逃げた、英雄、なの。でも、私は世間では、あなたに、罪を着せて、何にも無いことにしようとした、最低の殺人鬼なんだよ……」
「出所祝いは、カレーでいいか?
睦美なら、早いうちに必ず出れるし、だいいちカレーしか作れないしなあ」
「……ばか」
先程とは、違った響きがあった。
「真面目な人は、損だよね。
生都君、本当に損ばかりしてるよね……」
睦美の目はひどく赤くなって、髪もくしゃくしゃだった。アクリル板が無ければ、即行(速攻)で抱き締めていると思う。
それが叶わぬ今、コツコツと軽く叩いて言う。
「なぁに、それだけ掴む幸せが大きいもんさ」
「……その、良いこと言ったていう得意気な顔、恥ずかしいよ」
「こ、こいつ……」
その後、睦美に下った判決は正当防衛が適応されて無罪。素人の自分が見ても危なかったと思う。
正当防衛は原則的に武器による反撃は認めていないからか。しかし、反射的にその場に持っていた包丁を使ってしまったことを上手く立証出来た為希望はない訳でもなかった。その感じもあってか、無罪判決が下ったとき一番はしゃいだのは僕だった。望月刑事と吉田警部も出席したのでお決まりの共鳴もしてもらった。
「さあ、はじまるザマスよ」
「行くでガンス」
「フンガー」
「まともにはじめなさいよ」
その先について細かく語るのはよしておこう。なぜなら、二人はこれから、何の変鉄もない幸せな人生を送るからである。主観的には面白い限りだが、客観的には欠伸が止まらない、ひどく退屈な話だからである。
後日談
「ねーねー、生都君。最後の方、微妙にひぐらしに似てなかった?」
「ナンノコトカナ?」
「だいたい、怪物君とらき☆すたのパクりはだめだよ」
「……」
「そもそも、本当は生都君、そんなに真面目じゃないんじゃないの?」
「辛口だな……。
さっ。そんなことよりカレーカレー。睦美の為に手間隙と愛情込めて作ったんだぞ」
「では、私達も頂きましょうか。望月君」
「そうですね。吉田先輩」
「って。いたんですか」
「君が呼んだんじゃないか」
「むう。このカレー、案外……美味しい」
「案外、ってどういうことですか」
「ところで、私も生都君は不真面目君だと思いますよ」
「さっき睦美ちゃんがよそ見している時、唇奪おうとしてましたからね」
「えっ……。ちょっ、ま。え、冤罪でしょ(絶対に将来法学部に入ってやる)」
「い〜く〜と〜くーん」
「待て、睦美。二回目は確実に犯罪だぞ」
「うるさーい」
「ほっほっほ……(おかえしです)」
「いいですねー」
(HAPPY END?)