今夜のおかず、酒の肴――うお座
うお座の学名はPisces(ピスキス)となっている。これはラテン語である。ピスキスとは魚の意である。
では、魚と書いてなんと読まれるだろうか。ウオあるいはサカナであろう。これには歴史がある。元々はウオと呼ばれていたが、酒の菜として食されるようになり、しだいにサカナと呼ばれることが増えていったのだとか。酒の肴といわれるのも、そんなところから来ているようだ。
この辺りには日本人の魚に対する食意識の変化があるのかもしれない。それまで主食に近かった魚が、酒の肴になったということは、豊かになった証なのだろう。
だが星座で語られているうお座の魚は、日本人がまだ、うおという意識を抱いていた時代のようだ。
古代エジプト。水辺には葦が茂り、青水連や白水連が水面から茎をのばして咲き香っている。
肥沃な土地では、六条大麦の穂が風に身をまかせ、地面ではイグサが細く鋭い葉を真っすぐにのばし、ふり仰げばウニのような葉のパピルスが方々に見える。人々はカヤツリクサの実を集め、レンズマメの莢から、大事そうに二粒の小さな豆をとりだし、にんまりする。ゲデムからヒマシ油を絞り、それを明かりに亜麻を糸にし、夜なべで服を編んだりして暮らしていた。
そんなナイル川のほとりで、あるとき神々の宴が催された。歌あり踊りあり酒ありという大饗宴だった。そこに怪物テュポンが現れる。
そう、うお座は、やぎ座でお話した挿話のサイドストーリーなのである。
このとき宴に参加していた、美と愛の女神アフロディテは、息子エロスとともにおりました。もちろん彼らも誰ぞが叫んだ、
「変身して逃げるんだ!」
という声を耳にしていた。
アフロディテとエロスはその声を聞いて相談した。
「母さん魚になって逃げましょう」
「それはよい案ですが、少し危なっかしいでしょう。ナイルは大きな川です。はぐれたりしては大変です」
こうして彼らは、お互いの体を紐で結びあい、離れ離れにならないようにしてから、魚に変身して逃げおおせたのである。
テュポンが消え去ったあと、誰もが連れ合いや親や子とはぐれていましたが、アフロディテとエロスだけは違いました。二人の姿を目にしたゼウスは、危殆に瀕しても親子の愛を貫いたことにいたく感動したのである。
こうして彼ら二人が紐を結びあい変身した魚の姿のまま、天に星で絵模様が描かれたのだという。
ともすると忘れがちなものである。もともとは誰もが羊水の中を魚のごとく泳ぎながら、母親と直接繋がっていたことなど。
もしかすると、うお座は、そうした親子の愛情や深さや、絆の源泉忘れるなるべしということを、夜空で無言のうちに訴えているのかもしれない。
手元にある本の、絵にされた魚を見るにつけ、思うことがある。
これ、なんて魚!?
小生の考え考えしたところによると、どうやら、ナイルピラテュアという種であるといえそうだ。ピラテュアは黒鯛に似た川魚であり、和名はいずみ鯛ということらしい。
日本ではある時期食用にということで持ち込まれたようだが、日本人の食意識の変化で昨今は見向きもされないのだとか。だが、ナイル川流域の国々や世界のあちこちでは今でも気軽に料理され、人々の胃を満たしているという。小麦粉をまぶして丸ごとから揚げにしてみたり、切り身にしてカレーの具にしてみたり、ホイル焼きにしてみたりと。
うお座はそうした庶民性忘れるべからずということも伝えようとしているのかもしれない。
サカナではなく「うお」という文字と声色に、もう少し敬意をはらうべきではあるまいか。
「今夜のおかずなァに?」
「サカナだよ」
「うお! 大好物」
まァ、どちらでもよろしいのではなかろうか。
(了)