67.身も世もなく
「美咲っ! どうしたんだ、一体? クリスに何かされたのか!?」
焦ったような様子の亮ちゃんに強く肩を揺さぶられて、力の入らない体はそのまま床に倒れ込みそうになる。
亮ちゃんが部屋に入ってきた事すら、気がつかなかった。
しっかりと抱き支えられ、亮ちゃんの温もりを感じた瞬間、耐え切れないように感情が爆発して、きつくしがみ付きながら声を上げて泣いた。
子供のように泣きじゃくる私を、亮ちゃんがしっかりと抱きしめてくれる。
哀しくて胸が痛くて仕方なかった。
泣いても泣いても浄化できない哀しみで、息が止まってしまいそうだ。
やっと先生の消息がわかったのに、それを喜べない事が辛い。
恋人だったわけじゃない。
探し出す、それ以外の約束があったわけじゃない。
だから、先生に大切な人ができても仕方がないとわかっているのに、哀しみは消えない。
床に落ちていた手紙を読んだ亮ちゃんは、忌々しそうに手紙を握り潰した。
そして、何も言わず、守るようにしっかりと抱きしめてくれた。
先生が悪いわけじゃないとわかっているのに、裏切られたような気持ちになる。
勝手に勘違いして、勝手に期待しただけなのに、裏切られたなんて思うのはおかしいってわかっているけれど、どろどろとした気持ちが胸の中で渦巻く。
先生と一緒にいられる人が、先生の子供を宿した人が羨ましい。
あの時、一緒についていかなかったからダメだったの?
いい子ぶらないで、我侭を言ってでもついていくべきだったの?
それができていたら、私が先生の隣にいる可能性もあったんだろうか。
私が、先生の子供を身篭る未来もあったんだろうか。
嫉妬や後悔、醜い感情ばかりが胸の中でぐるぐると渦巻いていて、気持ち悪い。
泣いても泣いても、そんな感情はちっとも薄くならずに、苦しいだけだ。
こんなに醜い感情が私の中にあったなんて、今まで知らなかった。
口を開けば、酷い言葉が飛び出してしまいそうで、ただ泣くことしかできない。
胸が痛くてたまらない。
苦しくて苦しくて、このまま息が止まってしまえばいいのにと思う。
苦しみや痛みが、想いの深さを教えてくれる。
想う気持ちが積もり過ぎていたのだと知らされる。
『たった31文字に心をぎゅっと詰め込んだような和歌は素晴らしいと思わないか? こうした素晴らしい文化が残る日本で生まれ育った事を、俺は誇りに思うよ。それを伝えたくて、俺は古典の教師になったんだ』
初めての古典の授業の時、目を輝かせて語る姿が素敵だと思った。
先生のその言葉で、古典に興味が持てて、大好きになった。
『お前はよく頑張ってるよ、もっと自分を褒めてやれ』
家庭訪問の帰り、玄関まで見送った時に、先生が掛けてくれた言葉。
家事をやるのも、弟の面倒を見るのも当たり前で、頑張ってるなんて言ってくれたのは先生だけだった。
あの時、心がすっと軽くなった。
『想いが積もり過ぎて、溺れてしまいそうです。か。神楽は意外と情熱的なんだな』
古典の課題、和歌の訳をつけた時に、からかうでもなく言われた言葉が、想いを見透かされたようで恥ずかしかった。
今は、募りすぎた想いで、溺れ死んでしまいそうだと思う。
『絶対に探し出す。どんなに遠くにいても見つけ出すから、待っていてくれ』
初めての、たった一つの約束。
何よりも大切な約束。
先生の言う通り、待っていたのに。
待つだけなのは寂しくて、そして今は、胸が潰れそうに苦しい。
頭の中を先生の姿や声、言葉や思い出がくるくると廻る。
苦しくて、苦し過ぎて、目の前が真っ暗になる。
激し過ぎる感情の奔流に耐え切れずに、くらくらと眩暈がした。
私の中に、こんなに激しさが存在していたとは思わなかった。
こんなに深く、先生を想っていたことを、今まで知らなかった。
もう、手遅れですか、先生。
もう、私の手の届かない人なんですか?
亮ちゃんが何か言っているけれど、頭がそれを理解しない。
すべてから心を閉ざすように目を閉じた。
泣き疲れて、そのまま意識を失うように眠ってしまっていたらしい。
目が覚めるとベッドの上で、どこにも行かせないとばかりに、亮ちゃんにしっかりと抱きしめられていた。
「おはよう。酷い顔だな」
泣きながら寝たせいで瞼が重い。
きっと腫れてしまっているんだろう。
言い返す気力もなくて、何も言わずにベッドを抜け出た。
どんなに哀しくても、世界の終わりのように感じても、朝は来る。
今日も予約が入っているのだから、頑張って働かないといけない。
「待ってろ。鳴に氷を出してもらってくる。目を冷やさないと、人前に出られる顔じゃないぞ」
宥めるように私の頭を撫でて、洗面用のたらいを手に、亮ちゃんが部屋を出て行く。
引き止めるのも億劫で、もう一度ベッドに横たわった。
肌身離さずつけていた指輪を、いつものように握り込む。
不安な時、寂しい時、先生を想う時、いつもこの指輪を握り締めていた。
それももう、終わりにしなければ。
先生に逢えたら、指輪を返そう。
泣くだけ泣いたせいか、ほんの少し落ち着いた気がする。
先生に他に想う人ができたのなら、それは仕方がない事だ。
私は先生にとって、生徒でしかなかったということなのだろう。
恋人というわけではなかったのだから、先生が誰を選ぼうと先生の自由だ。
『主様っ!』
突然、悲鳴のような桔梗の呼びかけが頭に響く。
鈍く痛む頭に声が響くのは、ちょっと辛い。
『主様、聞こえる? 桔梗の声、聞こえてる?』
声と一緒に、泣き出しそうな安堵したような感情まで伝わってくる。
気づかないだけで昨日も呼びかけてくれていたのだろうか?
桔梗が泣いているのがわかった。
「聞こえているわ。ごめんね、桔梗。ちょっと悲しいことがあったの」
声は酷く掠れていた。
喉も痛んで、少し辛い。
『突然繋がらなくなって、びっくりしたの。主様、かなしいの? 痛いの? 桔梗に何かできる?』
桔梗との繋がりが途絶えるほどに、心を閉ざしてしまっていたんだろうか。
桔梗を随分不安にさせたみたいで心苦しい。
もしかしたら、強い哀しみの波動だけが桔梗に伝わっていたのかもしれない。
『ありがとう。桔梗はいてくれるだけでいいわ。それだけで癒されるの』
声を出すのが辛くて、思念で返す。
言葉にしなくても心が伝わるというのは、誤魔化しがきかないけれど、心強くもある。
心の底から心配してくれている桔梗の気持ちが直接伝わってきて、息をするだけでも痛む胸が、ほんの少し癒される。
『みんないるの。みんな、主様が大好きなの。だから、泣かないで主様』
桔梗の言葉と優しい想いが胸にしみる。
溢れた涙を乱雑な仕草で拭って、勢いよく起き上がった。
「もう、大丈夫。泣かないから安心して」
自分に言い聞かせるように言葉にして、顔を上げた。
もう、十分に嘆いた。
たかが失恋だ。
ありふれたどこにでもある出来事に酔って、悲劇のヒロインになるつもりはない。
亮ちゃんが帰ってくる前に、皺になった服を着替えて身支度を整えた。
髪を丁寧に梳いてから、ポニーテールにする。
髪も随分長くなった。
結ぶのすら大変なほどの長さは鬱陶しいから、そろそろ切ってもいいかもしれない。
先生が無事に辿り着いてくれますようにと、ずっと願を掛けていたけれど、王都からランスまではたいして危険もない。
願掛けなど、もう必要ないだろう。
「美咲、氷もらってきたぞ。少し、気力が戻ったみたいだな」
たらいを手に戻ってきた亮ちゃんが、私を見てホッと息をつく。
心配ばかり掛けて、申し訳ないと思う。
亮ちゃんには、甘やかされ、助けられてばかりだ。
「ありがとう。それより、亮ちゃん。聞かせて貰いたいことがあるんだけど? クリスさんと何の約束をしたのかしら? 昨日、いきなりプロポーズされたんだけど知ってたの?」
つい、詰問口調になってしまう。
亮ちゃんは、クリスさんの気持ちを知っていたに違いないと思ったから。
「美咲との結婚を許して欲しいっていうから、大迷宮の90層まで到達したら、口説いてもいいって言っただけだ。その結果、受けるか受けないかは、美咲次第だろう?」
たらいに水を足し、浸して絞ったタオルを目元にあてながら、少し苦い口調の、亮ちゃんの言い訳を聞く。
別に、クリスさんとの結婚を、特に勧めたいというわけではないみたいだ。
「クリスさんが王子なのは知ってた?」
タオルで目を塞いだまま尋ねると、抱き上げられてベッドに寝かされた。
「立ったままは危ない。横になってろ。クリスが王子なのは聞かされてた。でも、知ってるのは俺だけだ。美咲なら、どこに嫁に行ってもやっていける。だから、美咲を幸せにしてくれる奴なら、俺は反対しない。……もう、一条を待たなくていいようだし、前向きに考えてみたらどうだ? クリスだけじゃない、他にも美咲を欲しがってる奴はいるから、美咲の好きなようにするといい」
好きなようにと言われても、今は何も考えられない。
失恋の傷を癒すには、新しい恋がいいと聞いたことはあるけれど、私には無理だ。
そこまで器用に割り切れたら苦労はない。
「しばらく、恋愛はいいかな。誰も要らない。亮ちゃんでいいよ」
頼って甘える相手は、亮ちゃんがいるから足りてる。
恋人じゃなくていい。
「亮ちゃんでってなんだよ。仕方がないから俺でいいみたいな言い方だな」
笑い混じりに茶化すみたいに言われて、笑みが零れた。
私の気持ちを浮上させようとしてくれる、亮ちゃんの気持ちが伝わってくる。
「お互い様でしょ?」
笑いながら返すと、子供扱いで頭を撫でられる。
大きな手で撫でられるのは、心地いい。
今は甘えるのは、亮ちゃんがいい。
どんなに甘えて頼ったところで、絶対に恋愛に発展しない相手というのは気楽だ。
「昼から、仕事、大丈夫か? やれるか?」
不意に真剣な声で問われて、目元のタオルを外してから亮ちゃんをまっすぐ見つめる。
「当然でしょ。私は桜庵の店主なんだから」
見つめ返し、きっぱりと言い切ると、亮ちゃんは満足そうに頷いた。
「それなら、仕事前に何か腹に入れとけ。昨日の昼から何も食べてないだろ?」
食欲はないけれど、そんな事は言ってられないから、素直に頷いた。
もう少し目を冷やしてから、何か作りに行こう。
「亮ちゃん、タオル冷やして」
自分でできたけれど、甘えて手にしていたタオルを亮ちゃんに差し出した。
亮ちゃんは「仕方ないな」と、わざとらしく文句を言いつつも、タオルを受け取ってくれた。




