80.桜庵再開
ずっと願をかけて伸ばしていた髪を切った。
教会にそういった願いを掛けた物を預かってくれる場所があるそうなので、リーサについてきてもらって、切った髪を納めた。
お尻に届くほど長くなっていた髪が、背中の中ほどまでの長さになったので、これからは髪を結ぶ時に楽になる。
こちらでは、女性は髪を伸ばすもので、長くて豊かな髪は美人の条件でもあるらしい。
それを聞いた時に、平安時代みたいだなと思ってしまった。
さすがに、こちらの世界であれほどに髪を伸ばしている女性はいないだろうけれど。
「髪型を変えたのか? そうして前髪を作っていると、以前の姿を思い出すな。今の方が、大人びてずっと綺麗になったが、それでも懐かしいよ」
教会の帰りに知巳さんの屋敷に立ち寄ると、出迎えてくれた知巳さんはすぐに、髪を切った事に気づいてくれた。
ずっと願を掛けて伸ばしていたから、前髪も作っていなかった。
今は長さも髪形も、高校に通っていた時代とほぼ同じなので、知巳さんは懐かしく感じたらしい。
さらりと甘く褒められて、いい加減に慣れなければと思うのに、今日も照れてしまう。
「知巳さんが無事に辿り着いてくれて、願いが叶いましたから、髪を切って、教会に納めてきました」
願掛けをしている間は、誰にも言わなかったけれど、もう願いは叶ったから口にしてもいいだろうと思って、そう言うと、知巳さんは驚いたように固まってる。
そんなに驚くような事を言っただろうかと、首傾げると、感極まったようにきつく抱きしめられた。
「今、凄く、美咲に愛されてる事を実感した」
私を抱きしめたまま、耳元で知巳さんが呟く。
確かに、知巳さんを想ってのことではあるけれど、言葉にされると恥ずかしい。
「俺も髪を切って納めてくるかな?」
私を抱きしめる手はそのままに、知巳さんが言うので、反射的に「ダメ」と言ってしまった。
だって、今の髪型は、知巳さんにとても良く似合っていて、切るなんてもったいない。
「ダメなのか?」
視線を合わされ、不思議そうに問いかけられる。
「だって、今の髪型、いかにも貴公子って感じで、似合っているから。それに、知巳さんの髪は綺麗だから、切るのはもったいないです」
見つめたまま頷くと、知巳さんは頬にかかった髪を摘み、不思議そうに首を傾げながら見た。
とても綺麗な髪なのに、自覚がないらしい。
「美咲が好きなら、このままにしておくか」
どうやら切らないでいてくれるようなので、ホッとする。
そのまま、ソファに促されたので、知巳さんの隣に腰掛けた。
この屋敷にはフレイさんとカイさんしかいないので、今は、エルヴァスティ家から、侍女が派遣されている。
顔見知りの侍女がお茶をいれてくれたので、ありがたくいただくことにした。
「そういえば、今日からお店の営業を再開するんです。知巳さんも後で来てくださるんでしょう?」
先日、予約を断ったお客様には、改めてお詫びの手紙と営業再開のお知らせを送っておいた。
なので、再開初日ではあるけれど、既に予約で個室は埋まっている。
「午後のお茶の時間と、夕食も食べに行く。店が営業している時は、どんな感じなのか、今からとても楽しみだ」
改めて言われると、知巳さんがきた時に、きちんと店主の顔を作れるか心配だ。
バイト先に恋人が来る時って、こんな感じかな?
バイトをしたことはないし、恋人がいた事もないから、よくわからないけれど。
「夜の営業の時は、鳴君がピアノを弾いているから、常連のお客様がピアノの近くを陣取っている時もあるんです。大人気なんですよ。去年は隣のクラスだった阿久井君がいて、一緒にギターを弾いて、歌も歌ってました。阿久井君は職業が吟遊詩人だったんです」
普段のお店の様子を思い浮かべながら話をすると、知巳さんは私を見つめ、微笑みながら聞いてくれる。
こういう時の知巳さんの眼差しは、いつもとても優しくて、さっきの知巳さんじゃないけれど、愛されている事をとても実感してしまう。
ふわふわと気持ちが浮き立ってしまうほどに幸せだ。
「阿久井は、俺も逢いたかったな。また、逢う機会があるといいんだが」
残念そうに言いながら、知巳さんが私を抱き寄せた手で髪を撫でてくる。
私の髪に触れるのが、知巳さんの癖みたいで、いつも、優しい手つきで撫で、指で梳いてくる。
こうして触れられる事が多いから、最近はあまり髪を結ばなくなった。
「南のキルタスを回ったら、ランスを拠点にするって言ってましたから、いつか、逢えると思います」
心地よさに目を閉じると、すかさず瞼に口づけられた。
フレイさんもリーサもいるのにと思うと、恥ずかしくてたまらないけれど、嬉しい気持ちもある。
「俺の前でそんなに無防備になるな。理性が飛ぶ」
意地悪く囁かれるけれど、そんな事を言われたら、今度は恥ずかしくて目を開けられなくなる。
だから、顔を隠すように知巳さんの肩口に顔を埋めた。
くっつくと、私の好きな柑橘系の爽やかな香りがする。
こちらでは、あまり香水文化はないようなので、多分、知巳さんが使っている石鹸かシャンプーの香りだと思うのだけど、私の好きな香りだ。
「知巳さんに撫でられると、気持ちいいから仕方ないです」
顔を隠したまま訴えると、腕に囲い込むようにしっかり抱きしめられた。
暖かくて嬉しくて幸せで、つい、頬で擦り寄ってしまう。
このまま、時間がとまってしまえばいいのにと思う。
結局、時間ぎりぎりになるまで知巳さんから離れられなくて、慌てて帰って、開店準備をすることになった。
遅いと、亮ちゃんに叱られたけれど、気にならないくらいご機嫌で幸せだった。
久しぶりの営業ということもあって、普段よりもお客様が多かった。
バケットサンドの販売も今日から再開なので、食事やお茶のついでに買っていくお客様もいらっしゃる。
予約を断ったお客様がいらっしゃった時は、特に気をつけて挨拶をして、デザートを一品サービスしたり、普段よりも気をつかって接客していたので、かなり気疲れしてしまった。
だから、知巳さんがフレイさんとカイさんを伴って、お茶の時間にきた時には、少し顔に疲れが出ていたらしい。
「美咲、大丈夫か?」
お店にやってくるなり、出迎えた私の頬を知巳さんが労わるように撫でてくる。
まだ、これから夜の営業もあるということで、心配をさせてしまったみたいだ。
「大丈夫です。まだ、開店したばかりだもの」
笑顔を作って、安心させるように微笑みかけた。
「いらっしゃいませ。桜庵へようこそお越しくださいました」
開店して3時間で疲れるなんて、店主としては情けないので、しっかりと気持ちを立て直して、挨拶をした。
知巳さんは、着物姿の私を、じっと見つめてくる。
あまり凝視されると、店主モードで笑顔を作っていても、恥ずかしくて崩れてしまう。
「着物姿もいいな。とても良く似合っている。話をしたいが今は忙しいだろうから、またにしよう」
他のお客様が来店したのに気づいて、知巳さんは話を切り上げ、ホールに入っていった。
軽く会釈をして、フレイさんとカイさんもそれに続く。
来客の案内を任せて、厨房へ移動する。
この後は、接客はみんなに任せて、しばらく厨房に篭る事にした。
今日は、忙しくなる事がわかっていたので、みんなお店に出てくれている。
だから、私は私のできることをやらなければ。
「ミサちゃん、先生は紅茶と苺ムースだって。フレイさんとカイさんも同じのくださいって」
知巳さんの注文は、リンちゃんが受けたらしい。
聞きながら、注文の品を用意していく。
「ホールは忙しいでしょう? みんな、交代で休憩を取るようにしてね?」
紅茶を用意しながら言うと、リンちゃんがうんうんと頷いている。
知巳さんが食べる物なので、デコレーションも全部任せてもらって、自分の手で仕上げる事にした。
苺のムースと、横に、ハート型に型抜きしたオレンジのパウンドケーキを盛り付けて、フルーツで飾る。
知巳さん達にだけ、ちょっとサービスだ。
「リンちゃん、あーんして」
パウンドケーキの切れ端を、リンちゃんに食べさせてから、ワゴンにお皿とティーセットを乗せていく。
「ん~、美味しい。オレンジの風味のパウンドケーキ、いいねぇ。これ、大好き」
リンちゃんは頬を抑えて、幸せそうに味わっている。
リンちゃんと桔梗って同じ系統の、可愛い癒し系だと思う。
「準備できたから、お願いね」
給仕はリンちゃんに任せて、他の注文の品を仕上げていった。
こうして働いていると、日常が戻ってきた感じがする。
けれど、その日常の中に知巳さんがいて、何だか今までと違う。
そわそわするというか、落ち着かなくて、嬉しくて、とにかく変な感じだ。
「ねぇ、結花さん。普段通りの毎日に好きな人がいると、そわそわってする? 胸がきゅってしたりする?」
結婚している結花さんならわかるかと思って、料理をする手は止めないままに尋ねてみると、何故か返事が返って来ない。
見ると、どうしてか結花さんが真っ赤になっていた。
「美咲さん、その顔は凶悪だわ。今、とっても可愛かった」
小さなため息を吐いた結花さんが、最後は力いっぱい言い切る。
凶悪なの?と、わけがわからずに首を傾げてしまう。
「一条先生が溺愛するはずね。ちなみに、好きな人がいると、落ち着かない感じでそわそわしたり、胸がきゅっと切なくなったり、つまらない事で落ち込んだり、色々するわ。でも、全部幸せなの」
結花さんこそ、可愛い。
ほんのりと頬を赤らめて、夢見心地で語ってる姿は、恋する乙女といった感じだ。
既に人妻だったりするけれど。
ちょっとしたことで変になっちゃうのは、私だけじゃないんだなってわかってホッとした。
結花さんの言う通り、全部幸せだ。
知巳さんの事も、幸せに出来ていたらいいなと思った。