氷 Ice love 言う~車酔いや船酔いのときは氷を口に含むと楽になる~
「紺野さん」「なんでしょうか。美香ちゃん」
ふわふわ。ふわふわ。
湯気を立てながら珈琲を入れる彼に苦言を放つ私がそこにはいました。
「クーラー。冷房はここにはないのでしょうか」「そうか。人間は温暖湿潤気候が最も過酷な環境だと聞いたことがあったっけ」ええと、私にわかる話をしてくださいませんか。紺野さん。
紺野さんの淹れる珈琲はとてもとてもおいしく、わたしですら砂糖なしでも楽しむことができます。
しかし。しかしですね。
「暑すぎます」「そっか。そうだね」
この方は夏でも冬でも風呂敷を背負う、もしくは腰に巻き、作務衣一枚で過ごすのでわからないのかもしれませんがそれってどうなのでしょうか。
「どうしてこのお店には冷暖房がないのですか」私の真剣な問いに。
「薪stoveがあるじゃないか」「どうしてそれで食パンを焼いたり、お餅を焼いたり鍋を温めるのですかッ?! 季節を考えてくださいッ?!」
彼はストーブをコンロの代わりに使う悪癖があります。それは私たちだって冬にやらないとは言いませんが夏場にまで使わなくてもよいでしょう?!
「またやってる。美香ちゃん大変だね」
お隣の喫茶店の老夫婦が苦笑い。
その隣で「そーなのか」とつぶやくのが紺野さん。
あまり言いたくないのですが、こんな人に惚れてしまったのが私の不幸と言えるでしょう。
「あなたはなんでも知っているのね」
「そうでもないさ。知らないことだってあるよ」
そういうやり取りをたびたび行う私たちですが、彼の場合一般常識以前に暑い寒いという感覚が欠けていらっしゃるのではと疑ってしまいます。
「妖怪の私たちでさえ暑いのに人間の美香ちゃんにはつらいよ」「お前雪女だしなおさらだよな」「火の玉なんかに惚れちゃったのが運のつき」
いちゃいちゃしている喫茶店のご主人と奥さんですが、時々意味の分からないセリフを放つことがあります。聞いてもさらにわからなくなるので聞き流していますが。
……。
……。
こんにちは。知らない人。
え。あなたはわたしを知っている?
そうね。あなたは私が好きな人と同じくらいハンサムかもね。
でも。あなたは私が知っている人じゃないわ。
私の好きな人はあんたみたいに弱くない。強い? 何処が? 笑わせないで。
8000年生きていて16の女の子の気持ちから目を逸らすほどあの人は弱くない。
誰かを好きになることが辛くて嬉しくてドキドキするほど全て変わっていく事だって。
それが生きていることなんだって教えてくれた。
愛も勇気も知らない? 知らないのにどうして私に教えてくれることが出来たのかしら。
私は知っているわ。
どんなことにも負けない心を。
何より怖いものを。愛すべきひとたちを失うかも知れない怖さを知った。
私にもわかったの。勇気を持って抗う大切さを。
生きていることの喜びを。未来。ともだち。家族。たいせつなひと。
全てが好きになることを。
私は全力で紺野さんのお顔にそっくりな機械の部分に赤く燃える木刀をたたきつけます。
「この野郎ッ」びりびりとしびれる手を握り直し、二輪で距離をとるものの相手の動きが早すぎる模様です。
「美香ッ」「みかっち!」
「『この国この土地この場に集まりし幾とせの思いと力はあやかしとなり意思をもちて』『八百万の神々よ。わが友に力を与えたまえ』」
ふしぎですね。まいなちゃんと智子の声が聞こえると力が湧いてきます。
というか、この動き。車酔いになっちゃいますよね。さっきからすごいのですけど。
……。
……。
「というわけで。遊園地に行きましょう」
というわけでとはどういうことだい。美香とかなんとかいう紺野さんの手を強引に引いた私は冷房の入っていない車(冷房を装備した車はとても高価なのだそうです)に乗って遊園地にいます。
問題はちょっと、いやかなり。
「ううう。うっぷ」「暴走族なのに乗り物に弱いなんて」自分で操るには支障ないのですが、さすがにコーヒーカップのハンドルを目いっぱい回したのはきつかった模様です。
そういうわけで紺野さんが差し出したコーラを手を振って拒み、ベンチに座り込んでいるという次第です。
胃液の味がちょっとします。これはつらいです。
「調子に乗るからだよ。美香」「今、紺野さんが名前で呼んでくれた気がしますが」
苦笑いする彼は続けます。「幻聴です」「そうです。幻聴ですよね」
はぁ。いろいろアピールできると思ったのに今日も手のひとつもつないでくれないんだもの。
それでも彼の腕を掴んであっちこっちに行くことはできましたが。
「いらないの?」「何度も申していますが吐きそうで」本当に情けないです。
さて。
紺野さんは私の隣に座ると。ちょっと近い。近いです。
暑いのは暑気だけではなく、彼の心地よい体温も少々。
ポポポポと頬が燃えている私の手を彼はとり。
ちょ。ちょっと待ってください紺野さん。子供がいっぱい見ている中で?!
「氷を噛まずに、ゆっくり舐めていると緩和されるよ。車酔い」
そういって彼は氷をつまんで「あーん」と告げました。
乗り物酔いの場合副交感神経というものが刺激されてこの状態になるらしく。
交感神経とやらを刺激して副交感神経を抑制することで緩和が図れるそうなのです。
「二日酔いや船酔いにも効果があるんだよ」「……」
ちょっと熱気にやられた私は、彼の背に負ぶわれながら帰路につくのでした。
「まだ、気分が悪い? ごめんね振り回して」「ううん。むしろすごくいいのです」
「え?」「聞かなかったことにしてください」
私の名前は夢野美香。
思春期真っ盛りの16歳。
氷でも抑えられない。ちょっとした刺激に酔っています。




