ああ。突然レモン ~レモンの香りは実じゃなくて~
レモンって酸っぱくて苦手です。
かぜのときはお母さんが買ってくるけど。
こんにちは。知らない人。
ただいま私は浅生先生の補習を受けている最中です。
「また君たちか」「はい! 浅生先生今日も宜しくお願いします」
私はともかく智子は全問正解なのに名前を書き間違えて零点とか明らかにテスト中に狸寝入りしていて『勉強しすぎで寝ちゃったぁ』とぶりっこして泣きまねしたりで絶対補習授業を受けるのが目的でしょう。
「浅生先生。珈琲持ち込みですか」「まぁね」
職員室で二人そろって何をしているのでしょう。ああ。智子の残念そうな顔。
『くそ。なんで今日は職員室』『前回上目づかいで浅生先生の手を取ってただろ。警戒されて当然じゃ』
職員室にはなぜかレモン。現代文の先生が梶井基次郎のファンだからかな。
あ。またまいなちゃんが入り込んでる。机の間を小走りして遊んでるし。
「鵲。うろうろしない」鼻先を動かさずに小声で注意する浅生さんに。
「ひまなのじゃ。遊べ浅生」「いまは職務中」つやつやの髪が二つに分かれて可愛らしい顔が現れます。偉そうに胸を張る幼女と無視を決め込む浅生さん。
まいなちゃんは「つまらん」と言って教頭先生の机に走っていきます。
もぞもぞと教頭先生の背中に登って。
教頭先生のビシッとしたスーツが乱れに乱れて。
彼女は教頭先生によじのぼると肩車してはしゃいでいますが教頭先生は眉ひとつ動かさず堂々とお茶を啜ります。
流石教頭先生。子供の悪戯にも寛大です。
ああっ?! ああっ?
職員室の先生方の視線が一点に。私たちも青ざめますが。
「二人とも。補習を続けるぞ」浅生さんは澄ましたものです。
あの。その。「ニシシ」とあの笑い方をしながらまいなちゃんが教頭先生のアデランスを。
「禿に罪はない」「でもまいなちゃんは叱らないと悪い子になっちゃいます」
まぁそれを言う私たち二人ともスケバンとヤンキーですけど。
補習授業を続けているそのわきでまいなちゃんは大暴れ。
小走りしてはお花を逆に活けたりペンや消しゴムやレモンでお手玉。
呆れている私の視界の逆側からすっと差し出される優しい香りに振り向くと紅茶を入れた湯呑を本漆の茶碗にいれたまいなちゃんが。
なにこれ。すっごくすっきりする檸檬の香り。
すっと入ってくるのど越し。
砂糖が入っていない筈なのにほのかな甘みが喉を通って行く感じ。
まいなちゃんってすっごく紅茶淹れるの巧いんだ。
「そろそろ休憩がひつようじゃろ~」ニシシと笑うまいなちゃん。
というか、まいなちゃんの所為で全然集中できていないんだけど。
「浅生先生。浅生先生。質問がまだまだ。
休日は普段どうされていらっしゃいますか浅生先生。
遊園地とか好きですか浅生先生。好きな映画は何ですか浅生先生。
聖子ちゃんとか好きですか浅生先生。イモスターとかどうです?」
「補習と関係のない質問はしないの。村神君」
イモスターというのはちょっとお化粧した気持ち悪い男の人ですけど歌が上手いんです。私たちだけの間での話なので浅生さんには通じないと思います。
唾を飛ばしながら喜色満面。
頬にキスしそうなほど近づいての智子のアタック。
それを華麗にかわす浅生さんの隣では嫌味で生徒たちに苦手がられている英語のおばちゃん先生のスカートにアタックをしかけるまいなちゃんが。
いきなり茶巾にされて慌てる英語の先生。意外と美脚。
ってなにしているのですかまいなちゃん。
おばちゃん先生のパンツは白かったです。
こまめに着替えていらっしゃるのですね。
「いだい。いだい。浅生。美夏がいじめるのじゃ」「自業自得だ。おとなしくしていろ」
私の膝の上に抑え込まれて私にこめかみをぐりぐりされつつ文句を言うまいなちゃんに浅生さんは澄ましたものです。
「処で良いことを教えてやろう」
ふと手がとまります。
まいなちゃんはいつの間にか凍ったレモンを差し出してきました。
それって匂いもしなければ食べられないじゃない。
「レモンの香りの成分。正確にはかんきつ類の香りは実ではなく皮側にある。もっと言えば葉のほうにあるのじゃ」へぇ。
というか、このレモン霜が降りていないのです。変なの。
というか、ちょっ?! 冷たいよっ?! これ?!
まいなちゃんは凍ったレモンで平然とお手玉お手玉。
一体何個のレモンを隠し持っているのでしょう。
「よって、レモン汁をいれるときは実側ではなく皮を外側にして、皮を潰すようにいれるのがコツじゃ」へぇ。汚そうだけど覚えておきます。
「また、凍らせることで成分を壊さずに済む。レモンの香り成分は熱に弱いからのう。『いっつべすと』は凍らせたまま皮ごと摩り下ろすことじゃ」知らなかったです。
まいなちゃん。歳に似合わず凄く物知りでコンピュータさんみたい。
「コンピュータは入力したことしか今の世の中では解らんぞ~。もうちょっとしたら世界中のコンピュータが繋がって世界中のニンゲンどもが入力したことを共有するようになり、お前のようなおバカさんでもあらゆる知識が手に入るかもしれんがな~」またでたらめ言ってるし。
「ほれ。普通はレモンを熱くすると成分が壊れて不味いが」
まいなちゃんは今度はアツアツのコロッケを出してきます。
何処から出してきたのか。家庭科の教室で作ったものをくすねてきたのでしょうか。
「喰え。凍らせたレモンを摩り下ろして具に入れたのじゃ。普通なら成分が壊れて苦くて不味くなるがこれなら旨いぞ~」小さい背をぴょんぴょんしながら盆を私に差し出すまいなちゃん。
というか何時の間に脱出したの?! 私思いっきりぐりぐりしてたよね?!
「鵲。火の始末はきっちりね」「了解じゃ」「浅生先生。誰とお話しているのですか」
すっきりとしたレモンの香りとアツアツでパリパリの外側。
甘く味付けされたふわふわのじゃがいも。おもわず口の中を大きく膨らませてしまうくらいほっこほこで暖かくて。
「すっごく美味しいです。浅生先生。私にもコレ教えてください」「村神くんは料理より先に名前を書き忘れることを覚えたほうが」
本当に、本当においしいんですよ。まいなちゃん天才じゃないかな。
「これって」「肉の汁もいっぱいなのじゃ。ああ。安心しろ。牛肉じゃから」
そして意地悪な笑み。「人肉ではないぞ」「当たり前です」
今度はちょっとだけ手加減して額をはたいてあげました。
後日。
私はまいなちゃんに言われた通り冷凍庫にレモンをいれていたのですが。
カッチガチのガッチガチで霜が降りた冷蔵庫に張り付いたレモンは食べる以前の問題になっていました。
「あれ? オカシイな。すっごく美味しいコロッケを智子と食べたのよ?!」「美夏。またまいなちゃんに変なこと吹き込まれたの? 子供の言うことなんだから」
呆れるお母さんは凍って霜だらけでゴツゴツしたレモンを冷たい冷たいと言いながら素直に摩り下ろしてくれました。
うわっ?! すっごく冷たいし中がぐずぐずで美味しくなさそう?!
「ほら、あんたが始めたことだからあんたもやるんだ」「はあい。お母さん」
凍ったレモンはなぜかお刺身に入ることになりました。
霜だらけのお刺身を見たお父さんの微妙な顔が面白かったです。
私の名前は夢野美夏。
キャピキャピの今時の新人類。
私の好きな人は紺野塊山さん。
「あなたって何でも知っているのね」「そうでもない。知らないこともあるよ」
彼は何でも知っているのにとてもとても変わり者です。
だから私は彼を矯正すべく奮闘しているのです。
※この時代の冷蔵庫は霜が降りるし、今と違って入ってきた異物を感知してその方向に冷風を当てて瞬間冷凍したりしません。
炊いたご飯を保存したらカピカピのパラパラになって凄まじく不味くなります。
また、専用の棚なしに冷凍庫にモノをいれたら張り付いて偉いことになったりします。
美夏がこの知識を生かせるのは当分未来の話になりそうです。




