あなたが笑ってくれたから
「嘘だろ」
嬉しかった。そう言って、彼が笑ってくれたから。
いつもみせる自信たっぷりで、ちょっとだけ意地悪な笑みとは違う、なんだか不思議な表情。甘えるような、すがるような、どこか幼い子供を思わせる、そんな笑みだった。
大好きな恋人の微笑みにつられて、仁美の唇からも自然と笑みがこぼれる。幸せだった。こんなふうに笑いかけてくれる康司を見るのは、本当に久しぶりだった。
どうしてこんなにも、彼の微笑みは素敵なのだろう。
私だけのために見せてくれる、とっておきの微笑み。大切な大切な宝物。
幸せで、幸せすぎて、涙がこぼれそうになる。
かすかに震える唇で微笑んで、仁美は涙を追い払うようにまばたきをした。鼻先がツンとして、なんだか目の奥がむず痒い。
泣いたらだめ。我慢しなくては。
泣いたりしたら、泣き虫だな、とまた叱られてしまう。心配性の康司は、仁美の涙が大の苦手なのだから。
岡野康司と付き合い始めて、ちょうど一年になる。
一年前の今日、横浜のロマンチックなシティホテルで初めて二人は結ばれた。
愛し合ったあと、窓越しにながめた、静かでまっ暗な海と遠くにまたたく街の灯り。
幾度もそうしたように、そっと目を閉じるだけで、仁美はその風景を正確に思い描くことができた。
そう、いつだって、まるで昨日のことのように鮮明に、あの夜が甦ってくる。
今日は康司と仁美が本当の意味で出会った、二人が初めて結ばれた最初の記念日だった。
あのすばらしかった一年前の夜と同じように、今夜は特別な夜になるだろう。そう考えただけで、期待で胸がいっぱいになる。
さんざん悩んだすえに新しいドレスを買うのはやめて、記念すべきあの夜と同じ、思い出の淡いピンクのワンピースを選んだ。
ここに来る前に美容院へ寄って、髪を先月入荷したばかりの新色だという、明るいハニーブラウンに染めてもらった。
髪のセットだけでなく、メイクも一緒に頼んだら三万円近い出費になってしまったけれど、後悔はしていない。むしろ仕上がりには満足していた。
あの夜と同じ服装に身を包んだ私の姿に、康司はなんと言うだろう。
素敵だね。きっと、そう言って微笑んでくれるに違いない。
浮き立つ心を映すような軽やかな足取りで、仁美は通いなれたマンションの自動ドアをくぐった。彼女以外には人の姿はなかった。
大理石の床に、おろしたてのハイヒールが澄んだ靴音を響かせる。カツン、カツン。まるで音楽のようだ。
白い床に、グレーとピンクの別素材の石でアクセントが施されたエンスランスの中央で、仁美はいったん立ち止まった。
正面には、ライトアップされたはめ込み式の大きな鏡があり、それほど広くはない空間に奥行きを持たせている。
新築ではあったが、特別に高級というわけでも大規模なマンションでもない。
常駐の警備員や受付の姿はない。身軽な独身者か若い夫婦向けの、重厚というよりは可愛らしい、こじんまりとした規模のマンションだった。
エントランスの左手、非常階段につづくドアの脇に観葉植物の鉢が置いてあった。エレベーターは反対側に二機設置されていた。
エレベーターに乗り、七階のボタンに軽くタッチする。ほどななくしてブンという音と共にエレベーターが上昇を開始した。
わくわくする。唇から、自然に楽しげなメロディが流れ出す。
髪に手をやってウェーブの具合を確かめて、仁美はふとマニキュアがほどこされた指先に目をやった。
スクエアにカットされた爪は、根元のベビーピンクから爪の先に行くにしたがってパールホワイトになっていた。指先をひらひらさせてグラデーションを楽しむ。仕上げに薄くコーティングしたパールが、光の加減で、あわい色彩を浮かび上がらせる。
なにもかもが今夜に相応しく、完璧だった。
薬指には、誕生日にお揃いで買った、銀色の細いリングが光っている。
「二階」
メロディに合わせて、手のひらをひらひらさせる。
「……三階、四階」
溢れ出すメロディの高鳴りに合わせ、勝手に身体が動き出した。ハイヒールが陽気なステップを刻む。仁美は踊った。バレリーナになった気分だった。
「ラララ、ラー、五階……ラ、ラ、ラー……、六……七階!」
エレベーターの扉が開く。待ちきれない! ワンピースの裾をふわりと翻して、その場所でくるりと一回転する。次の瞬間、仁美はまだ完全に開ききっていないエレベーターから飛び出した。
「ラ……ララ、ラー、ラララ!」
金の文字で『702』と書かれたプレートを目指し、仁美は駆け出した。メロディは最高潮に達していた。
「ラーララ、ラー……あら、開かないわ」
ドアには鍵がかかっていた。ガチャガチャとドアノブを揺すったが、応答はない。
「開かない、開かない!」
仁美はドアをドンドン叩いた。
「康司、康司、ドアが開かないわ。ねえ、康司、開けてよう!」
しばらく待ってみたが、やはり応えはない。仁美はグッチのショルダーから合鍵を取り出した。
「開かない、開かない、ドアが開かない。ラ、ラララー……ラ、ラー……開いた!」
康司の部屋に入ったのは、今日で二回目だった。
脱いだハイヒールを玄関に放り投げて、仁美はひとしきり踊った。
「……康司?」
しばらくして、首を傾げて思案する。
いったんは脱ぎ捨てたハイヒールを手に取ると、造り付けの下駄箱にしまった。
「ラー、ララ、ラ」
浮き立つ心。身体の奥から、次々と、聴いたこともない新しいメロディが生まれる。
唇から流れる即興のメロディに身を任せ、仁美は踊るような足取りで部屋の奥へ向かった。
ガラス戸の向こうはキッチンになっていた。
この場所で料理をすることはほとんどないのだろう。ミントグリーンをアクセントにした、白を基調にしたシステムキッチンは、使用された形跡はほどんどない。
冷蔵庫を開けてみる。中には缶ビールが数本と、ミネラルウォーターのペットボトルがあるだけだった。
だめね。でも、これからは私がきちんと管理をしてあげるから大丈夫。
ここにくる途中で買ってきた、赤と青の色違いのマグカップを食器棚に入れ、エプロンを椅子の背に掛ける。二人で写した写真をカウンターに飾ると、室内がぐっと明るくなった。そうそう、揃いで買った新しい歯ブラシを洗面台に置かなくては。
「ラララ、ラン、ララー……歯ブラシ、洋服、下着、下着」
あとは、洋服と下着をクローゼットにしまって、ベッドカバーを代えればおしまい。
足りないものは、明日、康司と一緒に揃えよう。
フローリングのベッドルームは八畳ほどの広さだった。南に面した窓ガラスにはクリーム色のカーテンが掛けてあり、窓に頭を向けるかたちでセミダブルのベッドが置かれていた。
「ラー、ララ……」
やわらかそうなカーキとクリームのチェック模様のベッドカバー。ベッドに仰向けに寝そべって、ヘッドの両サイドにはめ込まれた間接照明のライトを点けてみる。気持ちが癒されるような、穏やかな光が仁美を包みこんだ。
「ララ、ラ……なにこれ」
ベッド脇のチェストの上にある置時計、その横に飾られたフォトフレームに気づいたとたん、暖かな空気が霧散した。さっきまで溢れていた音楽も、いつのまにか止んでいる。
「なにこれ!」
シルバーのフレームに切り取られた風景の中で、大好きな康司と知らない女が腕を組んでいた。あつかましくも康司の腕に自分の腕を絡め、女は笑みを浮かべている。
仁美はベッドから飛び起きると、フォトフレームをフローリングの床に叩きつけたあと、何度も踏みつけた。カバーが割れ、砕けたガラスが踵を傷つける。
チェストの引き出しを手当たり次第に開け、中身を探る。探していたハサミは一番下の段にあった。並んで写っている二人を器用に切り離し、女の顔にハサミを突き立てた。
写真の下にある板のせいで、突き立てても突き立てても手に鈍い衝撃が走るだけで、あまり効果はない。けれども何度もやるうちに写真のコーティングが剥がれ、女の顔に小さな穴が開いた。やがて穴が広がって、女の顔が見えなくなった。写真のあちこちに穴が開く。手も足も、首も。女の姿が隠れるまで、何度も何度も仁美はハサミを振り下ろした。
そのとき、玄関でチャイムが鳴った。
仕事を終えた康司が帰宅したのは、九時近くだった。
玄関のドアを開ける音が響き、いぶかしげな康司の声がした。鍵が掛かっていないことに気づいたためだろう。
「康司、康司、お帰りなさい!」
仁美は急いで玄関に向かった。
「谷村? お前…なんで、入院したんじゃないのか」
「先月退院したの」
康司は絶句した。
「もう完全に治ったわ。いまはとてもいい気持ち。ほらね、こんなに元気」
仁美は一段高い廊下のフローリングの上から玄関先で立ち尽くす康司を見下ろして、スカートの裾をつまみ、優雅にお辞儀をした。
「どうやって入ったんだ」
「合鍵」
「合鍵だって! いつのまにそんなもの作ったんだ。渡せよ、鍵を渡して、いますぐ出ていけ!」
「いけない、大切なものを忘れていたわ!」
仁美は身を翻すと、部屋の奥へと向かった。その後ろで康司が慌てて革靴を脱ぎながら、声を張り上げた。
「待てよ! 出て行けって言ってるだろ!」
飛び込むようにベッドに寝そべって、追いついてきた康司に向かって『ゼクシィ』の表紙をかざして見せる。
「これよ。式はクリスマスイヴにしましょうね」
「お前とは……たった一回寝ただけだろう。それなのに何百回も電話してきやがって。俺は会社に居られなくなったんだぞ! ……頼むから、もういい加減にしてくれよ」
「ラ、ララー……」
「なんだよ。歌なんかうたうな」
「ラララ、ラー。ラ、ラ」
「今すぐ出ていけ。出ていかないと警察を呼ぶぞ」
そう言うと、康司は受話器を手にした。その顔に不信のいろが浮かんだ。
「お前、電話線を切ったな。もういい! もういいから、いますぐ出ていってくれ」
ベッドに寝そべったまま動かない仁美の手を康司は掴み、力ずくでその身体を起こそうと試みた。
「いや!」
「いい加減にしろ。迷惑なんだよ。出ていけ、って言っているのが解からないのか。接近禁止令だって出ているんだぞ」
「いやいや。やめてよう!」
「お前、おかしいよ。もう二度と、俺の前に現れるな」
「いやいやいやー!」
仁美は電話線を切ったのと同じハサミを康司の腹に突き立てた。写真を刺したときとは違い、びっくりするくらいに簡単だった。根元まで、きれいに食い込んでいる。
「あ、ああああ!」
ベッドに倒れこんで脇腹を押さえてのたうちまわる康司の身体を押しのけて、起き上がる。大切な服が汚れてしまった。着替えなくては。
クローゼットを開けると、中から女が転がり出てきた。
「由紀!」
恨めしげな見開いたままの目。口が半分ひらいて、まるで魚みたい。焼いた魚の目は気持ちが悪いから、大嫌い。邪魔な身体を足で蹴ってどかす。
「……嘘だろ」
クローゼットに掛けられた、しまったばかりの服を眺める。どれにしようかしら。
「ラ、ララ……」
「嘘だよな?」
そう言って康司が笑った。
「そんな……由紀、嘘だよな」
ベッドの上で丸まって胎児のように腹を抱えたまま、康司は笑った。その目に、みるみる涙が溢れてきた。
「康司、大好き」
「救急車を」
康司が泣いている。幼い子供みたいに。どうしたの?
仁美はベッドに戻り、康司の頭を抱えて膝枕をした。前髪を、そっとかきあげる。柔らかな髪の感触が心地いい。泣きたいくらいに暖かな感情が込み上げる。
「……ラ、ララ……」
恋人の頭を抱え込んだまま、仁美はいつまでも身体を揺らしていた。