僕には何も起きない
授業が終わると同時にチャイムが鳴った。火曜日の四限目、化学のときはいつもそうだった。先生も早く昼休みを迎えたいのか、学校の簡素な壁掛け時計と、高そうな腕時計を、授業中にもかかわらずちらちらと見比べていた。もちろん、見る回数は腕時計の方が多かった。壁掛け時計は教卓よりも後ろにあったし、先生が後ろを振り返り何度も時間を気にする姿というのは生徒の士気に関わる。当たり前のことだ。しかし、生徒の多くはそんな当たり前の人物ではなかった。彼らは学生の本分は勉強だと知っていながら、真剣に化合物や化学反応式を卓上でつついたりしなかった。そんなものをつついているのは生真面目の阿呆とされていた。
先生が教室から出ていき、チャイムが鳴り止む前に、教室はわっと騒がしくなった。蝉が一斉に鳴きだす夏のようだった。だが、時間が経つとそれは徐々に小さくなっていく。皆、食堂に行ったり、購買に昼食を買いに行ったりするのだ。教室に残った生徒は友人と喋りながらも、口にものを入れていた。
僕は早々に母親が作ってくれた弁当を空にして、鞄から小説を取りだした。教室でしか会わない友人二人が風邪で休んでいる今日は、こうして小説を読むことしかできない。
黒板に残された白い粉をなんとなく見ながら、手探りでしおりを挟んでいる頁を開いていると、ちらりと視界に入ってくるものがあった。
彼女は教室の入り口で、真っすぐの黒髪を動かした。表面上は道徳的な、多くの女子高生と同じように、髪を肩の高さで止めていた。
彼女は笑顔で手を振った。その可愛いといえる容姿の子が手を振る相手は、いつも決まっていた。
僕の斜め前にいた男子が席を立った。
彼は廊下と教室の間にいる彼女のもとへと進んだ。机と机の間をするりと抜ける姿は、高台に囚われたお姫様を助けようとする姿に見ようと思えば見えた。だが、その場合僕は、死にかけの兵士だろう。過去に崇めたお姫様を見る目には力のかけらさえ映っていないような気がする。
彼女と彼は一言交わすとどこかへ消えた。可愛さには理由があるのだなと僕は噛みしめた。それは、可愛いから彼氏がいるのではなく、彼氏がいるから可愛いのだという意味だ。
僕は小説をぺらぺらとめくっていった。だが、行間や文章どころか、漢字の意味さえ頭に入ってこなかった。僕は同じ場所を一度読み直し、その次の個所も再度読み直した。友人や父親に好きな人を奪われるより、好きな人が知らない男と付き合っていてくれている方が大分救われるな、と頭の中ではそれが気泡のように浮かんでは消えていた。
僕は読むという行為に疲れて、文庫本を閉じ、机に頭を乗せた。そして首をひねり、廊下とは逆側の窓を見た。空は曇っていた。晴れの日を基本としている日常生活から見ると、今日は少し変わった日だった。例え昨日と同じように、お姫様がロミオに助けを求めようと。
雲はわりと早く流れていた。毒が含まれていそうな黒い雲はなかったが、体にはよくなさそうな、信用ならない薄い灰色が僕を見ていた。なぜ、お前は僕を見ているんだ。僕を見てどうするつもりなんだ、と心の中で呟いてみたが、雲は何も言わなかった。
僕は雲と会話するのを諦め、目を閉じた。クラスメイトの会話がほどよい五月蠅さで耳に届く。僕はそれを子守唄代わりに寝ようと試みた。
だが、内側にいる僕が僕を叩き起こす。そして、どこかに存在している井戸から、未来も過去もないようなものがどっと溢れだした。
俺には何も起きない。俺の人生には何も起きない。
僕は目を開けた。空は同じ動きをしていたが、教室はうねうねと蠢いていた。耳に届くクラスメイトの言葉は甘い果実のように熟れていた。
俺の人生には何も起きない。他人には何かが起きるが、俺には起きない。恋愛はない。友情もない。出会いもない。不思議なこともない。起きない。晴れの日に雨は降らない。曇っても雨は降らない。傘も持てない。誰かと手をつなぐこともない。青春なんて過ごせない。帰り道は一人、行く道も一人。誰もいない。自分だけ。何も起きない人生に、何も起きない人生を持つ人物が一人だけ。
僕は自分の言葉に耳をかさないようにした。しかし、すでに心はそれに応えていて、きゅっと萎んだ。
僕はもう一度目を閉じた。そして深呼吸をして、どうにか静めようとした。
何を?
僕は咄嗟に目を開けた。
僕は何を静めようとしたのだ。気持ちを静めようとしたのか? 僕の気持ちは揺れていたのか? なぜ? 自分の根拠もない言葉に焦ったのか? 図星だと思ったのか?
本当に僕には何もないのか?
雲は何も答えなかった。僕も何も言わなかった。
つまりはやはり、僕には何も起きないのだ。何もないのだ。
駅のホームで電車を待ちながら、僕は向かいのホームを見ていた。壁に貼ってあった大きな広告は盛大な文句を掲げていたが、だから何だと僕は思っていた。
右から特急電車が走ってきた。まだ遠くに見えるがすぐにこの駅を通過するだろう。ついでに僕は線路を見た。茶色の周りには慈悲もないような無機物がごろごろと転がり、押し詰められていた。あれを押しつけられたら痛いだろうなと僕は腕をさすった。
誰かに注意を促すような音が鳴ると、特急電車は僕の前を通り過ぎていった。あれに轢かれたらどうなるのだろう。
ほどなくして普通電車がやってきた。扉が開くと僕はそこに入った。帰宅ラッシュにはまだ早い車内には、ちらほらとしか乗客がいなかった。
僕は空いている席に座った。視界から大げさな広告が少しずつ出ていった。
何もない。何もないから落ち込んでいる。何もないから苦しい。
自分が吐いた言葉を、僕は無意識に思い出していた。
苦しい。好きだった人は誰かの恋人で、僕を好きな人は目の前に現れない。誰かが僕に喧嘩を売ることもなく、スポーツに青春を預けることもできない。何も起きない、何も起こせない自分しかここにいない。それが苦しい。だが、これが僕の高校生活で、これが自分自身だった。僕に何ができるのか。
僕は鞄からメモ帳とペンを出した。何かを出さなければ救われないような気がした。だが、内でぐるぐるとのた打ち回っているものはどこからも出ていく気配をみせなかった。
生まれ続けている悲しい事実を認めながら、僕はギロチンの前にいるかのようにうなだれた。
「久しぶり!」と高い声が聞こえた。女の子の声だ。
僕が顔を上げると、他校の制服を着た女の子が僕の斜め前にいた。彼女は少し離れたところに座っていた女子生徒の方へ、小走りで向かった。
僕はそれを見送った。そして、メモ帳を開き、ペンを取った。
元気ですか。僕はそんなに元気ではないです。僕の人生には何も起きません。本当に何も起きないのです。恋人はできないし、好きな人さえ目の前に現れません。でも、あなたはどうでしょうか。ぜひ教えて欲しいです。それが僕の願いです。
僕はその手紙を実家の貯金箱から見つけた。何年も前に書かれたものだ。文字は不安定な場所で書かれたせいか、ところどころ歪んでいた。言葉からはどうしようもない不安と悲しみが伝わってきた。そして、彼が不確かな希望を抱えていることが僕には分かった。
僕は椅子に座って、メモ帳から切り離された手紙を広げた。そして、机の引き出しからペンを取り、手紙を裏返した。
その気持ちよく分かります。でも、怖がらずに自分に任せなさい。何もない時に手紙を書いた自分を信じてみてください。僕は君を待っています。
僕はペンを手紙から離すと、しばらくそれをじっと見つめた。過去をだんだんと思い出していることに気付くと、無性に恥ずかしくなった。
僕は一息いれて手紙を小さく折った。そして、神頼みをするように、貯金箱にそれを返した。