誰にも迎えられなかった花嫁
山道を上っていた馬車が、ゆっくりと速度を落とした。
窓の外を流れていた景色が、途切れる。
深い森だった。
道の両側には、空を覆い隠すような針葉樹が立ち並んでいる。幹は太く、枝葉は幾重にも重なり、昼間だというのに森の中は薄暗い。
ところどころ木々の隙間から差し込む陽光が、地面に細長い光の筋を落としていた。
遠くで鳥の鳴き声がする。
それ以外には、風が葉を揺らす音しか聞こえない。
ニナは馬車の窓から、その景色を眺めていた。
王都の周辺とは、まるで違う。
彼女が生まれ育ったルナ=フェザー家の領地は、広い平野と整えられた街道が特徴だった。
街道沿いには白い石畳が敷かれ、街路樹は一定の間隔で植えられている。
人の手によって整えられた、明るく清潔な土地。
それに比べて、こちらは野生そのものだった。
森の向こうには、さらに深い森が続いている。
この辺りが王国の辺境に近い土地なのだということを、ニナは改めて実感した。
やがて馬車が大きく揺れた。
石畳の道を抜け、土の道へ入ったらしい。
少しして、御者の声がした。
「……着きました」
ニナは顔を上げた。
「ここが?」
「はい」
馬車が止まる。
扉を開けると、ひんやりとした森の空気が流れ込んできた。
ニナは外へ降りる。
目の前に、大きな門があった。
黒ずんだ鉄で作られた門。
その向こうには、長い石畳の先に屋敷が建っている。
屋敷は立派だった。
三階建ての石造り。
左右に翼を広げるような造りで、中央には高い塔がある。
かつては美しかったのだろう。
しかし、今は庭の草が伸び、整えられているはずの生垣もところどころ崩れている。
噴水は止まり、白い石の縁には苔が張り付いていた。
窓はすべて閉ざされている。
屋敷の大きさに反して、あまりにも静かだった。
ニナはしばらく屋敷を眺めた。
「……」
ここが、今日から自分の暮らす場所。
政略結婚の相手、クラウディス・フォックス伯爵の屋敷。
本来ならば、使用人たちが出迎えに来る予定だった。
少なくとも、そう聞いている。
けれど――誰も来ない。
「……到着したことは、伝わっているのでしょうか」
御者に尋ねる。
「こちらへお送りするように、とだけ承っております」
「そうですか」
ニナは門の方へ目を向けた。
「では、少し確認してみます」
御者が荷台から二つのトランクを下ろす。
一つは衣類。
もう一つは身の回りの品や書類が入っている。
貴族令嬢が嫁入りするには、あまりにも少ない荷物だった。
ニナ自身も、それについて何も思わなかった。
自分に必要なものだけを選んだ結果だ。
「ありがとうございました」
「はい。それでは」
御者が馬車へ戻る。
ニナはその姿を見送った。
馬車が向きを変える。
「……あの」
呼び止めるべきか。
一瞬だけ迷った。
けれど、馬車はすでに走り出していた。
車輪が石を踏む音が遠ざかっていく。
やがて、森の向こうへ消えた。
ニナは二つのトランクを見下ろす。
そして屋敷を見る。
「帰りの馬車は、ないのですね」
困った。
けれど、途方に暮れるほどではない。
街まで戻れば宿くらいはあるだろう。
問題は、その前にここにいる人間と話をしなければならないことだった。
*
ニナは門の前まで歩いた。
門は閉じている。
脇には小さな詰所があるが、そこにも人影はない。
扉を軽く叩く。
「すみません」
返事はない。
「どなたか、いらっしゃいますか?」
静寂。
ニナは耳を澄ました。
何も聞こえない。
足音も。
話し声も。
馬のいななきも。
食器の触れ合う音も。
風が木々を揺らす音だけが、広い庭を通り抜けていく。
「……妙ですね」
ニナは門の隙間から屋敷を眺めた。
庭は荒れている。
しかし、完全に放置されているわけでもない。
雑草が伸びている一方で、古い花壇にはまだ枯れた植物の茎が残っている。
噴水の周囲には落ち葉が積もっているが、石畳そのものはそれほど崩れていない。
長期間誰も来ていないというより、
途中で人がいなくなった。
そんな印象だった。
ニナは屋敷の周囲を歩いた。
厩には馬がいない。
馬具も残されていない。
薪置き場には、古い薪がいくつか残っている。
厨房と思われる建物の裏手には、空になった木箱が積まれていた。
しかし新しい食材の箱はない。
使用人用の出入口も閉ざされている。
「……誰もいない」
念のため、もう一度正面から声を掛ける。
「どなたかいらっしゃいませんか?」
返事はなかった。
屋敷の中へ入ることも考えた。
しかし、ニナはやめた。
自分は今日ここへ嫁いできたばかり。
まだ家の者に正式に迎え入れられてすらいない。
そんな状態で、鍵のかかった屋敷へ勝手に入る理由もない。
「……仕方ありませんね」
ニナは二つのトランクを手に取った。
「街へ行きましょう」
こうして彼女は、自分が嫁ぐはずだった屋敷を一歩も踏まずに離れた。
*
麓の街までは、思っていたよりも距離があった。
森を抜けるにつれて、道は少しずつ広くなる。
石造りの家がぽつぽつと現れ始め、やがて商店が並ぶ通りへ出た。
街は小さい。
王都のような華やかさはない。
木造の建物と石造りの建物が混在し、店先には野菜や干し肉、瓶詰めされた保存食が並べられている。
通りを歩く人々の服装も質素だった。
荷車を引く商人。
買い物袋を抱えた女性。
学校帰りらしい子どもたち。
冒険者らしき若者たち。
森に近い土地だからだろう。
武器を携帯している人間も珍しくない。
ニナはそんな街の様子を眺めながら歩いた。
誰も自分を気に留めない。
それが少しだけ新鮮だった。
ルナ=フェザー家の領地では、彼女が歩けば自然と視線が集まった。
姉や妹と一緒にいれば、なおさらだった。
けれど、この街では誰もニナを知らない。
それは、悪くなかった。
ほどなくして、宿を見つけた。
「一泊、お願いできますか?」
宿の主人がニナと二つのトランクを見比べる。
「お一人で?」
「はい」
「……この辺りでは珍しいですね。貴族のお嬢さんが一人旅なんて」
「少し事情がありまして」
「そうですか」
主人はそれ以上聞かなかった。
ニナは部屋へ案内される。
小さな部屋だった。
ベッドが一つ。
机と椅子。
壁際には小さな洗面台。
窓を開けると、街の通りが見える。
夕暮れの光が屋根を赤く染め、遠くには森の黒い輪郭が見えていた。
ニナは窓辺に立った。
「……さて」
ここでようやく、考える。
屋敷には誰もいなかった。
自分を迎える人間もいなかった。
夫にも会っていない。
今後どうすればいいのかも分からない。
ニナはベッドに腰を下ろした。
「まずは、確認ですね」
明日。
屋敷へ行き、もう一度周辺を調べる。
この街で、屋敷に食材や生活用品を納めていた商人を探す。
屋敷に最後に人がいたのがいつなのか。
いつから空になっているのか。
それを知る必要がある。
そして――
「この土地で、私がどう扱われるのか」
それも確認しなければならない。
夫の妻としてここへ来た以上、自分が勝手に帰るわけにもいかない。
だからといって、誰もいない屋敷に住み着くわけにもいかない。
ならば、情報を集める。
ニナにとっては、それが一番合理的だった。
*
翌朝。
街は薄い霧に包まれていた。
夜の間に冷えた空気が森から流れ込んだのだろう。
石畳は濡れていて、朝日を受けて淡く光っている。
ニナは朝食を済ませると、宿を出た。
まず向かったのは、冒険者ギルドだった。
情報を集めるなら、ここが最も効率がいい。
そう考えた。
ギルドの中は朝から騒がしかった。
依頼掲示板の前には何人もの冒険者が集まり、受付では依頼の確認をする声が飛び交っている。
壁際には大きな地図が貼られていた。
この土地の周囲に広がる森。
街道。
魔物の出没地域。
そして、そのさらに奥。
人の立ち入りがほとんどない場所には、黒い線で囲まれた区域がある。
ニナはそれを一瞬だけ見た。
けれど、今は関係ない。
受付へ向かう。
「お願いしたいことがあります」
「依頼でしょうか?」
「はい」
ニナは淡々と説明した。
「フォックス伯爵家の屋敷について調べていただきたいのです」
受付の女性が顔を上げた。
「フォックス家?」
「昨日、私が屋敷へ到着したのですが、人が誰もいませんでした」
「……誰も?」
「はい。使用人も、護衛も、主人も」
ニナは続ける。
「屋敷がいつから無人なのか確認したいのです。それと、食材や日用品を納めていた商人が分かれば、その方から話を伺いたいと思っています」
「どうして冒険者ギルドへ?」
「私はこの土地について何も知りませんから」
受付の女性は少し困ったような顔をした。
「申し訳ありませんが、そういった調査はお受けしていません」
「理由を伺っても?」
「貴族家の内情に関わることですので」
「なるほど」
ニナは納得した。
それなら仕方がない。
「では、フォックス家と取引のあった商人について、名前だけでも教えていただくことは?」
「それも……」
受付の女性は首を横に振った。
「申し訳ありません」
「そうですか」
ニナは頭を下げた。
「お時間を取らせました」
あっさりと引き下がる。
そのままギルドを出た。
外へ出ると、朝の霧はほとんど晴れていた。
通りには人が増えている。
パン屋の前から焼きたての香りが漂ってきた。
荷車が通りを横切る。
子どもがその後を走っていく。
ごく普通の朝だった。
ニナは歩きながら考える。
「商人を探すなら、別の方法を考えましょう」
街の人間に聞けばいい。
昨日宿の主人に尋ねたときも、フォックス家の名前を出しても特に警戒された様子はなかった。
この街の人々は、少なくともニナが思っていたほど「フォックス家」という名前を避けているわけではないらしい。
ならば、自分で聞けばいい。
そう考えて、宿へ戻る道を歩いていると――
「ねえ」
背後から声がした。
ニナが振り返る。
昨日、ギルドにいた女性だった。
動きやすそうな革の服。
腰には短剣。
背中には弓。
肩から下げた袋には、薬草や小さな道具が覗いている。
「……私ですか?」
「そう」
女性は笑った。
「昨日も見たからさ」
「昨日?」
「フォックス家の屋敷について聞いてたでしょ」
「はい」
「何かあったの?」
「屋敷に誰もいなかっただけです」
「だけ?」
「はい」
ニナは少し考えてから付け加えた。
「結婚相手の屋敷だったのですが、本人にも使用人にも会えていません」
「……へえ」
女性の目が輝いた。
「それで?」
「それで、屋敷がいつから無人なのか調べようとしています」
「なるほどね」
女性は楽しそうに笑った。
「変わった貴族のお嬢さんだね」
「そうでしょうか?」
「普通はもっと慌てると思うけど」
「慌てても人が増えるわけではありませんから」
「……あはは!」
女性が声を上げて笑った。
「気に入った」
「?」
「ねえ、あんた」
女性はニナの前に回り込む。
「もう少し話を聞かせてよ」
ニナは首を傾げた。
「なぜですか?」
「面白そうだから」
あまりにも簡単な答えだった。
ニナは少しだけ目を瞬かせた。
こんな理由で誰かに声を掛けられたことは、あまりない。
「……そうですか」
「うん」
女性は笑う。
「それに、私。この辺りのことなら、それなりに知ってるから」
ニナはその言葉を聞いて、少しだけ考えた。
そして。
「では、一つお願いがあります」
「なに?」
「フォックス家の屋敷へ出入りしていた商人を知っている方を、探していただけませんか?」
女性は一瞬きょとんとした。
それから、ますます楽しそうに笑った。
「いいよ」
ニナは小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
こうしてニナは、この土地で初めて自分から差し出された手を取った。
*
それから数日。
ニナは宿を拠点に、屋敷についてできる限りの確認をした。
屋敷の周囲を見て回る。
近くの道を歩く。
商人に尋ねる。
街の人間に聞く。
けれど、誰も決定的なことは知らなかった。
ただ一つ。
共通していたのは――
「最近、あそこへ人が出入りしているところを見た人はいない」
ということだった。
食材を運んでいた商人も、しばらく前から注文を受けていないという。
屋敷の煙突から煙が上がっているのを見た者もいない。
門番を見た者もいない。
ニナ自身も、最初に屋敷へ着いた日から数日間、周囲を確認した。
誰も来なかった。
誰も出てこなかった。
あの屋敷は、本当に空っぽだった。
「……なるほど」
宿の部屋で、ニナは集めた情報を整理した。
少なくとも、自分が到着した時点で屋敷には誰もいなかった。
そして、その後も誰一人として屋敷へ戻ってきていない。
いつから無人なのかは分からない。
しかし、夫が自分より先に屋敷を出ていた可能性は高い。
「問題は……」
ニナは机の上に置いた書類を見る。
自分はクラウディス・フォックス伯爵の妻として、この土地へ来た。
夫がいない。
屋敷もない。
使用人もいない。
では、自分はどうすればいい?
勝手に実家へ戻るわけにもいかない。
かといって、この街の宿にいつまでも滞在するわけにもいかない。
何より、夫の不在について自分には何も知らされていない。
「……私一人では判断できませんね」
ニナは静かに呟いた。
そこで、ひとつの名前を思い出した。
この地域を管轄する、もう一つ上の存在。
ブラックウッド大公家。
辺境の魔の森を治め、周辺領地の防衛を担う大公家。
フォックス家よりも上位の家。
ならば――
「ブラックウッド大公閣下に確認するのが、一番早いでしょう」
自分の身分。
夫の不在。
空になった屋敷。
この土地で自分がどう扱われるのか。
そして、自分は今後どうすればいいのか。
これらを一度に確認できる。
ニナは立ち上がった。
窓の外を見る。
夕暮れの森が、黒く沈み始めている。
「……行ってみましょう」




