狼少女
―1―
狼に育てられた少女がいる――。
イギリスの博士の許に、そんな情報が舞い込んできた。
同封されたモノクロの写真には、森の中、生肉をくわえた蓬髪の少女が写っていた。
半信半疑ではあったが、その少女を保護し研究すれば……そして人間社会に復帰させることが出来れば、世界的に名を馳せる事が出来る。
博士は助手を連れて現地に飛んだ。
博士は狼少女を目撃したという男性に会い、詳しい話を聞いた。
少女は人里離れた森の中で、狼と共に暮らしているらしい。
なぜ男は少女を目撃することが出来たのか、何のために人里離れた狼のいる危険な森に入って行ったのか……。少し気になったが、大方密漁者か何かなのだろう。胡散臭い男ではあったが、嘘をついている風ではなかった。
男にガイド役を頼み、さらにボディーガードとして現地の狩人を二名雇った。
博士たちは準備を済ませ、狼の森へと入って行った。
木々がうっそうと生い茂っているので、車では入れない。博士たちは徒歩で、男が少女を見たというポイントに向かった。
川沿いに進むこと二日。
一行は狼の足跡を発見した。
狼の棲み処が近いらしく、ぬかるんだ地面には大量に狼たちの足跡が残っていた。
その中に、明らかに狼の物とは異なる足跡が混じっていた。
人間の子供の手形と、裸足の足跡……。
件の少女は、四つん這いで行動しているらしい。
どうやら本当に、森の中で生活する少女がいるようだ。
博士の期待値は否応なく高まっていった。
一行は足跡を追ってさらに森の奥へと分け入った。
そして、少女を発見した。
一行は狼の群れを発見した。
狼たちはちょうど昼寝の最中だった。
木々の開けた広場のような場所で、十五匹近くの狼たちが三々五々に散らばり、地面や倒木の上に寝そべってくつろいでいた。
その群れの中に、裸の少女が混じっていた。仲間の狼のお腹をまくら代わりにして、丸くなって安らかに眠っている。
年の頃は、七つくらいだろうか?
よく日に焼けた褐色の肌。
細くしなやかな体。
伸び放題の茶色の髪の毛は、所々泥がこびりついてボサボサになっていた。
まごうことなく、あのモノクロ写真に写っていた少女である。
「本当に、いたのか……」
博士は半ば呆然と呟いた。
今まで半信半疑だった博士も、この光景には驚いた。
少女は完全に狼の群れと同化していた。
「ど、どうしましょう、博士!?」
助手の女性が興奮しながら叫んだ。
昼寝をしている狼たちを観察しながら、どうやって少女を捕らえ保護しようかと話し合っていると、背後からガサガサと草木がこすれる音が聞こえてきた。
振り返ると、突然草むらから三匹の狼が飛び出し、襲いかかって来た。
さらに広場で眠っていたはずの狼たちも一斉に起き出し、博士たちを囲った。
牙を剥き出し、今にも襲いかからんとよだれを垂らしている。
罠だ。
狼たちは眠っていたわけではない。昼寝をしている振りをして博士たちを油断させ、その間に仲間が背後に回り込み、襲って来たのだ。
何というチームワーク。
このままでは少女を助ける以前に、自分たちが食われてしまう。
博士は四つん這いになって臨戦態勢を取っていた狼少女と目と目が合った。
刹那、少女が博士目掛けて飛びかかって来た。
一瞬にして押し倒され、馬乗りにされる。
七歳の子供とは思えない腕力だった。
全身がバネのように発達している。
無駄なぜい肉は一切ついておらず、大自然の中で育てられた少女の肢体は、まるで研ぎ澄まされた一振りの剣のように美しかった。こんな状況だというのに、思わず見惚れてしまったほどだ。
しかし、喉元に噛みつかれそうになり、博士は慌てて少女を払いのけた。
投げ飛ばされた少女はすぐさま体勢を立て直して、四つん這いのまま低い姿勢でこちらを睨みつけていた。
髪の毛を逆立て、ぐるると犬歯を剥き出しにして呻っている。
その姿は、まさに本物の狼だった。
その時、銃声が響き渡った。
ボディーガードとして同行していた狩人たちが猟銃を撃ち込んだのだ。
銃声に驚いた狼たちはフォーメーションを崩し、散開した。
博士たちはいったん狼の巣から離れた。
全力で川辺まで走って逃げる。
「みんな、大丈夫か?」
博士は息を切らしながら他のメンバーを見回した。
ガイド役の男の姿が見当たらなかった。
博士たちはお互いの顔を見合わせた。
まさかと思い、一行は恐る恐る襲撃された地点に戻ってみた。
遠くの木陰からこっそりと覗いてみる。
ガイド役の男の死体が、地面に転がっていた。
そして、その死体には狼たちが群がっていた。
喉を噛みちぎり、内臓を引きずり出して、美味しそうに男の死体を貪り食っていた。
当然のように、その中には少女の姿もあった。
口元を血で真っ赤にしながら、男の太もも部分にかぶりつき、がつがつと人肉を引き裂いて食らっていた。
人間が、人間を食べている――。
少女は自分を狼だと思っているから、人肉を食べることに何の抵抗もないのだろうが……それは、なんともおぞましい光景だった。
人類のタブー。
カニバリズム。
その凄惨な光景を見て、博士の後ろで助手が嘔吐していた。
博士は改めて思った。
このままではいけないと。
一刻も早く、何としても、少女を保護してやらなければと。
博士たちは一度町に戻り、応援を呼んだ。
ジャングルなど密林での活動に特化した専門のチームを雇った。
彼らはライフル型の麻酔銃で少女を狙撃して動けなくし、群れの中にスタングレネードを投擲した。狼たちが混乱している間に少女を確保する。
行動は迅速で確実だった。
狼の半分はその場で射殺され、残りの半分は命からがら森の奥へと逃げて行った。
少女は猛獣用の檻に入れられ、船でイギリスに運ばれた。
道中、麻酔が切れて目覚めた少女は、檻の中で暴れ続けた。
人間とは思えない声で吠え、呻り、檻の外にいる博士たちを食い殺そうと手を伸ばしてきた。前足を振るった。血走った目で博士たちを睨みつける。
博士は獣のように暴れ続ける少女を見詰め、呟いた。
絶対に、私が人間に戻してやるぞ。
―2―
博士は少女を自身の研究施設に連れて帰った。
少女は人を見ると敵だと判断し、襲いかかろうとした。
服を着せてもすぐに噛みちぎって破いてしまうし、食事を与えてもナイフやフォークを無視して、皿に頭を突っ込んで直に食べた。
四六時中、四つん這いで歩いた。
毎晩、月に吠えた。
人の姿をしているが、中身は完全に一匹の獣だった。
よく脱走をはかり、施設の中庭に逃げ込んだ。
薬品の匂いのする研究室に入れるとパニックを起こして暴れ回り、壁に体当たりをしたり自傷行為を繰り返した。少女のために壁一面にクッションの張られた部屋が用意された。
狼に育てられた少女の存在はすぐに公となり、世界的なニュースになった。
取材が殺到したが、少女を守るためにも博士はマスコミたちを遠ざけ、完全にシャットアウトした。
少女の母親だと名乗る女性が四人ほど現れたが、検査の結果、どの女も少女と血縁関係にはなかった。
博士は二十四時間、少女と共に過ごした。
初期の頃は、自分は敵ではない、君の味方なのだと認めてもらうために、四つん這いになって狼のマネまでした。
博士は根気よく少女を教育していった。
自分が人間であることを自覚させ、言葉を教え、人としての理性を喚起させた。
まるで実の娘を育てるように、博士は少女の事を愛し育てた。
少女は少しずつ、少しずつ、博士や周りのスタッフたちに心を開くようになり、二本足で立って歩くようになり、知性を獲得していった。
物には名前があり、人は言葉を使ってコミュニケーションを取るのだと知った。
獣のように感情を剥き出しにするのではなく、喜怒哀楽をコントロールする術を覚えていった。
大地に水が染みわたり草木が萌えるように、少女はたくさんの知識を得て、獣から人間へと変貌していった。
そして五年の歳月をかけて、少女は人間に成った。
―3―
もうそろそろ人前に出してもいいだろうと判断し、博士は研究者仲間やマスコミを集めて少女のためのパーティ、お披露目会を行う事にした。
その前夜。
博士は自室で最後の資料作りをしていた。
月の出ている静かな夜だった。
開け放たれた窓からは、湿った風が吹き込んでくる。
カタカタとタイプライターを叩く音だけが小さく響いていた。
ノックの音がした。
「お茶をお持ちしました、お父様」
扉が開かれた。
ティーセットの乗ったトレイを持って現れたのは、十二歳に成長した狼少女だった。
博士はタイプライターを叩く手を休め、眼鏡を外しながら少女に言った。
「お入り、我が娘よ」
「失礼します、お父様」
少女は博士のことをお父様と呼び、慕うようになっていた。
少女はしずしずと歩を進めて机にカップを置き、紅茶を入れ始めた。
まだ喋り方やイントネーションに若干の違和感があるものの、とても五年前まで狼と一緒に森の中を四つん這いで駆け回っていたとは思えないほど、少女は清楚な淑女へと成長していた。
丁寧な手付きで紅茶を入れる少女の姿を見ながら、博士は感慨深げに思った。
よくぞここまで成長してくれたものだ。
明日私は、アン・サリバンと同じ栄誉を授かることになるだろう。
しかし、そんなことよりも、単純に少女の成長が嬉しかった。
人はその気になれば、どんな奇跡をも起こせる……。
この少女が、人間の無限の可能性を改めて思い出させてくれたのだ。
博士は少女が浮かない表情をしていることに気がついた。
顔に翳りがある。
「どうした、明日のパーティが怖いのかい?」
今まで少女を研究所から一歩も出さずに、温室の中で育ててきたので、大勢の見知らぬ人の前に立つことに不安を感じているのかもしれない。
「いいえ……」
しかし、少女は目を伏せながら首を振った。
「では、どうしたのだ?」
少女は答えなかった。
二人の間に、奇妙な沈黙が生まれた。
最近、少女の様子がおかしい事には博士も気付いていた。
ある程度知性がつき、五歳児程度の知能を獲得した頃は見る物触る物すべてが新しく、日々をとても楽しげに過ごしていたのだが……最近は、何だが気落ちしているというか、物憂げな様子だった。狼の森を恋しがっている訳でもないだろうが……。
博士は少女に尋ねた。
「本当に大丈夫か?」
「あの、お父様……!」
少女は揺れる瞳で博士のことを見詰めて、思い切ったように何かを言いかけたが、結局は口をつぐんでしまった。
「……いいえ、何でもありませんわ、お父様」
博士は話を変えた。
「そういえばペロー童話の『眠りの森の美女』を読んでいるそうだね? 面白かったかい?」
文字を覚えさせて感性を育むために、博士は少女にたくさんの絵本や小説を与えていた。キプリングの『ジャングル・ブック』から、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』まで幅広く。
少女は躊躇いがちに答えた。
「ええ、とても……」
少女はお辞儀をして博士の部屋から出ていった。
「おやすみなさい、お父様」
「ああ、おやすみ」
去り際、少女と目が合った。
少女の瞳は、なぜか悲しみに濡れていた。
博士は少女を見送り、首を傾げながら紅茶をすすった。
紅茶はひどく甘かった。
―4―
翌日、続々と研究者仲間やカメラを抱えたマスコミ連中が集まって来た。
狼に育てられた少女がどのように成長したのか、みんな今か今かと待ち構えている。
しかし、肝心の少女は行方不明になっていた。
「どこだ、あの子はどこに行ったのだ!」
博士たちは青ざめた。
まさかここにきて脱走かとも勘繰ったが、セキュリティがあるので外には出られないはずである。
だけど少女は、もはや一見しただけでは狼少女だとは分からないほど、普通の少女に育っていた。来賓客たちを隠れ蓑に、外に出て行ってしまったのだろうか?
来賓客たちには事情を隠し、博士たちはスタッフ総出で少女を探した。
博士の研究所はロの字型をしていた。建物に囲まれたロの中部は、太陽光が振り注ぐ吹き抜けの中庭になっていた。少女のいた狼の森ほどではないが、緑や花々が咲き誇る美しい庭だ。狼の森から連れてこられたばかりの頃は、少女はよくこの中庭で時を過ごしていた。
少女は中庭で発見された。
庭の一角に設けられた、噴水の前に倒れていた。
今日のために用意された少女の白いドレスは、なぜか真っ赤に染まっていた。
少女の右手には血塗れの銀のナイフが握られており、その左手首は、真一文字に切り裂かれていた。
バラの花びらのように、少女の周囲には血が飛んでいた。
少女は自殺していた。
博士は少女の名を呼びながら少女に駆け寄り、その体を抱きかかえた。
少女はすでに事切れ、冷たくなっていた。
博士は少女の亡骸を抱えながら呟いた。
ああ、どうして……どうしてこんな事に……。
「博士、あの子の部屋にこんなものが……!」
助手が真っ青な顔をして、何かを握って走ってきた。
それは少女が残した最後の手紙――遺書だった。
手紙には、震える筆跡で短くこう書かれてあった。
『わたしはにんげんをたべた』
人としての知性が芽生えたが故に自殺せざるを得なかった彼女は不幸なのか、
あるいは、一匹の獣ではなく、一人の人間として死ねた事は幸福なのか。
俗に言う「狼(動物)に育てられた子供」の大半は、捏造や勘違いだったらしいですね。
自閉症や知的障害を患っていたために親に捨てられ、そうやって路上で生活していたのを保護された子供たちの行動が獣じみていたため、こういう話が生まれたようです。
きっとこの子は、狼(動物)に育てられたのだと。