ep3 ②
廊下で見えた“気配”は、それっきり姿を見せなかった。
しかし胸の奥では、微かなざわめきが渦を巻いたままだった。
(影粒子がここまで侵入するなんて……ありえるのか?)
(いや、微量反応ってだけだ。もしかしたら、影残滓の“揺らぎ”かもしれない。)
そう言い聞かせようとしても、不安は消えない。
イオが、警戒を解くような素振りで歩き出した。
「……今日はもう引き上げよう。待機命令も出てるし、あと何かあっても今は動けない。」
リオも頷く。
「明日は本番だからね。休息が何より大事。」
つぐみはタブレットを抱き直しながら、僕を見上げた。
「凪。……怖がらないでね。」
「……え?」
つぐみの瞳は、いつもより強い光を放っていた。
「影の反応を感じたのは事実。でも、それ以上に、あなたの“緊張”が強く反応してる。
……だから、深呼吸して。」
言われて、僕は大きく息を吸い込んだ。
胸の奥のざらつきが、少しだけ和らいだ。
(……僕は、怖がっていたんだ。影じゃなくて、明日の……初陣を。)
気づいてしまうと、少し恥ずかしくなる。
イオが口を開いた。
「凪、怖いのは悪いことじゃねえよ。怖くないやつの方が、逆に足元すくわれる。」
リオが続ける。
「“怖さ”は慎重さと同じ。戦場じゃ、それが命を救うよ。」
つぐみも、小さくうなずいた。
「だから凪。明日は“怖くていい”。そのままでいいの。」
胸の奥の硬い部分が、少しだけ溶けた気がした。
「……ありがとう。」
三人の存在が、背中を支えてくれている。
それが、ただただ嬉しかった。
四人で指揮室に移動し、壁面の作戦ボードを囲んだ。
そこに貼られたのは、明日の戦場マップ。
《第三演習区・市街地モデル》
中層ビル群・高速連絡橋・地下区画・開けた空間が混在する複雑な地形だ。
つぐみが指示棒で地図を示しながら説明する。
「凪はここ、中層ビルの裏通路からスタート。迷路みたいに入り組んでるから、敵に見つかりにくい。」
「うん。」
「イオは北ルートから機動して、敵の位置を引っ張り出す。リオは中央の高層ビルから射角を確保。」
イオがニッと笑った。
「要は“俺が敵を踊らせる”。
凪はその隙に、一点を……」
「“止める”。」
僕は息を飲むように言った。
たった一か所でいい。味方のラインを作る、ほんの数秒でいい。
つぐみは続ける。
「明日のキーポイントは三つ。
①敵の加速スキルを『読まない』
――読む必要はない。止める必要もない。
②凪は、止める対象を“決めておく”
――止めたい場所を、最初から絞っておく。
③イオとリオは、その一点に誘導する
――これができれば、凪は負担がない。」
リオが手を挙げる。
「あと、僕の砲撃は凪の停止領域と重なると威力が落ちるからね。味方でも例外なく“運動が削がれる”。」
「……うん、気をつけるよ。」
イオが肩を叩いた。
「大丈夫だ。お前は一点だけ見てればいい。」
仲間が僕の役割を理解してくれた。それが何より心強い。
「じゃ、今日はここまで。寝よ寝よ。」
イオが大きく伸びをすると、つぐみもタブレットを閉じた。
「凪、部屋まで一緒に戻る?」
「うん。」
リオが微笑む。
「じゃあ僕はシャワー浴びてくる。二人ともゆっくりね。」
イオも軽く手を挙げて別れた。
廊下を歩くと、さっきの気配が嘘のように静まり返っていた。
訓練棟の照明は間接光だけになり、影が長く伸びている。
つぐみがぽつりと呟いた。
「……凪は、本当に優しいね。」
「え? 急にどうしたの?」
つぐみは、小さく笑った。
「あなた、自分が“怖い”って言わないでしょ。止める能力を持ってるのに、誰より怖がって、慎重で……そういうところ、守りたくなる。」
「ま、守らなくていいよ……!」
顔が熱くなる。
つぐみはふっと目を細めた。
「凪、明日は誰よりも“あなたらしく”いて。止めるんじゃなくて……“選んで”。」
「選ぶ……?」
「そう。“止める場所”を選ぶのが、あなたの強さ。」
その言葉は、胸の奥にゆっくり蒸留されるように落ちてきた。
焦る必要なんてない。
僕には僕のやり方がある。
「……ありがとう、つぐみ。」
「うん。」
部屋の前に着くと、つぐみは軽く手を振った。
「おやすみ、凪。」
「おやすみ。」
扉が閉まり、静寂が訪れる。
僕は着替えてベッドに潜り込んだ。
天井を見上げる。
(明日……僕は戦う。)
(止めるためじゃなく、支えるために。)
胸が高鳴る。怖い。でも同時に、嬉しい。
強くなる。
仲間と並んで戦えるように。
目を閉じる直前――耳元で、低い声が囁いた気がした。
―――みつけタ。
僕の心臓が跳ね上がった。
(……今のは……?)
暗闇の中、僕の視界の端でわずかに赤い揺らぎが見えた。
それはすぐに霧のように消えたが、確かに“あの巨大影”の声だった。
(……影が……僕を……?)
鼓動が早まる。
だが、恐怖より先に、強い感情が湧き上がった。
――負けない。
僕は拳を握りしめた。
(僕は、止まらない。
止めるのは――“敵だけ”。)
そう決意した瞬間、眠りがゆっくりと訪れた。
明日、僕らは戦場に立つ。
凪小隊として――初めてのランク戦へ。




