ep2 ②
飛び出した巨大な影は、黒い四足獣にも、人型にも見えない。
“歪んだ立体”がそのまま動いているような、不自然な存在だった。
前脚に相当する部位は三本、後脚は二本なのに、
地面に接触しているのは一つだけ。
重心が壊れているのに転ばない。
そのたびに空間が“チリチリ”と悲鳴を上げる。
(……まずい。あれが動くだけで世界が削れてる……!)
つぐみが喉を震わせながら叫んだ。
「巨大個体じゃない! “崩壊性”の……未知種!外装が揺れてる、質量が安定してない……触れたら危険!!」
リオが奥歯を噛む。
「触れたら危険って……殴れねぇじゃん!」
「当たり前です!!」
イオが全体に指示を飛ばす。
「全隊、散開! 接触禁止!つぐみ、敵の動きの“予測できる部分”だけでいい、示せ!」
「やってる! でも……揺れが速い!」
巨大影がこちらへ向き直る。
その“眼”が、ただの光点ではなく、凪を――正確に捉えていた。
(……俺を見てる……?)
背中に冷たいものが走る。
イオが凪の肩を掴んだ。
「凪、絶対に前へ出るな。あれは停止領域が不安定な空間に反応してる。昨日の“余波”に引き寄せられている可能性がある」
「……そんな……!」
昨日、限界を超えて静中動を暴走させた。
その残響が、今でも凪の身体から微かに漏れている。
(それのせいで、みんなに危険が……?)
胸が強烈に締め付けられた。
――ドンッ!!
巨大影が地面を殴った。
破裂音とともに、床が波のようにうねり、周囲の壁が泡立つように歪み始める。
「衝撃じゃない……“空間が撫でられてる”!」
つぐみが叫ぶ。
リオが後ろへ跳び、拳を構える。
「当たったら肉体が潰されるぞ、これ……!?」
イオが短く、鋭く叫ぶ。
「リオ、正面に立つな!」
しかし巨大影の眼は、凪だけを捉えて離さない。
(……狙われてる……!俺の“停止”に、反応してる……?)
凪の心臓が跳ねるたび、胸の奥で“カチッ”という嫌な音がする。
(止まるな……止めるな……)
脳裏で何かが囁く。
(使うな……使ったら――)
だが巨大影はゆっくりと、だが確実に凪へ向かってくる。
その動きは時折“瞬間移動したように”滑り、空間が引き延ばされたみたいに歪む。
つぐみが震える声で告げた。
「駄目……予測線が……消える……!」
リオが歯を食いしばる。
「くそっ……殴れもしねぇって、どうしろってんだ!!」
イオが即座に答える。
「殴らなくていい! “軌道をずらす”んだ!」
「おう!!」
リオが飛び出そうとした、その瞬間――
巨大影の“眼”が光った。
凪は理解した。
(来る……!)
世界がぐにゃりと沈み、空気が全部、凪の方へ吸い寄せられるように変形する。
(反応できない……避けられない……!)
イオが両手を前に突き出し、陣技を展開する。
「《回路展開:多層反転壁》!!」
半透明の多層壁が連続して生まれる。
その直後。
巨大影の突撃が直撃した。
――バンッ!!!
衝撃波ではない。
“空間が押し潰された音”そのものだった。
壁が一層、二層、三層……
視界の端で次々に崩れていく。
イオが歯を食いしばる。
「くっ……! 押し切られる……!」
凪の背筋が凍る。
(イオが……負ける……!?)
イオはA級級の制御士。
その彼が押されている。
凪は思わず一歩踏み出した。
「僕も……!」
「凪!! 来るな!!」
イオの叫びは鋭く、
その声は、命令というより“必死の制止”だった。
だが――
巨大影の眼はさらに輝き、その“狙い”が明確に凪へ――
(僕が……引き寄せてる……)
身体が震えた。
恐怖でも、驚きでもない。
罪悪感だ。
(だったら……僕がなんとかしなきゃ……!)
そして、凪の意識の奥底で、昨日の“停止”がゆっくりと目を開き始める。
(……だめだ……使うな……!)
心が警告を発する。
しかし巨大影は止まらない。
イオの壁が残り一枚になった。
リオが叫ぶ。
「凪! 行くなら――」
つぐみが叫ぶ。
「無理しないで!!」
イオが叫ぶ。
「凪!! 動くな!!」
だが――
巨大影は凪の目の前まで迫っていた。
(止めるしか……ない!!)
視界に青い線が奔った。
凪の周囲の“音”がすべて沈んだ。
耳鳴りのような静寂。
微粒子が空中で停止する。
イオの多層壁が砕け散る寸前の姿勢のまま固まる。
巨大影の突撃も――
目の前でぴたりと止まった。
(……止まった……!僕が……止めた……?)
だがすぐに、頭の奥が“キィィ”と嫌な音を立てる。
昨日よりは弱いが、それでも強烈だ。
(長くは……持たない……!)
停止領域は約5m。
イオの言った最低値。
だが、その中心に“巨大影の顔”がある。
“眼”だけは、なぜか停止していなかった。
赤い光がゆらりと蠢き、凪を見つめ返してくる。
(……なんで……目だけが動いて……)
思考の奥に、何かが“侵食”してくるような感覚が走った。
(――来るな)
(――触れるな)
(――崩れろ)
(――止まれ)
(――止めるな)
声が、重なって聞こえる。
(……違う……これは僕の声じゃ……)
胸が締め付けられた瞬間、停止領域の端がガラガラと崩れた。
(やばい……限界……!)
青い光が揺らぎ、空間が反発する。
“停止”は維持されているのに、その向こう側で空間が押しつぶされていく。
(僕じゃ……抑えきれない!!)
巨大影の眼が“笑った”ように見えた。
――グォァァァァッ!!
停止領域の外側で爆音が弾け、リオが跳び込んできた。
「凪!! 今だ!!」
その拳が、
停止領域の“外”から、
巨大影の“身体が存在していない場所”へ叩き込まれる。
衝撃ではなく、“存在の揺らぎ”を一時的にズラす強制軌道変化。
リオの陣技――
《軌道衝乱拳》。
停止して動けない巨大影の体が強制的に“外側へ滑らされる”。
その瞬間――
凪の停止領域が一気に崩れた。
(……っ……!)
激痛が脳を裂く。
意識が飛びかける。
つぐみの声が響く。
「今! ずれた! 軌道がズレてる!!あのまま押し出せる!!」
イオがすぐさま指示を放つ。
「レイナ隊! 補助陣を展開しろ!!周囲の空間を内側に“押し返せ”!!」
「了解!!」
複数の隊員が壁に陣素子を展開し、第二訓練区画全体がうねりを生む。
巨大影はまだ存在が不安定。
その歪んだ脚が床に沈み込み、空気に食い込み、揺らぎながら後退していく。
リオが吠える。
「もう一発ッ!!」
拳が光り、軌道がさらにねじ曲がる。
凪は倒れかけながらも必死に見ていた。
(……すごい……リオさんが……押してる……!)
イオが凪を抱きかかえながら声を落とす。
「凪、もう能力を使うな。脳が……持たない」
「……大丈夫……です……みんなが……戦ってる……から……」
「戦ってるからだ。俺たちが守る。だから、お前は倒れるな」
イオの腕は強く、温かかった。
つぐみが叫ぶ。
「戻っていく!! ゲートの裂け目に押し返せる!!」
レイナ隊が補助陣を最大出力で展開し、壁一面が青い光で満たされた。
イオが最後の指示を出す。
「全隊――押し返せ!!!」
――ドォンッ!!!
巨大影が強制的に後退し、裂け目に飲み込まれる。
その瞬間、赤い“眼”が最後に揺らぎ、凪の方を――もう一度だけ見た。
(……なんだ……なんで……僕を……)
――バシュッ!!
ゲートが閉じた。
空間が元に戻り、赤い警報灯だけが薄暗く揺れる。
静けさが戻った訓練区画で、誰もが息を呑んで立ち尽くしていた。
つぐみが凪の元へ駆け寄る。
「凪くん!! ねえ、意識ある!? どこか痛いとこは――」
「痛く……ない、です……ちょっと、頭が……ぐらぐらするだけで……」
リオが額の汗を拭いながら笑った。
「危なかったけど……お前の停止、すげぇよ。あれなかったら、俺らとっくに潰されてた」
「……僕は……また、勝手に使ってしまって……」
イオが凪の頭に手を置く。
「怒ってない。むしろ、よく耐えた。でもひとつだけ覚えろ。“能力を使う理由”は、自分で選べ」
「……理由……?」
「恐怖や焦りで使えば、能力は必ず暴走する。お前の静中動は、特にそうだ。だから次からは――」
イオの声が静かに響く。
「“助けたい”と思ったときだけ使え。それが、お前を壊さない唯一の道だ」
その言葉が凪の心に深く刺さり、胸の奥で何かが静かに灯った。
(……助けたいときだけ……使う……)
イオ、リオ、つぐみ、そして周囲の仲間たちの姿が、ぼんやりと揺れながらも温かく見えた。
(……僕は……ひとりじゃない)
凪は、深く息を吸った。
その直後――
基地全体に新たなアラームが鳴り響いた。
――《本部より通達。ただいまのゲート異常は、“大型歪曲個体・仮称ナンバーゼロ”と判明。Sランク部隊“白鷺ユニオン”が調査に入る。該当エリアの隊員は即時撤収せよ》。
“白鷺ユニオン”。
日本最強のSランク部隊。
その名前が響いた瞬間、空気が震えた。
イオが立ち上がり、凪を支えたまま言った。
「――動き出したな。世界の裏側が」
巨大影の赤い眼が、凪の脳裏に焼き付いて離れない。




