プロローグ:晴れた日のこと
灰色の世界にも、晴れた日があった。
それは、今となっては誰にも証明できないほど昔の話で、
いまのルナが生きる世界とは違っていた。
空は青かった。
雲はゆっくり動き、太陽はあたたかく、
世界はまだ“終わらない”と信じられていた頃。
ルナにも、ひとり大切な家族がいた。
名前はカイ。
年の頃は六つか七つ。
痩せっぽちで、よく笑い、ルナの後ろをトコトコついてまわる子だった。
「ねえルナ、空ってなんで青いの?」
「知らん。勝手に青くなってんでしょ」
「えー、そんな答えずるい!」
そんな、なんでもない日常があった。
世界が崩れ始める前、
まだ空が色を持っていた頃の話だ。
この街には、古い公園があった。
枯れかけた木が何本かと、錆びついたベンチ、壊れた噴水。
子どもが遊ぶには頼りない場所だったけれど、
カイはそこで空の絵を描くのが好きだった。
ある晴れた日、スケッチブックを膝に広げたカイが、
クレヨンを握りしめて首をかしげていた。
「空の色って、どの青なんだろ」
「青なんて青でいいじゃん」
「違うよ。うすい青もあるし、きれいな青もあるし……空の青ってさ、なんか全部の青が混ざってる気がするんだ」
「哲学かよ。七歳にして重いんだけど」
「重くないもん!」
むくれて、また笑う。
ルナはその横顔を眺めながら、眠そうに目を細めた。
「じゃあさ、空がもし青じゃなくなっちゃったら?」
「そんなのイヤだよ。えーっとね……」
カイはしばらく空を見上げ、
スケッチブックにぐしゃぐしゃとクレヨンを走らせた。
「ほら!」
描かれたのは、不格好な空の絵。
でもその色はとても鮮やかで、
カイの“知っている空全部”が混ざり合っていた。
ルナはクスっと笑った。
「うん。……悪くないじゃん」
「へへ。ルナの好きな色にしたよ」
「え、私の好きな色って何?」
「知らないけど!」
「適当かい!!」
そんなやりとりが、
今となっては胸が締め付けられるほど愛しい。
ある日、街の上空が突然濁り始めた。
排気塔が暴走し、空に有害な霧を撒き散らした。
街は避難命令で混乱し、人々は我先に逃げ出した。
ルナもカイの手を握って走った。
小さな手は汗ばんでいて、怖くて震えていた。
「ルナ、空が……息もできない……!」
「大丈夫、もう少しで安全区画……!」
だが濁流のような煙が街を覆い、
視界は真っ白になった。
走って、転んで、また走って——
どこに逃げていたのかも曖昧になるほど混乱していた。
ふっと、ルナの手からカイの手が離れた。
「カイ!?」
白い霧の中、咳き込みながら振り返る。
だれかの影が倒れ込むように崩れている。
「カイ!!」
抱き起こす。
カイは目を薄く開けていた。
息が浅く、胸が小さく震えている。
「ルナ……」
「大丈夫! 大丈夫だから、しっかり——!」
「空……青に、戻るかな……」
ルナは答えられなかった。
そのとき、自分がどれだけ泣いたのか、もう思い出せない。
世界が終わっていく音の中で、
青い空の絵だけがやけに鮮明だった。
それから、世界は灰色になった。
街は廃れ、人は散り、空は重く淀んでいった。
ルナはカイの絵だけを胸ポケットに入れ、
歩くことを選んだ。
空が青かった日の記憶は、
今の世界のどこにも残されていなかった。
でも、ルナには確かにあった。
忘れたくても忘れられない記憶。
忘れたふりをしても、胸の奥でとどまっている痛み。
世界のどこかで、もう一度、
あの日みたいな空が見たい。
その思いが、ルナを灰色の旅へと押し出した。
ある日、ルナはとある酒場で、不思議な話を聞いた。
“空を少しだけきれいにできる機械がある”と。
胸が痛んだ。
呼吸が苦しくなるほど、強い感情が湧いた。
「少しだけ……?」
「はい。少しだけです」
少しでいい。
本当に、少しでいい。
その“少し”が、どうしても欲しかった。
ルナは胸ポケットの中の紙切れを握りしめた。
クレヨンの痕跡。
ぎこちない空の色。
「行く。……そのタワー、どこ?」
たったそれだけで、旅は始まった。
そして——
バイオタワーの装置の前に立ったとき。
『記憶を燃料にする必要があります』
AIの声を聞いたルナは、ほんの少しだけ笑った。
「……そっか。いいよ」
指がボタンに触れた瞬間。
カイの笑顔。
青い空。
スケッチブック。
ルナの名を呼ぶ声。
息をするように描かれた空の色。
そのすべてが、光に溶けていった。
「ほんの少しでいいから……空、きれいになれよ」
小さな呟きは、
すぐに霧の中でかき消された。
その記憶は、完全に失われた。
タワーを出たルナは、胸ポケットに手を入れた。
何が入っているのかは思い出せなかった。
けれど、薄い紙片の感触はそこにあった。
「……誰のだっけ?」
思い出せない。
でも、なぜか大事に思えた。
空は、ほんの一部だけ透けるような色をしていた。
ルナは煙を吸って、吐いた。
「ま、いっか」
彼女は歩く。
記憶をひとつ失い、
理由もわからず“空をきれいにしたい旅”を続ける。
その裏側に、
たったひとりの人間が描いた空が息づいていることを知らないまま——。




