「片耳の時計台」
その街は、近づく前から静かだった。
いつもの廃墟の街の静けさとは違う。
音が“消されている”ような、不自然な静けさ。
歩道には人がいる。
屋台も開いているし、通りの中央では子どもたちが紙風船のようなものを追いかけて遊んでいる。
なのに、誰も声を出していない。
「……なんかホラーな雰囲気出てるんだけど」
ルナはぼそっと呟き、電子タバコを吸いながら歩を進めた。
人々の耳には、古いイヤーマフや布が巻かれている。
季節は寒くもないのに、全員が耳を覆っているのだ。
街の中央には巨大な建造物がそびえていた。
石造りの時計台。
周囲より数倍は古そうな外観だが、頂上には大きな鐘が据えられている。
「……なるほど、耳塞ぐ理由はあれか」
そう思ったときだった。
――ゴォォォォォォォォン。
腹の底を揺らすような衝撃の音が鳴り響く。
音というより、圧そのものが空気を押しつぶすような感覚で、ルナは思わず耳をふさいだ。
「っ……うるさ……!」
だが周囲の住民は、顔色ひとつ変えていない。
布で覆った耳の上から淡々と歩いている。
「なんで普通にしてんだよ……これ、絶対聴力死ぬでしょ」
ルナが顔をしかめながら言うと、後ろから若い青年が声をかけてきた。
「旅の人ですか?」
青年は片耳だけに厚い布を巻いていた。
もう片方には痕が残り、機能していないことが一目でわかる。
「まあ、そんな感じ」
「なら……驚かせてしまいましたね。この街の“挨拶”みたいなものなんです」
「あの轟音が?」
「ええ。あれは、時計台がまだ生きている証です。あの音が鳴る限り、街は“ひとつの時間”を共有できる」
「……耳壊れないの?」
青年は片耳を軽く叩いて笑った。
「もう壊れていますから。だから大丈夫なんです」
「ぜんぜん大丈夫じゃないと思うけど」
青年は苦笑しながら、時計台を見上げた。
「あれは、もうじき止まります。最後の音を、誰かに聞いていてほしくて……」
「聞くの? あれを?」
「聞こえる人に聞いてほしいんです。僕らはもう片耳が使えませんから」
ルナは少しだけ空を見上げた。
時計台の針はゆっくりと動いているが、時折ひっかかるように震えていた。
もう尽きかけている機械の動きだ。
「……まあ、暇だし。付き合うよ」
「本当ですか!?」
青年は露骨に嬉しそうな声を出した。
そのテンションの高さに、逆にルナが引き気味になる。
「そんな喜ぶほどのこと? 私、ただ立ってるだけだよ」
「はい。けれど……“聞こえる耳”で最後を見届けてくれる人が、ずっと欲しかったんです」
青年はルナを案内し、時計台の内部へと連れていった。
内部の階段は古く、湿気で木板が膨張していた。
ところどころ苔が生えている。
天井からは蜘蛛の巣が垂れ、足音だけが塔の中に響いた。
「こんな塔、よく崩れないねぇ」
「毎日鳴っているから、逆に丈夫なんです。音が建物を支えていた……って整備士の人が言っていました」
「理屈として合ってるのかわからないけど……そういうものなのね」
頂上に近づくにつれ、空気が澄んでいく。
重たい灰色の空が、窓の隙間からちらりとのぞく。
「ここです」
青年が案内した先に、巨大な鐘と、年季の入ったロープがぶら下がっていた。
ロープは何度も握られたのか、ところどころ黒ずんでいる。
「この鐘、もう限界なんです。
内部の歯車も摩耗して、次を鳴らしたら……たぶん壊れます」
「……壊すために鳴らすの?」
「いえ。終わる前に、“生きている音”を聞かせてあげたいんです」
「なるほどね」
ルナは軽く首をまわし、息を吐いた。
「じゃ、聞かせてもらいましょうか。最後の音」
青年はロープを強く握り締め、ゆっくりと力を込めた。
長いロープが擦れ、鐘の内部で金属が重たく鳴る。
次の瞬間——
――ゴォォォォォォォォン。
圧が全身を包み、世界が一瞬白くなるような衝撃が走った。
胸の内側の空洞が震え、骨が軋む。
それでも、ルナは耳を塞がなかった。
鐘の音は、ただ大きいだけの騒音じゃない。
どこか悲しげで、どこか優しくて、
長い間この街を見守ってきた“息遣い”が混ざっていた。
「……きれいな音だね」
「聞こえたんですね……!」
「うん。すっごい重たいけど」
青年は目を潤ませながら、もう一度ロープを握る。
ルナは止めようとは思わなかった。
彼の手が震える理由が、なんとなく理解できたから。
もう一度、鐘が鳴る。
――ゴォォォン。
二度目の音は、最初より弱かった。
鐘の表面に大きな亀裂が走り、ゆっくりと崩れ落ちていく。
青年が息をのむ。
「あ……」
針が止まった。
時計台の歯車がすべて静止し、長い間刻み続けた街の時間が、ようやく終わった。
風が吹き抜ける音だけが残る。
青年はロープを離し、鐘の残骸に触れた。
「これで……休ませてあげられました」
「そういう終わり方も、悪くないよ」
ルナは電子タバコを吸い、ゆっくりと煙を吐く。
「鐘は止まったけど、音は残るしね。……耳の奥とかさ」
青年は嬉しそうに笑った。
「旅の人。本当に……ありがとうございました」
塔を降りると、街の人々が静かに鐘の方へ手を合わせていた。
誰も声を出さないまま、
でも全員が“別れの挨拶”をしているのがわかった。
ルナは路地裏に出て、少しだけ空を見上げた。
相変わらず灰色の雲は重たいが、鐘の音が胸の奥に残っているせいか、さっきよりも明るく見えた。
「音の記憶って、消えにくいよね……」
誰に言うでもなくつぶやき、煙を吐く。
「忘れてるはずのものも、突然思い出したりするし。……まあ、私の場合は逆も多いけど」
記憶の欠片が胸の奥で揺れる。
何か大切なものを失った気がするのに、それが何なのかは掴めない。
「ま、いっか。今は鐘の音は覚えてるし、それでいいや」
ルナは灰色の街を後にし、
再び気だるげに歩き出した。
電子タバコの赤いランプが、
まだ止まっていない旅の鼓動みたいにちかりと光った。




