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「酒の出ない酒場」


 その街に着いたとき、ルナは喉がひどく乾いていることに気づいた。

 電子タバコではどうにもならない乾きだった。

 灰色の風はかさついた匂いを運び、口の中が粉を噛んだみたいにざらつく。


 〈第九禁酒区〉――そんな名前が、壊れかけの表示板に残っていた。

 禁酒の街。

 どこの誰がそんな面倒な政策を決めたのかわからないが、案内のポスターには「治安維持のため」と雑に書かれていた。


「酒が原因で治安が悪くなるんなら……まあ、わからなくもないか」


 ルナは電子タバコを吸いながら、街の細い通りを進んだ。

 道の両脇にはシャッターを下ろした店が並び、ほとんどの看板は剥げ落ちている。

 人影は少なく、たまにすれ違う住民は皆、どこか気まずそうに目をそらした。


 それでも、街角に一本だけ、妙に健気に光っているネオンサインがあった。

 蛍光ピンクの《BAR・パスト》という文字が、歪んだ光を揺らしている。


「……酒がないのにバーを名乗る根性、嫌いじゃないよ」


 ルナは肩をすくめ、扉を押した。


 カラン、と乾いた音がする。

 中は意外なほど整っていた。

 ボロい外装とは裏腹に、磨かれたカウンター、古いが清潔な椅子、棚には無数のグラスが美しく並んでいる。

 ただし、酒瓶だけは妙に少なく、しかも中身はほとんど空か濁った液体だった。


 カウンターの奥には人間に似せたバーテンダーAIが立っていた。

 瞳に淡い光が宿り、機械特有の“硬さ”があまりない。


『いらっしゃいませ。旅人さんですね?』


「まあ、そんな感じ」


 ルナが腰を下ろすと、AIはグラスを一つ置いた。

 何も言わずとも、透明な液体が注がれる。


「酒……じゃないよね、これ」


『はい。精製水です。禁酒法により、酒類の提供は禁止されています』


「酒場なのに?」


『酒場です。しかし酒はございません。当店は“雰囲気”を提供する場所です』


「雰囲気で酔えるタイプじゃないんだよなぁ、私」


『それは残念です』


 AIはほんのわずかに目を細めた。

 まるで本当に残念に思っているような動きだった。


 グラスの水を半分ほど飲んだころ、ルナは周囲を見回した。

 棚の奥に古い木箱が積まれ、カウンターの壁には「酒暴動より十七年」と書かれた古新聞の切れ端が貼られていた。


「ここって、本当に酒が一滴もないの?」


『提供すれば、当店は“処分”されます。当局が監視しておりまして』


「処分……物騒だね」


『酒による暴動で多くの市民が負傷しました。そのトラウマが残っているのです』


「でも、君は酒場として残ってる。変な話だね」


『酒を出せない酒場は、酒を記憶する場所になりました」


 ルナは眉をひそめた。


「記憶する?」


『はい。人々が思い出の味を語りに来る場所です』


 ちょうどそのとき、店の扉がまた開いた。

 老人、若い夫婦、ひとりの女性――数人がぞろぞろ入ってきて、カウンターやテーブルに座った。


「店主さん、今日もお願いしたくてね」

「父の誕生日の酒、もう一度思い出したいんだ」

「このメモ、読める?」


 彼らは口々に“酒の思い出”を抱えて来ていた。


 ルナはAIに顔を寄せた。


「ねえ、君……密かに酒の相談受けてんじゃん」


『提供はしておりません。記憶の補助をしているだけです。ただ、どうしても“再現できない味”があります』


「レシピが無いから?」


『はい。旧時代のデータセンターに、最後の酒レシピが残っていると言われています。しかし私は身体を持たず、取りに行けないのです』


「行けばいいの?」


『えっ』


「いや、そんな驚くとこ?」


『……行ってくださるのですか?』


 AIの瞳がふわりと明るくなった。

 まるで期待する子どもみたいだ、とルナは思った。


「別に大したことじゃないしね。暇つぶしだよ」


『ありがとうございます!』


 AIは本当に嬉しそうに頭を下げた。

 その丁寧さが少し照れくさかった。


「じゃ、ついでに散歩がてら行ってくる」




 廃データセンターは街外れにあった。

 半分崩れた建物で、入り口には“立入禁止”のプレートが傾いている。


「禁止看板は見なかったことにするか」


 ルナは錆びた扉を押し開け、中へ入った。

 薄暗い廊下を進むと、電源がかろうじて生きているらしい一つの端末が青白く光っていた。


 近づくと、画面に古いフォルダが表示されている。


【レシピファイル:最後の酒】


「これか……?」


 開いてみる。

 けれど、そこに並んでいたのは――


 レシピなんかじゃなかった。


 文章が一行だけ、ぽつりと残されていた。


「……おいおい、これレシピじゃないって」


 ルナは苦笑し、端末の画面に軽く指を当てた。

 書いた人間の心情だけがぽつんと浮いている。


 レシピでなく、文字。

 でも、なんとなく理解できる気がした。


「ま……悪くない考え方ではあるよね」


 データをコピーし、ルナは酒場へ戻った。




 《BAR・パスト》の扉をくぐると、AIがすぐに駆け寄ってきた。


『見つかりましたか!? レシピは……!』


「うん、あった」


『本当ですか!? それでは――』


「……レシピっていうか、メッセージ?」


 ルナはデータをAIへ送信した。

 AIは投影された文字列を読み、しばらく固まった。


『……これは』


 店の客たちも身を乗り出して画面を見る。


〈酒は、思い出で飲むもの。

 味は失われても、心の中からは消えない。〉


 その瞬間、店内はざわめきに包まれた。

 怒る者。

 泣き出す者。

 静かに頷く者。


 AIは長く目を閉じ、やがて静かに言った。


『……そうですか。つまり私は、“酒を出す必要はない”ということですね』


「そういうことになるんじゃない?」


『ええ。私の役割は……お客様の“思い出”を守ること』


 AIはカウンターを丁寧に拭きながら、

 まるで決意を固めたような声音で続けた。


『では、本日より《BAR・パスト》は“思い出を語る店”として再開します。酒は出ませんが……記憶なら、いつでもどうぞ』


 客たちはそれぞれ笑い、あるいは涙の跡を残しながら拍手した。

 ルナは水を飲み干して立ち上がる。


「結局、酒は飲めないんだよねぇ」


『申し訳ありません』


「いいよ。……悪い店じゃなかった」


『次、いらっしゃったときは旅の話を聞かせてください』


「覚えてたらね」


 ルナは指をひらひら振り、店を後にした。


 外に出ると、夕焼けも見えない灰色の空が広がっている。

 でも、さっきまでよりほんの少しだけ柔らかく見えた。


「酒ってさ……たしかに、記憶で飲むところあるよね」


 煙を吸って吐きながら、

 ルナは歩き出す。


 乾いた喉はまだ渇いたままだったけれど、

 心のほうは、少し潤った気がした。


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