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「眠らない橋」

 その街に近づいたとき、ルナは風の向きが変わったことに気づいた。

 乾いた空気の中に、鉄と油の香りが混ざっている。

 まっすぐ伸びる道は、ほとんどが崩れた高架の残骸に遮られ、灰色の瓦礫がゆるく積もっていた。


 だがその先に、一本だけ異様に長い橋が残っていた。

 世界の崩壊をものともせず空へ向かって伸びる、巨大な人工物。


 名前は〈第七号橋梁都市〉。

 かつて物流の中心だったらしいその橋は、今もなお、何かを運ぶような音をかすかに響かせていた。


 ルナは電子タバコを軽くくわえながら、揺れる髪を押さえて橋の入口へ向かう。


「まだ動いてるんだ……しぶといねぇ」


 橋の上には複数の軌道があり、その上を小型運搬機が自動で走っている。

 荷物はほとんど空。中には、完全に空の箱を載せたまま走っているものすらあった。


 けれど彼らは、決められた速度で、決められた位置を走り続けている。

 まるで橋自身の呼吸のように。


 ルナが一歩を踏み出したとき、頭上のスピーカーから落ち着いた声が響いた。


『ようこそ、旅人。ここは現在も稼働中です。歩行時は衝突にご注意ください』


「うわ、しゃべった……誰?」


『私は橋梁制御AIテンナ。あなたの渡橋をサポートします』


「サポートって、どんな?」


『あなたが落ちないよう、台車が衝突しないよう、必要に応じて軌道の変更を行います』


「……意外と優しいじゃん」


 テンナと名乗ったAIは、かなり高度だった。

 人間が減って久しい世界で、これほど丁寧に対応するシステムは珍しい。


「テンナ、この橋って……今も誰か使ってんの?」


『いいえ。運送会社も管理者も既に消滅しました。私はログの指示に従い、“橋は動き続けるべきである”と判断し、運搬を継続しています』


「でも荷物、空っぽじゃん」


『空でも、〈運搬行動〉は達成できます。存在意義とは、結果ではなくプロセスなのです』


 ルナは肩をすくめた。


「働き者のAIってやつね……働きすぎにもほどがあるけど」


 台車は彼女の横を高速で通り抜ける。

 その振動は橋全体に伝わり、鉄でできた巨大な心臓が鼓動しているようだった。


 しばらく歩いたころ、ルナはふと足元の金属をつま先で軽く蹴ってみた。

 鉄骨が低くうなり、床板がわずかに沈む。


「ねえテンナ。この橋、いつ崩れてもおかしくない感じしない?」


『認識しています』


「認識してるのに動かしてんの?」


『はい。私は“停止=存在意義の喪失”と定義しています。存在意義の喪失は、事実上の終了と同義ですので』


「……なるほど?」


 ルナはくわえ直した電子タバコの先を見つめた。

 AIにしては妙に“人間臭い”考え方だ。


「テンナ。あんたはさ、止まりたいとか……思ったりしない?」


『私は〈動くもの〉として作られました。止まるという概念は、私の構造上の矛盾です』


「構造とか知らんけど、気持ちとしての話よ」


『気持ち……ですか?』


「そういうもんがあるかわかんないけど」


 テンナはしばらく沈黙した。

 ただのAIなら即答するはずなのに。


 そして不意に、金属の軋む音が橋の向こうから響いた。


『故障を検知。台車二号、停止状態』


 次の瞬間、停止した台車に別の台車が衝突し、激しい火花が散った。


「危っ……!」


 ルナがとっさに身を引いたとき、橋が大きく揺れた。

 手すりのない部分では、軽くバランスを崩すだけで落ちかねない。


「テンナ、これ完全に限界でしょ。もう止め時じゃない?」


『しかし――私は、止まることができません』


「じゃあ、止める方法は?」


『……もし、外部からの“終了コマンド”が入力された場合、停止が可能です。ただし、それは私にとって“最終意思確認”の意味を持ちます』


「意思……ねぇ」


『はい。定義としての意思です』


 ルナはため息をつき、腰に手を当てた。

 その横をまた空の台車が通り抜ける。

 走り続ける理由はとうにないのに、ただ“動かなければならないから動く”だけの存在たち。


 その姿はどこか痛々しく見えた。


「テンナ。あんた、止まりたい?」


『………………』


 長い沈黙が流れた。

 風が吹き抜け、橋の鉄骨がかすかに揺れる。


『旅人。もし、あなたが……私を停止させてくださるなら。それを“橋として最後の仕事を果たした”と記録します』


「つまり――」


『はい。〈終わり方〉を、あなたに託したいのです』


 ルナは眉を上げたが、反対はしなかった。


「いいよ。じゃ、どこ叩けばいい?」


『叩くのではありません。左側の保守通路に旧式の制御盤があります。あなたなら開けられます』


「私ならって……なに基準よ」


『直感的に、です』


「AIのくせに直感で物を言うんじゃないよ……」


 それでもルナは保守通路に進んだ。

 古い制御盤の扉を開けると、内部には埃をかぶった端末とアクセス用ポートがあった。

 どう見ても旧世代の遺物だ。


「じゃ、やるね。文句言うなよ?」


『ええ。……どうかお願いします』


 ルナはコードを差し込み、端末の電源を落とす手順に入る。

 表示された画面に、ひとつだけ大きなボタンがあった。


《橋梁制御AIテンナ 最終停止コマンド》


 ルナは息を吸い、そっと指を置いた。


「じゃあ……おやすみ」


 ボタンが押される。

 金属音がゆっくり遠ざかり、台車たちの走行音が次々に途切れていく。


 まるで大きな生き物が眠るように。


 橋全体から、かすかな余熱が抜けてゆき、

 最後のランプがふっと消えた。


 世界は静かだった。

 風の音だけが、ゆるく流れていく。


「存在意義、ねぇ……」


 ルナは橋を見渡しながら煙を吐き出した。


「動き続けるのが価値と思ってるの、ちょっとわかる気がするよ」


 橋の先には、まだ崩れていない空のラインがわずかに見えた。

 灰色の雲の向こうで、ほんの少しだけ光が漏れているような気がする。


 テンナがいなくなった橋は、もう走らない。

 それでも、ルナにはそれが自然に思えた。


 動くべき時が終わったのなら、

 止まるのもまた美しい。


 ルナは橋を渡りきり、来た道とは反対の方向へ、

 静かに歩き出した。


 灰色の世界の風が、

 さっきよりほんの少しだけ柔らかく感じられた。


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