エピローグ:空の街
世界が少しだけ壊れたあと、ルナはずっと歩き続けている気がした。
どこから歩き始めたのかは、もうよく思い出せない。
ただ、足を止めた瞬間に世界のほうが先に止まりそうな気がして、なんとなく前に進んでいる。
ひび割れた舗装路の上をブーツがこつこつと鳴る。
アスファルトの割れ目からは、妙に元気な雑草が顔を出し、灰色の世界にやたらと濃い緑を差し込んでいた。
頭上には、今日もきっちり曇りきった空。
どんよりした雲が一面に貼りついていて、太陽の位置すらよくわからない。
「……まあ、今日もちゃんと灰色ってことで」
ルナはぼそっと呟き、唇に電子タバコをくわえた。
吸い込むと、先端のランプが淡く赤く灯る。
煙は紙巻きほど濃くないが、味だけはそれなりにそれっぽい。
肺に流れ込んだ蒸気をゆっくり吐き出しながら、彼女は空を一度見上げた。
空は、いつからこんな色だったっけ――。
そう考えた瞬間、胸の奥でなにかが引っかかった。
小さな棘みたいな、ひっかき傷みたいな違和感。
何かを忘れている、という感覚だけが形にならずに残る。
「……まあ、いっか」
思い出せないものは、たぶん大したことじゃない。
そう雑に結論づけて、また歩き出す。
とはいえ、まったく理由がないわけでもなかった。
ルナは、自分でもうまく説明できないけれど、
――空を、少しだけでいいから、きれいにしたい。
そんな願いを、ときどき自分の内側で見つける。
全部を元に戻したいほど真面目じゃない。
世界を救おうなんて立派な使命感もない。
ただ、あの重たい雲が、ほんの少しだけ薄くなったらいいのに、と。
どうしてそう思うのか、その理由だけがすっぽり抜けていて、ルナはそれが少しだけ気味悪かった。
その日、ルナがたどり着いたのは〈第十七暗渠区〉と呼ばれる街だった。
かつて川を暗渠にして、その上に再開発されたとかなんとか。前の町で会った、誰かが言っていたような気がするが、詳しいことは知らない。
入口のゲートは、半分以上サビに食われていた。
看板のかろうじて読める文字をつなげると、《ようこそ》と書いてあるらしい。
「ようこそ、って感じじゃないんだよなぁ」
ぼやきながらルナはゲートをくぐる。
街の中はやけに静かだった。
人影はほとんどなく、その代わりに清掃ドローンや巡回用の小型ロボットが淡々と往復している。
立ち並ぶ高層ビルのガラスは割れたまま放置され、割れていない窓には古い広告や『避難済』のステッカーが貼られたままだ。
頭上では監視カメラのレンズが小さく動く音がする。
「人間は減ってんのに、監視の目だけは元気なんだよね、この世界」
皮肉っぽく言って、ルナは喉の渇きをごまかすようにまた一口、煙草を吸った。
この街についてひとつだけ知っていることがあった。
――どこかに、“空をちょっとだけまともにする”装置が眠っている。
誰かがそう言っていた。いつ、誰に聞いたのかは曖昧だ。
ただその言葉を聞いた瞬間、胸の奥のひっかかりが僅かに強くなって、それで「寄ってみるか」と思った。
世界を救いたいわけじゃない。
ここだけきれいになったところで、他の場所が灰色のままなのは変わらない。
それでも、“ちょっとだけでも空が変わる”という響きには、抗いがたい何かがあった。
街の外れに、まだ営業しているらしい酒場を見つけた。
外壁はボロボロだが、看板だけはかろうじて点灯している。
扉を押すと、古びたベルが控えめに鳴った。
中にはカウンターがあり、その奥ではアンドロイドがグラスを拭いている。
片目の光が時々ちらついているあたり、相当な年季ものだ。
『いらっしゃいませ。旅人さん……でしょうか』
アンドロイドの声は意外と柔らかかった。
ルナはカウンター席に腰を下ろし、周囲を見渡す。
棚にはボトルが並んでいるが、中身はほとんど空か、何かよくわからない液体が入っている。
カウンターの端には、やけに立派なコーヒーメーカーが鎮座していた。
酒場のくせに、酒がまともに出てくる気配はない。
「喉乾いたんだけど、飲めるものある?」
『飲料用の精製水なら。加熱もできますが』
「……じゃあ水で」
アンドロイドが静かにグラスを満たす。
ルナはそれを片手で持ち上げ、ひと口だけ飲んだ。
味は、ちゃんと無味だった。
「この街、なんか変な噂聞いたんだけどさ」
『変な噂は、だいたい本当です』
妙な自信を込めてアンドロイドが答える。
「空をちょっとだけきれいにできる機械がある、とか」
『ええ。バイオタワーですね。ここから少し北に行ったところにそびえています。
空気浄化と気候制御のために作られましたが……』
「が?」
『人間が逃げて、放置されました。今は“神様の残骸”みたいな扱いですね。誰も近寄りたがりません』
アンドロイドはカウンターを軽く叩いた。
『タワーの中には、警備装置でも、怪物でもない、“何か”がいると言われています。
私は行ったことがないので、詳しくは知りませんが』
「へえ」
ルナは水をもうひと口飲み、肩をすくめた。
「まあ……暇だし。行ってみよっかな」
『世界を救うため、ですか?』
「暇つぶし。あと、ちょっとだけ空をマシにしたい気分」
アンドロイドは、ほんの少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
『あなたのような旅人がまだいるということは、世界もまだ終わりきれてないのかもしれませんね』
「終わりきってても、終わってなくても、私は歩くしかないんだけどね」
ルナはグラスを空にして立ち上がる。
支払い用の小さなクレジットチップをカウンターに置き、軽く指を振って酒場を出た。
扉を閉める直前、アンドロイドがぽつりと呟いた。
『空が少しでも晴れたら……ここからも、見えるといいのですが』
バイオタワーは、街の北側で灰色の建物群の上に不自然なほど高く突き出していた。
外壁はつるりとしていて、本来は清潔感のある白だったはずだが、今は苔と排気ガスの汚れでまだらな緑灰色になっている。
タワーの入り口は半開きになっていて、風のせいか、時々ぎい、と軋んだ音を立てていた。
「……掃除の概念、失われた?」
ルナは半分諦めた顔で中に足を踏み入れる。
内部はひんやりとしていて、外よりも少し湿気が多い。
壁には蔦が這い、足元には発光する苔のようなものが点々と広がっていた。
有機物と無機物が混ざり合って、どことなく“生きている建物”のようにも見える。
「バイオタワーっていうよりバイオジャングルなんだけど」
文句を言いながらも、ルナは足を止めない。
苔の光だけだと心もとないので、懐中ライトを点け、足元を照らしながら進む。
ふいに、空気が僅かに変わった気がした。
『――ようこそ、旅人』
頭の中に直接響くような、しかしはっきりとした声。
ルナが立ち止まると、前方の空間に光の粒が集まり、人型を形作った。
透明な人影。
輪郭は曖昧なのに、不思議と“見られている”感覚が強い。
『バイオタワー管理インターフェースです。名前は……そうですね、便宜上”ガーディアン”とでも呼んでください』
「ガーディアンねぇ。顔の割に物騒な名前」
『思考のセンスは、設計者の責任です。私はただここを守る役割を与えられました』
光の人影――ガーディアンは、静かにルナを見つめた。
『空を取り戻しに来たのですね』
「取り戻すってほど大それたもんじゃないよ。ちょっとだけマシになればいいかな、っていうくらい」
『理由は?」
「さあ……」
ルナは首をひねり、曖昧に笑った。
「昔、なんかあった気もするけど。忘れた。思い出そうとしても、頭の中で霧が濃くなるだけ」
『記憶の欠損を自覚しているのに、不便は感じないのですね』
「不便は感じるよ。でも、なくても歩けちゃうからさ」
ガーディアンは、その言葉を一瞬咀嚼するように沈黙し、それから言った。
『あなたのような旅人を、私は以前も見た気がします』
「デジャヴ?」
『データにそう記録されています。ただし、一部の記憶が欠損しており、詳細は参照不能です』
「……そう」
ルナの胸の奥で、またひっかかりが疼いた。
けれど、それもすぐに霧の向こう側へ落ちていく。
「まあ、過去なんて曖昧なもんだし。今ここに装置があるなら、それで十分かな」
『こちらへどうぞ』
ガーディアンがタワーの奥へ進む。
ルナが後を追うと、通路の壁が少しずつ滑らかな金属に変わっていった。
やがて、一際広い円形の部屋にたどり着く。
部屋の中央には、透明な柱のような装置が屹立していた。
中には薄青い光の粒が漂い、ゆらゆらと立ち昇っている。
「これが?」
『局所空域調整システム。この街の上空の汚染を一時的に分解し、わずかですが空を澄ませることができます』
「いいじゃん」
『ただし』
ガーディアンの声が、ほんの少しだけ低くなった。
『この装置を動かすには、“燃料”が必要です。通常のエネルギー源は枯渇しており、現在利用可能なのは――』
「嫌な予感しかしないんだけど」
『人間の“記憶”です』
空気がひやりとする。
ルナはポケットから電子タバコを取り出し、口に咥えた。
吸って、吐く。その作業だけで心が落ち着く。
「記憶って、そんなガソリンみたいに扱えるの?」
『この装置は、人間の脳波パターンを読み取り、その中から“特定の記憶の束”をエネルギーに変換します。一つの記憶群を完全に失う代わりに、空はしばらくの間だけ軽くなります』
「誰の記憶でも?」
『はい。ここにいるあなたの記憶でも、過去に登録された誰かの記憶でも』
ルナは装置の中央にある、小さな操作パネルを見つめた。
そこには指先ひとつで押せそうな、やけに軽そうなボタンがひとつある。
「私の記憶を使ったら……私は何を忘れる?」
『それは選べません。ただし、“あなたにとって強く結びついたひとつの記憶の束”が失われる可能性もあります』
「大事なやつかもしれないじゃん」
『ええ。ですが、今のあなたのように、すでに“自分で思い出せない記憶”がある場合、それと重なる可能性もあります』
ルナはしばらく黙り込んだ。
吸いかけの電子タバコから、細い煙が上に伸びる。
記憶。
どうして空をきれいにしたいと思うのか、その理由が思い出せない。
なにか大事な人がいたのかもしれないし、単に昔見たきれいな景色に感動しただけかもしれない。
考えれば考えるほど、その輪郭はぼやけていく。
「……さ」
ルナは溜め息をひとつ挟んで、笑った。
「どうせさ、今の私には思い出せないんだし。燃やすなら、そういうやつでいいよ」
『よろしいのですか?』
「いい。というか、“空をきれいにしたい理由”ってやつが、そんな簡単に燃やされる程度で終わるとは思えないしね」
自分でもよくわからないことを口にしていた。
でもその言葉だけは、妙にしっくりきた。
ルナはパネルの前に立ち、装置に指先を触れさせる。
「じゃ、お願い。適当においしそうな記憶、持ってって」
『承認。記憶抽出プロセスを開始します』
ガーディアンの声と同時に、
ルナの頭の中に、ひやりとした感覚が広がった。
誰かの笑い声。
小さな手。
手渡された紙切れ。
ざらざらしたクレヨンの跡。
空の絵。
その光景が一瞬だけ鮮明になり、
次の瞬間、すべて霧に飲み込まれた。
軽い音がした。
――ぴっ。
それだけのことで、装置は動き出した。
青い光の粒が勢いを増し、柱の中を駆け上がっていく。
タワーを出ると、外の空気が少しだけ変わっていた。
さっきまで一枚の板みたいだった雲に、うっすらと透ける部分ができている。
その隙間から、弱々しいけれど確かな光が差し込んでいた。
ルナは思わず足を止めて、空を見上げる。
「……あれ」
微妙な青。
白とも灰とも言い切れない、薄い水色が雲の向こうに滲んでいる。
「この色……前にも見たような……」
言いながら、否定するように首を振った。
違う。
見たような気がするだけだ。
本当にそうかどうかは、もう確かめようがない。
胸ポケットの内側が、ふと気になった。
そこには小さな紙切れが一枚入っている。
何かの拍子でいつのまにか持っていたもので、
捨てるほど邪魔でもないからそのままにしてある。
取り出してみると、そこには、
子どもの描いたような、拙い空の絵があった。
青いような、白いような、変に混ざった色のクレヨンで塗られている。
「……誰のだっけ、これ」
いくら考えても、思い出せない。
ただ、胸の奥が少しだけ痛む。
懐かしいような、寂しいような、説明しがたい痛み。
ルナは紙切れをまた胸ポケットに押し込み、
電子タバコをくわえて一度、深く吸った。
吐き出した煙は、さっきよりも少しだけ明るい空へと溶けていく。
「ま、いっか」
誰かのためだったのかもしれない。
自分のためだったのかもしれない。
もう確かめられないことを抱えたまま、
彼女は足を前に出す。
「空、ちょっとだけマシになったし。
……今日はそれで十分」
第十七暗渠区の街並みを背にして、
ルナはまた歩き始めた。
灰色の世界は、まだほとんど何も変わっていない。
けれど、どこかで誰かが、
ほんの少しだけ軽くなった空を見上げているかもしれない――。
そんなことを、
彼女自身はたいして信じていないくせに、
ほんの一瞬だけ想像してみる。
電子タバコの赤いランプがちかりと光り、
旅人の背中を追いかけるように瞬いた。




